2. Smokin' Brahms

 この話はこれでおしまいという雰囲気が流れ、俺たちは何となく次の話題が始まるまでの時間を持て余した。 しかし誰かがすぐにそれを提供するだろうという確信はあった。おそらく三人とも。 この日、この時間を無駄にしたくない気持ちが誰の胸にもあるはずだからだ。

 拓郎がパーカーのポケットから煙草を取り出し、一本口に咥えた。


「おい、」

「彰文はこれだもんな、誰が今日そんなこと気にするかよ」

 ああ、そうだったと呟いて溜息をつく。

「なんかなぁ。頭で判ってはいるんだけど」

「まぁな。まんま普通だもんな」

 咥えた煙草をひょこひょこ上下に動かしながらポケットを探っていた拓郎は、ライター忘れたと面倒くさげに呟いた。

「先輩、持ってます?」


 立ったままトーストを齧っている佐倉先輩は、細身のジーパンから少し潰れた煙草のボックスをだした。そしてその中の青い百円ライターを拓郎に投げる。

 軽く会釈して拓郎は火を点けた。紫煙が天井へと気だるげに昇ってゆく。


「先輩も吸うんだ」

 知らなかった俺が少し驚くと、拓郎が煙を大きく吐き出しながら答えた。

「先輩は結構ヘビーですよね。というかおれ最初の煙草、先輩からもらったやつだもん」

「あんたがせがんだんでしょ」


 どうやら二人は、俺が思っていた以上に仲が良かったらしい。

 先ほどのやり取りを思い返して、俺はそう考えた。あんな風に彼女に喰らいついていける人間は、そう居ない。 大人っぽくて、どこか達観したような雰囲気を纏う彼女は、寮生活でも学校でも密かな注目の的だ。 というと聞こえがいいけど憧れとかそういうものではなく(中にはそんな視線も――特に女子から――混じっていたけど)、ちょっと浮いているという意味だ。

 先輩は特に不良なわけでもなく、それでいて優等生というわけでもなかった。彼女が天涯孤独の身の上であることは誰もが知っている事実だったが、それは俺や拓郎にしても違いは無い。

 ようは先輩のまっすぐで鋭いナイフを思わせる眼差しと、それに伴った独特の雰囲気が、同年代の連中から彼女を浮き立たせていたのだ。





 ささやかな朝食を終えた先輩は、マグカップを片手にソファに腰を下ろしてきた。ちょっと空けて、と言われて、俺は拓郎の側に寄ってスペースを作る。

 女性のわりには背が高いとはいえ、先輩の黒く小さな頭は俺よりも僅かに下にある。なぜかそれが意外に思えてちらりと横を見ると、少年のように短い髪のせいでほっそりとした白いうなじが目に入った。なんだか気まずい思いで目を逸らして、おれは口内を軽く噛んだ。動揺している、と自覚してそのことに更に動揺した。

 いるか? と横から差し出しされた煙草の箱に、大仰に顔をしかめて見せる。本音を言えば、まだ少し動揺していたせいだ。


「いらない。なんで好き好んで煙なんか吸わなきゃなんないんだ。百害あって一利無しって煙草のためにある言葉だろ」

「一利はあるぜ。ストレス解消」

「カラオケにでも行け」

「なぁもしさ、今日終わんなかったらどうする?」

「おまえな。好い加減、ソレ飽きないか?」

「別にいいだろ、減るもんじゃなし」

 犬のような黒目がちの目をくるくるさせて、拓郎はソファの上になぜか正座する。

「そうは言ってもなぁ、おれ全然勉強してないから、普通には食ってけないだろうし」

「運動神経いいじゃん、水泳うまいし」

「じゃあ、水泳でオリンピック」

「それはちょっと無理あるだろー」

「……おまえは?」


 あっさりと人の夢を否定したことに内心ちょっとむかつきながらおざなりに尋ね返すと、拓郎は悩む様に唸った。


「そうだなぁ。おれも彰文と似たような頭だし、リーマンは無理」

「じゃあ、おまえは橋の下生活ってことで」

「あ、ホスト。ホストなるわ。愛を届けんだよ、この寂しい世界に」

「あぁ、おまえ顔だけは人並みだもんな」

「人並み以上って言ってくれ。喋りにも自信あるぜ、華麗なトークで熟女のハートを掴んでやる」

「そのマシンガントークでか」

「そんなに激しくない」

「つか背伸ばせよ、その前に」

「目下、努力中だっつの」


 拗ねたように口を尖らせ、拓郎が煙草を灰皿に押し付けた。 なるほど、あの牛乳はそういうわけか、と思ってチラリと隣の佐倉先輩を見る。

 たぶん165cm以上は確実にあるだろう。拓郎は確か170cmあたりだ。


「佐倉先輩は? 何か将来の夢とか」

「ピアニストとかいいよね。どっかのバーとかで」

 俺たちは目を丸くした。

「ピアノ? ピアノなんて弾けんの、先輩」

「下手の横好きってやつだよ」

「聞きたいなぁ、そりゃ是非」


 正座したままソファの上で身体を上下に揺らす拓郎を見て、彼女は顔をしかめた。 明らかに言わなきゃ良かったという後悔がにじみ出ている。苦虫を噛み潰したような顔でカフェオレを飲み干すと、マグカップを片手にソファから立ち上がった。


「あーあ、言わなきゃよかった」

「いや、聞きたい! なあ、彰文」

「ぜひ」


 おおげさに首を縦に振って同意すると、先輩は益々顔をしかめた。

 しかしながら数分間の押し問答の末、とうとう先輩は折れた。俺たちに、というより拓郎に。









「鍵、開いてるかな?」

「開いてなかったら職員室から借りてこようぜ」

「こんな日にも戸締りとかしてんのかね、やっぱり」

「さあ」


 寮から数分の距離にある校舎に、俺たちはいた。音楽室へと続く廊下をぺたぺたと裸足で歩く俺たちの少し後ろを、 佐倉先輩が仏頂面でついて来ている。


「先輩、大丈夫ですって。下手でも文句いいませんから」

「そうそう、どうせ俺たち相手なんだし。気軽~にね」


 俺と拓郎の言葉に、彼女は諦めたように短く溜息をついた。

 誰かしらはいるのでは、と思っていたのだが校舎には誰もいなかった。音楽室は幸運にも開いていた。独特の、少し香ばしい様な匂いが鼻をつく。日当たりが良い所為なのかもしれない。入ってすぐにうえっと口を開け、拓郎が窓を開け放った。まだ少し肌寒い朝の空気が滞って淀んだ空気を払拭する。それは青々とした初夏の香りを含んでいて、俺はつられるように窓へ寄った。

 いい天気だな、と話しかけると拓郎は太陽の光に目を細め、大きく息を吸って言った。


「俺、なんでか今日は曇りだと思ってた。どんよりとして、雨が降りそうで降らないような」

「ああ、わかるかも。終焉の日って感じだもんな」

「でも考えてみれば、そんなの似合いすぎてて不自然かもな」

「神様も今日くらいは最高の天気にしてくれたんだろ」


 しばらく頬を撫でる空気を感じていた。ちょっと離れたところの木に取り付けられた巣箱が目につく。 果たしてあの中に、鳥は棲んでいたのだろうか。俺は一度もあの巣箱から鳥がでていくところを見たことが無かった。

 ぽろん、とピアノの音が響いて振り返る。教室の真ん中、カバーを外した黒いグランドピアノの前に先輩は立っていた。撫でるように鍵盤を撫でる横顔は、無表情なようでどこか柔らかく見える。ちょうど日差しが照らしているからだろうか。


 何となく俺たちは窓枠に腰を下ろして、黙って彼女が弾き始めるのを待った。先輩はしばらく、久しぶり触ったと言いながら戯れに音を出していたが、ふいに息を深くはいて椅子に座りなおした。

 一泊を置いて、馬の蹄のような連打音が教室に満ちる。聞き覚えのある曲だった。だが、何の曲かはわからない。

 

「……きれいだな」


 ぽつりとした声に横を向くと、拓郎は食い入るように先輩を見ていた。

 確かにそれはとても綺麗な曲だった。穏やかなのに、どこか切なかった。先輩の音色は深く、時に重く、時に煌びやかに、流れるように色を変える。それでいて芯は常に揺れる事なく、毅然としている。どこか神秘的だった。

 けれど、拓郎がいったのは曲のことではないとわかっていた。

 しばらくして先輩は弾き終わると、お茶目に会釈をした。俺は拍手をして、拓郎は指笛を鳴らした。


「今の、なんて曲ですか」

 聞けば、先輩はブラームスの間奏曲だと答えた。

「本当は三曲あるんだけどね。最初の曲が子守唄なの」


 少し紅潮した頬のまま、倒した楽譜立ての上に置いていた煙草ケースを手に取る。フィルターを咥えたままジーンズのポケットを探る先輩に、いつの間に窓から降りたのか拓郎がライターを差し出した。さながらホストのように片膝を立てて、かちりと火を煙草の先端に寄せる。


「どうぞ、素晴らしいピアノのお礼に。マダム」

「バカ、返しなさい」

 気取った顔をした拓郎の頭を軽く叩き、彼女は少し笑ってライターで煙草に火を点けた。

 その様を、俺は少し高い目線から笑いをこらえて見ていた。椅子に座ったままの先輩の足元でしゃがんでいる拓郎は、まるで尻尾をうな垂れた犬だ。しかも雑種の。折り良く付いた寝癖が耳に見えないこともない。

 煙草の紫煙をくゆらせて先輩は眩しそうに俺を、ではなく窓の外を見やった。


「ねぇ、どっか行こうか」


 その提案に、拓郎が弾かれたように立ち上がる。

「え、でもいつ終わるかわかんないのに?」

 戸惑った俺の言葉は、しかし拓郎には聞こえなかったらしい。

「いいねぇ。世界破滅の瞬間をこんなとこでじっと過ごしててもしょうがないし。どうせなら海行こうぜ、海!」

「アホか。ここから海なんて、どんだけ距離あると思ってんだ。電車だって、いやバスすら動いてないだろうし」

 拓郎は不満気に鼻を鳴らして腕を組む。

「あーあ、いいよな。海の近くに住んでるやつらは。絶対この日、砂浜で青春してるに決まってる」

「いいね、海」


 相変わらずの淡々とした彼女の言葉に、俺は目を丸くして、拓郎はまたしても犬のように先輩を振り向いた。


「え、でもどうやって」

「バイク持ってる。タクローも持ってるでしょ」


 彼女は拓郎の名前を硬質な発音で呼んだ。丸い響きを持つはずの“たくろう”という名前が、やけに明確に聞こえる気がする。


「うん、でもおれ二人乗りなんてしたことねぇよ。免許取り立てだもん」

「じゃあ、アキフミはわたしの後ろに乗ればいいよ」

「どんくらいかかるかな、」

「二時間もあれば着くんじゃない?」


 つらつらと話が進み、もう俺は何も言わなかった。

 海、いいじゃないか。そして海原に沈む太陽をこの目で見てやる。








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