第7話
あれから何日かが過ぎた。あの日以来、僕は一日のほとんどを自室で過ごし、暇さえあればノートに向かって一心不乱に文字を書くようになっていた。
「おじゃましまーす」
「おじゃまします」
いつものように二人がうちに来ても僕はどこか上の空で、愛想を振りまくことすらしなかった。
この日、俊太はどうやらまたいつものごとくバイト先からゲームを不当な値段でかすめとってきたらしく、僕か奈央、あるいはその両方に向かって聞き飽きている台詞を放った。
「おい、お前顔色やばいぞ。大丈夫か?」
「また貫徹したの?」
家に来てから何分もしないうちにリビングのテレビの前に座った二人は、全員がいつもの定位置に着くなり揃って僕を気遣い、そう言った。
「いや、今日は寝たよ」
「何時間?」
「えっと………二時間半くらい」
「全然足りてない」
奈央はまるで親みたいに注意をすると、こちらに近づいて僕が手に持っていたノートを取り上げ、食卓の上に置いた。
「今日はもうノートに触らないこと」
「そんなの僕の勝手だろ」
「たまには息抜きした方がいいんじゃないか?」
いつもならここまで徹底して僕のやることにいちゃもんをつけない二人が、なぜか今日はそうしているので、僕はどれだけ自分の顔が酷いのか気になり、二人に断りを入れて洗面所に行った。
「あー、やば」
僕が鏡を覗くとそこには典型的な寝不足の顔をした自分の姿があった。涙袋には深い隈が浮かんでいて、その上にある瞳は白目が赤く充血し、気味の悪い黒目をより一層、そう思わせた。
「めっちゃ、やつれてただろ」
「うん、かなりきてるね」
「じゃあ今日一日、ノートは?」
「………わかった、触らないよ」
僕はノートの置かれた食卓の横で奈央にそう誓うと、テレビの前の俊太と奈央の間に用意された空間に入り、そこに座った。
「じゃあ、かわりに今日はこのまま永遠とゲームやろうぜ」
俊太は相変わらずの能天気っぷりを発揮し、いつものように三人の輪を和ませてくれた。
「しょうがないな」
「よし、男に二言はないな」
「はいはい」
「今、夏奈慧流したでしょ」
「流してない」
「はあ、ひでえな。俺泣いちゃうぞ」
「勝手に泣いてろ」
それから一体どのくらいの時間、テレビ画面を見続けていただろう。僕達は平日で母が不在なことを良いことに、午前中からほとんど休憩を挟まずコントローラーを持ち続け、僕はいつの間にかノートのことを忘れて画面の中で動くキャラクターに夢中になっていた。しかし、そんな自然と現実逃避ができる夢のような時間は、当然あっという間に過ぎ去り、気づいたら窓から西日が差し込んでいた。
帰るにはまだ早い時間だったが、二人はそれぞれの用事があるらしく、切りが良いところでゲームをやめて、僕の家を出て行った。
僕は二人が想定より早いうちにいなくなったことで唐突な孤独感を感じ、重心を失ったコマのようにふらふらしながら自室に戻った。
何日も続いた貫徹と今日のゲームによる尋常じゃない疲労度のせいで、身体にたまった不満はずいぶん前に限界に達していた。そして脳からの信号を受け取らなくなった身体は、流れるようにベッド向かい、布団の上に倒れ込んだ。
数時間後、昼寝から覚めた僕は、奈央にノートを没収されたおかげで暇を持て余していた。そして以前の自分は一体何に時間を費やしていたのかと思い、ベッドの上から部屋の中を見回した。本棚に置かれた本や漫画。モバイルゲーム機の本体とカセットのパッケージ。使わなくなった文房具や学校の教材。こうして改めて見ると、部屋の中には僕が思っているよりずっと暇をつぶせそうな物が散乱していた。
そんな無意味なことをしていると、ふと数日ぶりに机の上にある電池切れのスマホが気になり、充電コードをつないで電源を入れた。
『今日、暇だよな』
『明日家行っていい?』
『おーい、夏奈慧?』
『夏奈慧、大丈夫?』
するとメールボックスには、俊太と奈央から送られてきた大量の無駄な文章が溜まっていた。
『来週、大学のオーキャンがあるんだけど、三人で行こうよ』
『宿題わかんないから、夏奈慧やって』
『今からお前の家行くね』
二人からのメールはゆうに五十件を超えていて、すべてに目を通すのは面倒に思えた。
ただ、今日顔を合わせた時にメールに一度も返事をしなかった僕に対して、二人は責める言葉を投げてこなかった。だからその謝罪と感謝の意を込めて、僕はそれらのメールをちゃんと一通ずつ確認した。
『数学のプリント学校に忘れたから、今度コピーさせて』
『花楓がまた入院しました。夏奈慧くんに会いたいと伝えるように言われました。部屋の番号は三一八です。できるだけ早くお見舞いに来てくれると幸いです』
そしてその中に二人のものじゃない文章を見つけた。そのメールは他の気の抜けるような内容のものと違って、どこか緊迫とした雰囲気だった。
メールの送り主は紛れもない、お祖母さんだった。送信日は今日の朝、僕が二人とゲームを始めた頃の時間だった。
「………まだ間に合う」
スマホに表示された時刻は八時前、病院の面会時間は八時半だと前にお祖母さんから聞いた。
僕は時刻を見ると、ものすごい勢いでベッドから飛び起きた。そして適当な荷物を持って階段を駆け下りると玄関を出る直前で、食卓に置かれたノートのことを思い出した。
「こんな時間からどこ行くの?」
僕がリビングに入り、奈央との約束を破ってノートを手に取ると、いつの間にか帰宅していたらしい母が急ぐ僕を引き止めた。
「ちょっと………」
僕は母からどうにか言い逃れようと外出の理由を考えた。だが、思いついた言い訳はどれも母を説得するには不十分に思えたので、何を言えば良いか言葉に悩んだ。
「正直に言ってごらん?」
すると母はノートから一番離れた食卓の席に座りながら、黙り込んだ僕に言った。
「えっと………」
「まあ、いいよ。急いでるんでしょ、帰ってきたらゆっくり聞かせて」
「え………?あ、うん」
母は椅子から立ち上がると僕にノートを手渡し、背中を押して玄関へ誘導した。僕は母が外出を許したことがあまりに意外すぎて、狐につままれたようにきょとんとしたまま、玄関の外へ見送られた。
しかし、数秒もすると母の気持ちが触れられた背中からなんとなく伝わってきた。
僕はありがとうと心の中で思うと、玄関の傍に停められた自転車に跨った。
慣れた道を猛烈な勢いで駆け抜けて駅を目指し、電子掲示板に表示された時間通りに来た、学校に行く時と同じ線の電車に乗った。
そして時刻は八時十分、僕は病院の前に着いた。
間に合ったといえば、確かに間に合ったが、このぎりぎりの時間から病院側が面会を許してくれるかわからないので、まだ安心はできなかった。
僕は一度病院の壁を見上げると、いつかの時のように上がりきった息を整えながら、入り口の自動ドアをくぐった。
横目で受付を見ると都合の良いことにそこには一人も看護師がおらず、ロビー内も数人の患者がいるくらいで、病院の関係者は誰もいなかった。だから僕は受付を通さないまま院内に忍び込み、お祖母さんが教えてくれた三一八の病室を探した。
夜の薄暗い病院の廊下は、一歩進むたびにコツコツと無駄に足音が響き、誰かに気付かれないか気が気じゃなかった。
階段を上がって三階へ行き、左右に伸びた廊下を右に進んで奥から三番目。そこに宇佐美花楓と書かれた三一八の病室はあった。
しかし、僕が病室の取っ手に手を伸ばそうとすると、ここまでおとなしくしていた不安やら緊張やらが突然大きく膨らみ始めた。そして僕はそれ以上を身動きが取れなくなり、扉の取手に伸ばされた手は花楓に初めて会った時のように勢いを失い、空中に留まった。
「入ってきたら」
すると本当にあの日を思わせるように、扉の向こうから花楓の声が聞こえた。
その声に惹かれて、僕が伸ばしかけた手で取っ手を横に押すと、花楓との隔たりは横にすんなりと開き、僕を簡単に病室の中に入れた。
「どうして僕が来たってわかったの?」
僕は気まずい空気にならないよう、花楓の顔を見るとあえて軽率な態度で会話を始めた。
「どうしてって………あれだけ足音がしてたら、わからないわけないでしょ」
すると花楓も僕の考えに気づいたのか、失笑しながらそれに答えた。
「こんな時間になってから私に会いに来る人なんて、夏奈慧くんだけだもん」
しかし、次に花楓が発した声は、僕が望んだものとはかけ離れた、冷血さの際立つものだった。その声を聞いた後だと、花楓が初めに言った言葉や失笑の印象もがらりと変わり、数秒間の沈黙が続くとようやく僕のもとにも彼女の抱いている本当の感情が届いた。
「どこにいたの?」
「ごめん………」
「夏奈慧くん、前に言ってくれたじゃん。次はすぐ駆けつけるって」
「うん………」
「何してたの?」
「………」
「どうせまたあの二人とゲームしてたんでしょ?」
花楓は今朝の奈央のように、だが彼なんかよりずっと鋭く僕が言い返しずらいことを次々と並べた。
ベッド傍の椅子に座らされた僕が俯きながら上目だけで花楓の顔から下をうかがうと、彼女の腕には点滴のチューブが繋がれ、白い包帯が何重にも巻かれていた。
その痛々しい様子に目線がいくと、僕は一瞬思考が止まり、動けなくなった。そして直後に我に帰ると、すぐにそこから目を逸らした。
僕はそれ以降、花楓の声がしている間は一度も視点を上げなかった。また、職質まがいなものを受けているうちに、胸のあたりにはいつしか割り切れない、曲がったもどかしさが生まれ、僕はその感情に既視感を抱いていた。
「もういいよ、帰って」
すると苛立ちを抑えきれなくなった花楓が、黙り込んでいる僕を追い返そうと冷たい言葉を放った。だが、僕はすっと椅子から立ち上がると、扉の方へ歩く代わりに花楓の方へ数歩足を進ませた。そして握りしめていたノートを彼女の前に突き出し、それを手渡した。
「何これ」
「まだ、完成はしてないけど、書いてみた」
花楓は僕の手からノートを受け取ると、躊躇しながらその表紙を開いて、ページに書き綴られた僕の文字を読み出した。
花楓がノートを読み始めると僕はここに来てようやく彼女の顔を視界に入れられ、腕の包帯にも目を向けられた。
ノートを見ている花楓の表情は冷たいものから次第に雲行きを怪しくし、今までも時折見せていたあの悲しげなものになっていった。
「面白くない」
ところが花楓は読んでる途中でノートを閉じると、浮かんできたその表情を押し殺すように冷たさを取り戻した声で言った。
「あの頼みのことはもう忘れてって言ったじゃん」
「うん、言ってた」
「じゃあ、どうしてこんなの書いたの。私はもう嫌なの、小説なんて見たくないの。なんで………なんでこれを書いたの?」
「花楓が本心で言ってないと思ったから」
明らかに自分を隠している花楓は、僕が図星をついたことを言うとさっきの僕のように返す言葉が見つからないようで、今まで達者に動いていた口をついに閉じた。
「ねえ、教えて。花楓の思ってること、考えてること、全部じゃなくてもいいからさ」
「………わかんないよ………そんなの………」
少しの沈黙を挟んだ後の花楓の声は僅かに震え、瞳にはこぼれそうなほどの涙が溜まっていた。
「面白くない………か………」
その日の夜、家に帰った僕は母に外出の理由を説明した後、ベッドに転がって花楓に散々言われたノートを見上げていた。
「あれは………本心だったのかな」
少なからず自信のあったものを、ああもあっさり蹴られたことで、僕は自分自身を否定された気持ちになり、この日から小説を避けるようになった。
ただそのおかげで余った時間を高校生らしく勉強に当てられ、二週間ほど経つと共感覚のない今の状態でも前に劣らないくらい問題が解けるようになった。試しに赤点三昧の結果となった期末テストを解き直してみると大半の教科は八割ほど点数が取れていた。
それを俊太と奈央に知らせると一人は僕を裏切り者扱いし、もう一人は純粋に良かったじゃん、と言って、一緒になって喜んでくれた。
僕の夏休み、というより、僕達の夏休みの一日は小学校の頃とあまり変わっていない。
朝は母が仕事へ行った頃にゆっくり起床し、適当に髪をとかすと私服に着替えて二人が来るのに備える。そして十時ごろには例の通りインターホンが鳴り、俊太と奈央が家に入ってくる。
昔はその後、自転車で自然であふれているあの公園へ行き、一日中散策をしたりしていたが、今はやはり俊太が持ってくるゲームがメインとなっている。
お昼を過ぎると、ゲームをやっていたい欲が空腹に負けて三人で外食へ行く。外に出るのがめんどうだったり、誰かが昼食代を持っていない時は奈央がネットでレシピを調べて、三人で昼食を作ったりもした。だから僕の家の冷蔵庫には、それを了承している母がいつもそれなりの食品を買い揃えておいてくれていた。
そうして代わり映えのしない毎日を過ごすので、僕達の四十日間は「夏休みが始まった」と喜んでいるうちに半分ほどが終わっていた。そして残りの日数、およそ二十日も「宿題をやらなきゃ」と言っているうちに過ぎ去って、登校開始前日になって感想文やら各教科の問題集やらを適当に済ませることになる。ただ中学生の頃には、前日に終わらせる事すらも面倒になり、諦めて登校日を迎える教科がある者もいた。
そして今年の夏休みもまた、時間の進みが早かった。
曜日感覚は完全に狂い、今日が曜日や日にちはその都度スマホで確認しないとわからなくなっていた。
『お久しぶりです。夏バテなどせず、元気にしていますか。今日は夏奈慧くんに折り合ってお願いがあり、連絡させてもらいました』
八月に入って数日が経ったある日の朝、僕がいつものごとく遅い朝に起床してスマホで日付と曜日を確認しようとすると、新しいメールが届いていることを知らせる通知が来ていた。
そのメールはお祖母さんから送られてきたものだった。
「七月も終わってお盆に入り、お墓参りの時期になりました。ですが花楓ちゃんは体調が優れず、私もなかなか傍を離れられない状況です。そこで私達の代わりにあの子のお墓に手を合わせに行ってあげてくれませんか、だって」
「あの子って誰?」
「先生のことでしょ」
「ああ、なるほど」
メールに気づいた数時間後、僕は家に来た二人と一緒に来るだろうと思い、彼らにメールの内容を教えた。
「いいじゃん、行ってこいよ」
「うん、きっと先生も喜ぶよ」
「一人で?」
「それ以外何があるんだよ。まさか俺達まで連れて行く気か?」
しかし、想定外なことに二人は後押しをするばかりで、僕の誘いには乗ってこなかった。
「え、嫌なの?」
「いや、別に嫌じゃないけど………」
「僕達は夏奈慧ほど先生と親しくなかったから、行って迷惑にならないかなって」
僕が聞き返したことで俊太が言葉を詰まらせると、それを横で聞いていた奈央が彼の言いたいことを代弁した。俊太は二、三回躊躇いながら頷くと、僕の方を向いて目で意見を求めてきた。
「え、親しくなかった?」
僕は思っていたより話が混み合っていることに驚き、耳を疑って同じことを聞き返した。すると僕の耳は聞き間違いを起こしていなかったらしく、二人はやはり頷いた。
その後、僕は困惑しながらも二人を説得して最終的には俊太も奈央も一緒に行くと決めてくれた。
『友達を二人一緒に連れていってもいいでしょうか』
『奈央くんと俊太くんね、もちろんよ。ぜひ一緒に行ってください』
そしてお祖母さんにも確認を取り、さらに二人の意味のわからない不安を取り除いて翌日を迎えた。
お祖母さんは二人の同行を了承した後、追加でお墓のあるお寺の名前と住所をメールで送ってきて、その内容は僕を通して俊太と奈央にも伝わった。また、お寺の住職にも連絡を入れておいてくれたらしく、行けばお墓まで案内してくれるらしかった。
僕達はいつも集まるのと同じくらいの時間に家を出て、学校に行く時とは逆方向に向かう快速電車に乗り込んだ。
お寺はここから十駅ほど電車に揺られ、さらに駅からバスと徒歩で二十分進んだ山の中にあるらしい。
乗った電車の中には乗客がほとんどおらず、閑散としていて、貫通扉の窓から前後の車両を覗いてもそこにはどこまでも同じ光景が続いていた。
「いつもと違う電車に乗るとなんか楽しいね」
「目新しいっていうか、新鮮だな」
「普段こっちの電車に乗ることないもんね」
「夏奈慧はこっちの方来たことある?」
二人の会話をよそに車内を見回していると奈央がいつものように、そんな僕を強引に会話に混ぜてきた。
「ないよ。あったらたぶん、二人も知ってるはず」
「確かに、僕達お互いのこと、何でも知ってるもんね」
僕が二人とたわいもない話を続けている間も、電車は問題なく僕達を目的地に運んでいき、三十分後にはちゃんとお寺の最寄り駅に着いた。
そこからは奈央の信頼と実績のある誘導で、迷子になりそうな道順を一度も迷わず進んでいき、電車のダイヤ並に予定通りお祖母さんの言っていたお寺の住職に顔を見せられた。
本堂のある建物から出てきた住職は、歩きながら寛大そうな口調で仏教関係の話をし、墓地へ続く細い道を案内してくれた。僕は歩く並び順的に住職の話の相手役に就かされ、しばらくの間、知識量と会話力を問われる時間を過ごした。
お墓の前につくと、すっかり満足した住職は手に持っていた手桶と柄杓、お供え用の花、そして三人分の布雑巾をまとめて僕に渡すと、来た道を戻っていった。
見知らぬ自然の中に取り残され、心から慕っていた先生の墓石の前に立たされた僕は、この場へきた途端にこみあげてきた、得体のしれない感情に意識を飲み込まれ、今朝からずっと保ってきた面を崩しそうになった。
するとそんな僕を察してか、はたまた僕と同じような境地にいるからか、僕の横にいた二人も黙り込み、場の空気を壊さないように沈黙を生んだ。
それからしばらくして、僕達は最初に我に返った奈央の掛け声で目を覚まし、水の入った手桶の前で雑巾を濡らす順番待ちを始めた。
「なあ、夏奈慧」
「なに?」
「お前、さっき住職さんと普通に会話してたけど、何言ってるかわかったの?」
列の最後に並んだ僕が雑巾を水に浸していると、前に並んでいた俊太が思い出したようにそう聞いてきた。見上げると彼はわざとらしく気味悪そうな顔をして、僕を軽蔑している様を装っていた。
「まあ、それなりに」
「はあ、なんでわかるんだよ。俺ってそんなに馬鹿なのか?」
しかし、僕がそれに答えると、俊太は掌を返したように感心するそぶりを見せ、続けて卑屈を口にし始めた。
「夏奈慧がすごいんだよ。だって夏奈慧、お爺さんが仏教徒の人だったんでしょ?」
「うん………って、なんで奈央がそんなことを知ってるんだよ」
「お互いのことは何でも知ってるからね」
「ああ、そうだったね」
小さい頃の墓参りでは、無限に余る体力にものを言わせていつまででも墓石を拭いていられた覚えがあった。だが十七歳ともなると、まだ若いながらにも身体にガタがくるもので、口を動かしながら前屈みで掃除をしているとすぐに腰が痛くなった。
先生のお墓は本堂から少し山を登ったところにある開けた場所に置かれていて、腰の痛みから逃れるために身体を起こすと、そこにはあの公園の丘や学校の屋上からの眺めとは、比べ物にならないくらい綺麗な景色が広がっていた。視界の七割ほどを占める緑の自然と、そこにうまく隠れるように点在する人工物。その二つが過不足なく、完璧な調和を保っていた。
「小学校か………。あの頃は楽しかったな」
僕が景色に見惚れているといつの間にか俊太が隣にいて、珍しく柄でもないことをぼやくように言った。
「あの頃はって、今は楽しくないんだ」
「いや、楽しいのは楽しいんだけどさ。なんか、前はもっと純粋に楽しめてたっていうか、目の前のことに夢中になれてたんだよね」
「あの頃は進路とか、将来とかの心配しなくて良かったからね」
僕と俊太が掃除中の無駄話をしていると、そこへ黙々と掃除していた奈央が便乗するように会話に混ざってきた。
「それな、朝から晩まで遊び呆けて、ふざけが過ぎて先生に怒られたりもして」
「それでも懲りずに、またやるんだよね」
「なあ、夏祭りの日のこと覚えてるか。先生に注意されたのを逆手にとって、同行までしてもらったやつ」
「あ、その話、この前も夏奈慧としたよね」
「ああ………したね」
俊太が景色を見ていると、その隙をついて奈央がひそひそと話しかけてきた。だから僕も意味もなく俊太には聞こえない声でそれに答えた。
「なあ、今年の夏祭り、久しぶりに行こうぜ」
すると俊太がいきなり大きめな声を上げて、こちらを向いた。
「あ、いいね。何日だっけ」
それにびっくりした奈央は前のめりになっていた大勢を慌てて戻し、ぎこちなく俊太に調子を合わせた。
「毎年二十日くらいにやってなかった?」
「そうだったっけ。まあ、後で調べとくよ」
僕は奈央の必死っぷりを隣で笑いながら、やっぱり三人で来て良かったと居心地の良い空間を転がすように味わった。
お墓から雑草や苔が綺麗に無くなると、僕達は最後に手桶に汲み直した水で雑巾を濯ぐためにまた列をなし、順番を待っていた。するとそこへタイミング良く住職が煙の尾をひきながら現れ、雑巾を洗った順に火のついた線香を渡してくれた。貰った花と線香を供えると、僕達三人は横一列に整列して墓石に手を合わせた。
来た道を戻る時も、住職は僕達三人に行きと同じ難易度の話題で話を始め、住職の真後ろに来てしまった俊太は理解できてないことを悟られまいと必死に相槌を打っていた。僕と奈央は彼の後ろで必死に笑いを堪え、仕方なく途中で僕が並び順を交代して住職との会話を引き継いだ。
「何から何までありがとうございました」
「ありがとうございました」
「あ、ありがとうございました」
「はい、こちらこそこんな山奥までご足労いただき、ありがとうございました」
僕達は本堂前まで戻ると住職さんにお礼と花、線香代を払い、長々と見送られながら下山した。
バスを降りて駅に着くと時刻は十二時を回っていて、昼時の駅前は朝とは打って変わり、ものすごい人の数だった。
「なあ、飯食べない?」
「うん、そうしよっか」
すると俊太が口にしたその一言で、気の利く奈央はすぐにスマホで近辺の飲食店を調べ始め、僕達はここから二、三分のところにあるファミレスに行くことになった。
そのファミレスの店内は駅前にあった店よりもずっと人が少なく、ずっと静かで、一息つくにはぴったりだった。
「実はさ、二人に話があるんだ」
すると席について注文をしてからしばらく経ったところで、唐突に俊太がそう話を切り出した。
僕はさっきまで僕達を笑わせてくれた彼の口から一体どんな話が飛び出してくるのか、と期待しながら次の言葉を待った。
「俺さ、引っ越すことになった」
しかし、俊太の口から出た次の言葉は全く笑いを取るような内容ではなかった。
「え………?」
「急にどうした」
奈央は俊太のいきなりの展開に頭がついていけず、絵に描いたように呆然とし、僕は変に抱いていた期待をとっさに戸惑いの陰に隠した。
「ほんと悪い、急になって」
さっきまで平然としていた俊太は、いつの間にか深刻そうな顔になっていて、今言ったことの現実味を増させていた。
「引っ越すってなんで?」
「父さんの仕事の都合らしい」
「どこに」
「今よりもっと都心の方だって言ってた」
奈央から俊太、僕から俊太と順番に質問応答が繰り返していると、そこへ間の悪い店員が僕らの会話を割って料理を運んできた。
「とりあえず食べてから話そう」
「う、うん」
変なタイミングで話が中断したせいで、せっかくの食事は喉を通らず、注文した料理を完食できた者は一人もいなかった。
「………それで、引っ越すのは今月の終わり。たぶん、父さんがギリギリまでこっちにいられるようにしてくれるとは思うけど………」
「正確な日付はわからないの?」
「八月二十七日。二週間後のそこが引き延ばせる限界だって」
「二週間って………なんでもっと早く言ってくれなかったんだよ!」
十四日間。現実的で目前に迫っている別れのカウントダウンに、僕は思わず声が大きくなった。
「いや、俺も知らされたのは最近なんだって」
「最近だって、知った当日に言ってくれれば、もう少し日数に余裕があっただろ」
「待って待って、夏奈慧も落ち着いて」
思わず立ちあがりそうになった僕は、奈央に言われてようやく自制心を取り戻し、落ち着くと二人にごめんと言って席に座りなおした。
「悪かったよ、もっと早く言うべきだった」
俊太は申し訳なさそうに謝り、僕に許しを乞うと、さらに続けた。
「でもさ、俺が言いたいのは、だからもうお別れだってことじゃなくて………見てこれ」
彼は話をしながら自分のスマホを開き、画面に何かを表示するとそれをこちらに向けてテーブルに置いた。そして画面を見ると、そこには俊太が塾か何かで独自に受けた模試の結果の写真が映っていた。
「この大学、奈央の第一志望だろ」
俊太がその紙の大学合格判定の欄を指差して確認をとると、奈央はうんと頷いた。
「俺も第一志望ここにした。これから死ぬ気で勉強して、意地でもここに入る。だからもっと上目指せる夏奈慧には悪いけど、俺はここに三人で合格して、大学生活も三人一緒に送りたいんだ」
俊太の考えていた願望はわかりやすく、現実の厳しさを無視した子どもっぽいものだった。
僕は彼の抱いている気持ちや、言わんとしていることがはっきりわかるくらい俊太の事を良く理解している。そしてだからこそ、今まで多くの全課を残してきた彼の諦めの早さが僕の脳裏をよぎり、判断を惑わせた。
「本気でそこ目指すの?」
「おう、任せろ。実行専門の力を見せてやるよ」
しかし、その望みを唱える俊太の目はいつも以上に自信に溢れていて、やけに説得力があった。
「………わかった。僕も第一志望はそこにするよ」
そして僕はしばらく考え込んだ挙句、俊太の自信に満ちた覚悟に負けて自分を曲げた。
「ありがとうな、夏奈慧」
すると俊太は嬉しそうに笑い、僕もつられて笑った。
「ちなみに僕は指定校推薦でいけるらしいから、ほとんど合格できるよ」
「うわ、お前ずるいな。成績低い俺が一般なのに、優秀なお前が指定校かよ」
「残念でした。一般では受けません」
「くっそー。まじで俺次第なんじゃん」
奈央の意地悪な物言いを受けた俊太は、さっきの信用に値するものとは逆に自信なさげな表情をし、一度は彼を信じた僕をまた不安にさせた。
「夏奈慧も小説に打ち込み過ぎて、この前の期末テストみたいに大惨事起こさないでね」
すると、会話から離脱していた僕にも奈央が要らぬことを言ってきた。
僕は久しぶりに小説という単語を聞いて、一瞬なんて言えばいいかわからず、視線を少し移すと固まった。
「夏奈慧?」
「ん?ああ、小説ね。大丈夫、最近は勉強に専念するために、書こうとしてないから」
そして奈央が僕の名前を繰り返してようやく出てきた言葉は、まるっきりの嘘だった。
その後、僕達はファミレスを出てまっすぐ電車に乗り、家の最寄り駅に着いた。しかし、駅から家までの間に俊太がまた寄り道の提案をして、ファミレスの次はカラオケに行くことになった。
あんな話を聞いた後だからか、その提案には奈央もやけに乗り気で、二人は僕の背中を押しながら無理やり店の中に入った。
終了時間までの三時間、僕はカラオケボックスの椅子に座り、俊太と奈央の歌声をよそに一人無感情で過ごした。そして歌うわけでもないのに用意された三本のマイクのうち一本を手に持ち、何も考えてないのに思い悩んでいるような顔をした。
頭の中にはただ漠然といつもの口癖が置かれ、時折蛍の光のように小説の文字がちらつく。その度に僕は心を痛め、夕方になって家に帰る頃には血が滲むほど傷だらけになっていた。
やっとの思いで自室に入ると、僕の全身は床に捨てられていたノートを見つけた途端、俊太に声をかけられた時のようにまた凝固し、それが溶けるとやめとけばいいものを、わざわざ手にとって机に広げた。
僕にとって小説なんて、大した思い入れのあるものではない。何か書きたいことがあるわけでもないし、今となっては書く必要性もない。それならなぜここまで執着し続けるのか。それは僕にもわからなかった。
ただどれだけ心が痛んでも、どれだけ忘れろと言われても、僕は胸のどこかにある何かに突き動かされて、気付けばいつもノートに向かって何かを書こうとしていた。投げやりになっていて一言も書くことが思い浮かばなくても、ペンを握った手がそうして足掻くことをやめようとせず、僕自身もそれを望んでいた。
「ああ………もう………」
シャーペンを持っても手は動かないまま、気味の悪い目に映る白紙のノートを見続けるばかり。その時間が一秒伸びるごとに、僕は心の傷口が広がっていくのを感じた。そして次第に視界が歪み、ポタッという音をたてて一粒の涙が乾いた紙の上に落ちた。瞳に溜まった涙は最初の一滴が零れるとそれに誘発されたように次々と流れ落ちて、ノートにいくつも水たまりを作った。
「何がしたいんだよ………」
僕は今日までずっと心に巣作っていたやるせなさと、今まで抱いたことのない死にたくなるほどの悔しさにとうとう飲み込まれ、どうにか保っていた自我が雪崩のように崩れた。
*** ***
瞼を開けると淡い橙色の空間が広がっていた。視界を見回しても周囲に人の姿はなく、ここにいるのは僕一人のようだった。
地面には所々に鏡のような水溜りがあり、覗き込むと僕の不気味な顔をくっきりと映した。
僕はなんとなく気の向いた方向へつまさきを向け、ここがどこか探ろうとうろうろ周りを歩いた。そしてふと視線を移した時、少し先の地面に何かが置かれていることに気付いた。
一歩一歩近づくとその輪郭は徐々にはっきりしていき、対象の五、六メートル手前でそれが桃色をしたアルファベットだとわかった。
腕を軽く広げたくらいの大きさのそれは、はっきりとした色を持ちながら表面にはどこか透明感のあり、大理石のような固く冷たい質感をしているように見えた。
僕はなぜこんなものがここにあるのか疑問に思い、文字の傍にしゃがみ込んで、触れようと手を伸ばしてみた。だが、その文字は僕のことが嫌いだったのか、指が触れる寸前で色を失い、僕の手を透過させた。
目の前にあったものを一瞬で見失った僕は、戸惑いながら床についた手で身体を押し戻し、その場に立ち上がった。
すると今度は、さっきのものとは色も形も違う無数の文字が、目線の先に山となって置かれていた。
一度同じ物を取り逃がした僕は、きっとあいつらも触れようとしたら消えるのだろうと思った。だから逆に触れずに近くで見ているだけなら消えないはずだ、と考えて、その文字の山に接近しようとした。
ところが、今回の文字達はさっきの奴よりもめっぽう僕が嫌いだったらしく、ほとんどのものは一歩目が踏み出された時点でいなくなり、僕の予想を大胆に且つ、大幅に壊した。
ただ、そんな険悪な山の中にも僕を許してくれるものがいたらしく、山が消えた跡にひとつだけポツンと残っている文字があった。
唯一残ったその文字は消えていった奴らとは違って鮮やかな色彩を持っておらず、特徴を挙げろと言われたら、水面のように透き通った表面と黒い主線で形作られているということくらいだった。
僕はその場に留まってくれた黒い文字に近づくと、お前は消えてくれるな、と願いながら最初の文字にしたように手を伸ばした。すると文字に触れる寸前で、僕は何かが文字の下敷きになっていることに気づいた。
首を傾けて下にあるものを確かめると、そこにあったのは見慣れた僕の小説のノートだった。
僕は押しつぶされているノートを助けようと重石になっている文字に手をかけ、持ち上げようとした。だが、光を反射しているその字は氷のように冷たく、盤石で不変的で、弱い僕には到底持ち上げられそうになかった。
「夏奈慧くん」
僕が冷たい重石に手をかけてノートを救えないことを悟ると、直後に頭上から聴き覚えのある声が聞こえた。声のする方を見るとそこには懐かしき先生の姿があった。
先生は僕の頭に手をあてて伸びた髪をわさわさと撫でた。そして今までピクリとも動かなかった文字を僕がよそ見をしているうちに軽々とどかし、そっとノートを拾い上げた。
思わぬ形で用が済んだ僕は、折り曲がっていた身体を伸ばして立ち上がった。すると今までずっと上の方にいたはずの先生が僕の目線よりずっと小さくなり、先生らしさを失わせた。
「大きくなったね、いつの間にか抜かされちゃったな」
僕の目線より下になった先生は、悔しそうに、それでいてどこか嬉しそうに掌を自分の身長の高さに固定し、自分と僕の背丈の差を測った。
僕は心のどこかでずっと会いたいと思っていた先生がこうして目の前にいるのに、どういうわけか喜びも驚きもせず、声をかけられても黙ったままだった。
「どうしたの?」
しかし、それでも先生は柔らかく優しい表情を変えず、また一言声をかけてきた。
だが、僕も同じく口を開こうとしないので、先生はそこでようやく困った顔を見せ、そうしていることを楽しんでいるかのように笑った。そして僕の目を盗んで持っていたノートを広げると、ページに書いてある僕の文字を読み始めた。
「あっ………」
隙を突かれた僕が思わず声を上げると、先生はこちらに目線を移してさっきとは違う種類の笑顔を作り、またノートの解読に戻った。
そこからはしばらく沈黙が続いた。
僕は先生を待っている間、何もすることがなかったので、とりあえず横に転がっていた文字に腰を落とした。
この空間には音を発するものがないらしく、常にどこか寂しさがあり、静寂に響く耳鳴りは大きくなったり小さくなったりを繰り返し、至極鬱陶しかった。
「どうすればいいか、わからなくなっちゃったんだね」
しばらくすると、ノートに目を通していた先生が僕の隣に座り、身体を寄せてきた。しかし、先生の身体が触れてもその箇所が温もりを感じることはなく、何かしらの物質が当たっているとしか認識できなかった。
「先生はどうして………あの日を最後に、僕と会ってくれなくなったんですか?」
僕はその違和感を意識しないようにしながら、先生の質問を無視して自分の質問を口にした。その質問は僕にとって大きな意味を持つものだった。
今から十年前のあの日、僕は慕っていた人間に初めて裏切られた。さよならも聞けずに置き去りにされ、二度と会えなくなった。
裏切りとは皮肉なもので、された相手が大切な人であればあるほど、後に残る傷も大きくなる。
僕はそうして十年間残り続ける傷を心に作り、目の当たりにした人の死やその傷跡から自分の人生観を生み出した。誰にも、何にも頼らず、自分が死ぬその日まで明確な何かを持たずにただ漠然と生きていこうと。
「………私は先生だから生徒である夏奈慧くんに弱い姿を見られたくなかったの」
それから答えが返ってきたのは長い沈黙の後だった。
先生は最初、会話の流れにそぐわない僕の唐突な質問に戸惑った様子を見せ、さらに少しの沈黙を挟んでから弱い声でそう答えた。そしてノートを閉じて両手にもつと、その手を膝に置いて俯いた。
「本当………ですか?」
僕はその返答に前にもどこかで感じたことのある違和感を察知した。だからその真意を探りたくなり、もう一度先生に問いかけた。
「………ごめんなさい。私、見え張っちゃった」
「え………?」
すると先生は躊躇いながら僕に謝った。
「本当はね、夏奈慧くんに会うのが怖かったの。私は小さい頃から早死にするってわかってたから、ずっと死ぬ覚悟を持って生きてきた。でも、あの子が生まれて………夏奈慧くんに出会って、それからは死にたくないって思いが強くなった」
話し始めた先生の声は僅かに震えていて、そこに普段の大人びた余裕などはなく、声を出すので精一杯のようだった。
「………だけど、私の寿命が伸びるわけじゃないから、自分の死期はどんどん近づいてくる。それでいざ現実を受け入れなきゃいけなくなった時、夏奈慧くん達が夏祭りに誘ってくれて。凄い楽しかった。だから、逆にこれ以上この子達と一緒に時間を過ごしたら、私は死んでも死に切れなくなる気がしたの………」
「だから会わなかった………会えなかった………」
「うん。それも先生の立場を守るんじゃなくて、自分自身を守るために………」
今までずっと上の存在だと思っていた先生が初めて見せた弱々しい姿は、記憶にある姿からは考えられないほど小さく、僕の目には幼い子供のように映った。
「先生にも………そういう面があったんですね」
「あはは、幻滅したでしょ………。いい大人がこんな子供みたいに意地はって………」
僕が驚きを口にすると、先生は自分の身体を毛嫌いするように白い目で見回すと、そう言って表情を変えないまま自分自身を嘲笑った。その姿はいつかの花楓とそっくりで、僕は無意識に二人を重ねた。
僕が呆気にとられて何も言えないでいると、先生はそれを物欲しそうな顔でしばらく見て、それでもなお続く沈黙に、眉を八の字にして困ったように笑った。
「子ども扱いしないで、ちゃんとお別れをするべきだったって今は思う」
それから仰ぐように天を見上げ、放たれた先生の声には反省の色や後悔の念が色濃く出ていて、今まで僕が持っていた彼女の印象とはやはり、かけ離れた物だった。
予想外のことに困惑した僕は、周囲に漏れ出した居心地の悪さから逃れようと秘かに息を吐いて心を落ち着かせた。
「………わからないんです。先生の言う通り、自分がこの先どうすればいいのか」
そして今まで自分がしていた見誤りに蓋をすると、ようやく僕は脱線させた会話を元のレールに戻し、自白を始めた。
「私のせいね。私が変なプライド持ったり、あの子に小説なんて世界を教えたばっかりに」
「そんな、先生のせいだなんて………」
「うふふ、ありがとう。でもやっぱり私のせいってことにしておいて。じゃないと私の気が済まないから」
先生はそう言ってなぜか笑うと、読んでいた僕のノートをまた開いた。
「先生にとって小説はね、大切な誰かに自分の気持ちを伝えるためにあるの。言えなかったこと、わかってほしかったこと。こうしたかった、こうしてほしかったっていう願望だったり、ああしておけばよかったっていう後悔だったり。そういう、口じゃなかなか表現できない心の底を言葉にして、物語に込めるの」
隣でそう語る先生の物言いは、その域に達した人間のもののようだった。
そして発せられた一つ一つはしみじみと僕の心に響き、じんわりとその言葉の意味を染み渡らせた。
「夏奈慧くんには自分の気持ちを伝えたい誰かがいる?」
すると先生はおもむろに立ち上がって数歩前に歩くと、少し間を開けてそう言った。
予期せぬ問いに対して恥じらいを感じた僕は、またさっきのようにうんともすんとも言えなくなり、口を閉じたまま下を向いた。
「うふふ………きっと、夏奈慧くんなら大丈夫だよ。だって私の教え子で、私の娘が選んだ金の卵だもん」
先生は何も言えない僕を見てまた笑うと、それを取り繕うように励ましの言葉を続けた。
「あの子がなんて言ったかわからないけど、私はこの物語が好きだよ」
そして話を僕の物語のことに戻すと、緩んでいた表情を真剣なものに切り替えてノートを初めのページから眺めなおした。
「あとは、夏奈慧くん自身が迷わず自分を信じてあげるだけだよ。だからもう泣いたりしない。わかった?」
「………」
先生が僕に約束を望むと、僕はまだ沈黙を続け、さっそく涙を流し始めた。そして顔を上げると歪む視界に映る先生もまた、涙を瞳に溜めていた。
「夏奈慧くんは私の生きる意味だった。もちろんあの子もね………」
「………」
「だから、頑張って………私の分まで、強く生きてね………」
先生は自分の座っていたところにノートを置くと、最後にそう囁いて僕の目の前からあの文字達のように消えていった。
その後には温度のないノートだけが残され、居心地が良いのか悪いのかもわからない空気が漂っていた。
僕以外、何もかもがいなくなった空間の中、僕はただそのノートをぼんやりと見つめていた。
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