3. The smile that you gave me.
「見ろよ、すごくね?!」
甲高く叫びながら、拓郎が器用に前輪を浮かす。 ヘルメットをつけていないために、茶髪が風にばさばさと晒されている。一度でいいから顔面に風を受けてみたかったらしい。 紛うことなき馬鹿だ。
「あいつ、世界が終わる前に事故って死にますね!」
風に負けじと叫ぶと、笑いを含んだ同意の声が同じく大声で返された。
赤いキャミソールの上に黒のカーディガンを着た先輩の腰に、俺は腕をまわしている。そして後悔している。まさか世界終焉の日になって、バイクの免許を取っておけばよかったと切実に後悔するとは思わなかった。
カーディガンを着ているせいか、俺の腕は彼女の呼吸する感触を受けない。そんな筈はないとはわかっていても、本当に呼吸しているのだろうかと、不審に思うほどに。それでも僅かな体温は掌に感じていて、それに心臓がうるさく騒いだ。
寮を出てすぐの街中の道路には車もバイクもほとんど走ってなくて、それでもどこかに行こうとする人間は結構いるらしく、意外なほどたくさんの人間を見た。そのほとんどが家族連れだった。こんな日に、一体どこへ行こうというのだろう。俺たちも似たようなものだけれど。
ふと、先輩はなんで一人になったのだろうと考えた。
耳にはまだ、あのピアノの音が残っている。いつ、ピアノなんて習ったのだろう。まだ両親が生きていた頃、幼い頃だろうか。しかしそれならあんな曲まで弾けはしないだろうし。俺はピアノに詳しくはないけれど、あの曲がそれなりにテクニックがいるものだという位は判る。幼児レベルじゃないだろう、少なくとも。
お互い天涯孤独の身の上だとは知っているが、それ以上のことを彼女が話してくれたことはなく、また聞いたことが無かった。ただ風の噂で、彼女は孤児院の出身ではないとだけ聞いていた。
実際のところ、孤児はあまり珍しいものでもない。生児の数は明らかに低下の一途を辿っているのに、 孤児は増加していた。つまりは、それだけ無責任な世の中だということなのだろう。
そして俺と拓郎はその無責任な世の中から生まれた。
お互い物心ついたときから市の施設にいたのだ。もっとも別々の場所だったから高校に入るまではまったく面識はなかったけれど。こいつと子どもの頃からの付き合いだとしたら、とてもじゃないが俺は身が持たなかったと思う。少なくとも胃潰瘍持ちにはなっていた。
俺たちのような存在は都会ではさほど珍しくも無いけど、こんな田舎ではそうもいかなかった。現にうちの学校で孤児である人間は俺たち三人だけだ。そしてその事実は未成年ばかりが集まった学校という箱の中で、時折あぶくのように浮いてしまう。だからだろうか、俺たちは学校ではお互いに距離をとってるくせに、寮では集まって話すことが多かった。
それでも突っ込んだ話はしたことがない。今日、この日でなければこうやって三人で出かける事も無かっただろう。つまりは、この人に関して俺は何も知らないのだ。
先輩は、なんで一人になったのだろう。
家族連れの人々をいま彼女がどんな目で見ているのか、その腰にしがみついている俺には知る由もない。ただ何となく、いつもと同じ温度の低い目をしているのではないかという気がした。
そんな人々も街を出て、田んぼが続く畦道を走る頃には、ほとんど見なくなった。
--------------
「俺、田舎に生まれてよかったなぁ。東京とか大阪とか、もっと人居るんだぜ。そんでこんな日には気の狂ったヤツが包丁振り回してそう」
「そんなの田舎だってわかんなくないか?」
「でも実際、ここにはいないだろ」
まぁそれもそうかと拓郎に同意してヘルメットを外すと、汗をかいていた頭皮に風が心地よい。
少し休憩を取ろうと、俺たちは小さな公衆トイレの前に止まっていた。目の前には民家が少しと、後は田んぼと禄に舗装されていない道ばかりだ。この道を辿って、あとは山をひとつ越えればその向こうに埠頭が見える。この天気ならあの濁った海も、少しはきれいに見えることだろう。
「いい天気ですね」
何か先輩に話しかけなきゃいけない気がして出した言葉は、情けなくも平凡そのものだった。おそらく世界中で使われる言葉のベストスリーには入っている。どうもボキャブラリーが少なくていけない。しかし先輩はそんな事はどうでもいいようで、そうだね、と少しぼんやりとした返事をしただけだった。
「先輩、疲れてます? 俺も運転できればいいんですけど。すみません」
「ああ、いやそうじゃなくて」
片手を振り、彼女はシートの下から煙草を出して火を点けた。ヘビースモーカーというのは本当らしい。
暑い、といいながら先輩は無造作に黒のカーディガンを脱いで、バイクのハンドルに掛けた。赤いキャミソールが、それ以上に白い肌が、太陽の光を吸い込んで目に眩しい。その細い腕がふいっと、少し遠くにある小さな駄菓子屋のような店を指差した。
「あそこで飲み物買ってこない?」
「でも開いてるかな、こんな日に」
「ここからだと開いてるように見えるけど」
さーいしょーはぐー、で始まる古典的な勝負方で負けた拓郎が、悔しげに店へと走っていった。その背中が数メートル急激に遠のいて、すぐに疲れたように歩き出す。
「あいつ、自分がいつも最初にチョキ出すこと、いつになったら気づくんでしょうね」
「たぶん死ぬまで気づかない」
笑いながら俺たちは雑草が生い茂った地面に腰を下ろした。足を投げ出すと、ずっと同じ体勢でいたからか小さく骨が鳴った。
田んぼと畦道が広がる穏やかな風景を眺める。
時が過ぎ去る。穏やかに。けれど儚く。
「なんで神様は、人間に世界が終わる日を教えたんだろう」
風の音に紛れるような声で、先輩が呟いた。
横顔を見やると、その視線は青々とした水田風景に向けられたままで、俺もまた前を向く。彼女の視線の先を辿ってみれば、彼女の見ているものが見えるような気がしたのだ。もちろん現実はそんなに簡単ではなく、ただ健康そうな稲の葉が揺れていた。
「わざわざ、なんで教える必要があったんだろう」
「先輩、神様が居るかどうかはわからないって言ってませんでしたっけ」
「言ったけど。居るとすれば、なぜだろうってずっと気になってた」
その口調はどこか放心したようで、いつもの彼女らしくなかった。結果俺は、軽い調子を装って答えざるを得ない。
「人間に思い知らせたかったんじゃないですか? おまえら散々好き勝手やりやがって。せいぜい終わりの日まで怯えてろ、みたいな」
「じゃあ、なんでそんな生き物を創ったのよ。弱くて、愚かで、傷つけることしか出来ないのに」
そういった彼女を内心驚いて見つめたけど、まだ話は終わっていなかった。だから、また顔を戻して彼女の言葉を待つ。ほっそりとした手から煙草の灰がぽとりと緑に落ちた。なんだかその落ち方は、やけに不吉に思えた。終焉。きっとその瞬間は、こんな感じにぽとりと落ちてくる気がする。呆気なく。
「それとも神さまと人間を創った存在は、実は全くの別ものなのかな」
「それは、先輩の言う神様が人間を憎んでいるから出てきた仮説ですか?」
黒々とした両目が見開いてこっちを見た。……ような気がした。俺は相変わらず前を向いていたので確かじゃなかった。
「仮説、というより願望かも」
生真面目に返ってきた返答に、思わず少し笑ってしまった。
「なんだ、先輩もフツーに思春期を迎えてるんですね」
「思春期?」
「だって、そういう小難しいこと真面目に考えるのって思春期の特権でしょ。何でこの世に生を受けたのか、なんで死が存在するのか、なんでこんなに俺の足は短いのか」
吹き出すような声に横を向く。先輩が愉しげに、くつくつと肩を揺らしている。
「おかしい。そっかぁ、なるほどね。思春期かぁ」
溢れるように流れる笑い声に、なんだかはぐらかされた思いで憮然としながら足元の草を抜いた。けど本当は、自分の言葉に華やかな笑い声をあげてくれたのが嬉しかった。
あー可笑しい、と言いながら先輩は笑いをおさめて、短くなった煙草を携帯灰皿に押し付ける。ちょうど店からは、両手に一杯の缶とスナックらしき袋をかかえた拓郎が慎重にバランスを取りながらこちらに向かってきていた。
「なんだ、あいつ。あんなに食いきれないだろ」
「もらったのかもよ。世界最後の日の記念すべき客として」
「……ねぇ、先輩。ほんとに今日で終わりなんでしょうか」
口の端をゆるく上げた先輩の横顔に、俺はかつてから気になっていた疑問を投げかけた。声は、思いがけず低くなった。
「今更の話題ね」
「だってそんな百五十年前の人間が体験したことを、いい大人が今まで律儀に信じてきてるなんて」
「アキフミは変わってるね」
「え?」
「変わってるよ」
断言するような口調で、いや、まさしく断言して彼女は続けた。黒々とした瞳を少し弓なりにして。
「政府が公式に休日にするくらいだから、公表されてないような事実があるんじゃないかな。でもね、」
そこで先輩は言葉を切り、目線を上に上げる。
そこに彼女の信じぬ神がいるかのように。その存在が、俺たちを見下ろしているかのように。
しかしそこには百五十年前の人々が聞いたという声も、見たという姿もなく、ただ快晴の雲ひとつない青空が広がっている。
「世界は人間の手以外で滅ぶものじゃないと思う」
さっきの話と矛盾してるけどね、と矛盾を好む彼女はそう付け足した。
「でも隕石とか地震とかは?」
「そうね、何て言ったらいいのかな。そういう物質的なものは確かにそうだけど、少なくともわたしの世界はそれだけじゃ無くならないって意味」
理解できずに俺が首を傾げると、気にしないで、と先輩は軽く片手を振った。その子ども扱いのような仕草に、少し悪戯心というか抵抗心が芽生えて、俺は意地悪く彼
女に尋ねた。
「ねぇ、先輩。拓郎と付き合ってんでしょ」
彼女は微笑んだ。今日で三回目の笑顔。出血大サービスだ。世界滅亡の日、ゆえか。
「付き合ってるって言えるかな。気の向くときにセックスするだけだよ」
「でも、そんなの拓郎だけなんでしょ?」
「でも、あいつがどう思ってるかは知らないの」
「あいつは先輩のことが好きでしょうがないんですよ。だって先輩に名前呼ばれると、まるで犬みたく尻尾ふってますもん」
「ふふ、確かに犬っぽく呼んでるかも」
「俺、お邪魔だったんじゃないですか」
「そんなことないよ。アキフミのこと、多分タクローはかなり好きだから。……わたしもね」
彼女は拓郎の元に歩み寄った。それを遠くから眺める。両手に抱えた缶をいくつか手助けしてもらえたことに、嬉しそうに頭を下げる拓郎の顔を。それに無表情を装いながら、どこか穏やかに見える彼女を。どう見ても飼い主と忠犬で恋人同士にはみえない。それでも。
本当は煙草の銘柄が同じってことに、ずっと前から気づいてたんだ。
こっちに来る二人を見つめる。澄み切った青い空、青々とした水田、赤いキャミソール。
目に染みる。けど、じっと見る。網膜に焼き付けるように。
この風景を俺は忘れたくないんだ。
そう誰かに懇願する。誰かに。
おれはきっと、忘れない。
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