第6話

『おかげさまで先日、花楓ちゃんが退院でき、面会できるくらいの体調に戻りました。夏奈慧くんが良ければ、明日にでも顔を見せにいらしてください』

夏休みが始まって三日が経過した日、僕のスマホに花楓のお祖母さんからそんなメールが送られてきた。

僕はその翌日、花楓の家に向かっている途中の電車で今朝送られてきたそのメールを見直し、視線を画面から見慣れた景色が流れる窓の外に移した。

いつもの通学時よりずっと空いている車内はとても静かで、イヤホンから流れてくる音楽を邪魔するものはなかった。おかげで何週間ぶりに花楓と会うことへの不安は一時的ではあるが取り除かれ、落ち着いたままでいられた。

しかし、普段より何個か早い駅で降り、地面に足がつくとその夢からも覚め、電車の扉が閉まると同時に忘れていた不安が蘇ってきた。

嫌だと思いながらも改札を抜けて駅を出た僕は、メールと一緒に送られてきた花楓の家の住所をスマホで調べ、この前訪れた時に見た覚えのある道に出るまで表示された通りに足を進め始めた。

見慣れない街の景色は物全てが目新しく、僅かに冒険心が揺れた。だが、それも一瞬のことで、抱いている感情のせいか、目に映るものを一つ一つ追ってみると、それらはどれも既視感のあるものでしかなかった。

結局、家を出た時から患っている不安は拭えないまま、何をしても僕の気分が晴れることはなく、気づいたら花楓の家の前に着いていた。

僕は逃げ出したいのを堪えて、どうにか身体を敷地の中に入れると恐る恐るインターホンを押した。

「はーい」

すると、家の中から聞き覚えのある声がした。

「あら、夏奈慧くん。いらっしゃい、ありがとうね」

しばらくして玄関の扉が開くと、その隙間からお祖母さんが出てきて、僕はまた家の中に連れていかれた。しかし、お祖母さんはこの前のように僕をリビングには通ず、その足で花楓の部屋へ行くように誘導した。

お祖母さんは部屋のドアノブに手をかけると、こちらを向いて、花楓ちゃんのためにあなたができる事をしてあげて、と僕に言ってから扉を開けた。

「花楓ちゃん、夏奈慧くんが来てくれたわよ」

花楓に声をかけるお祖母さんに続いて部屋に入ると、そこには踏み込むことを躊躇したくなるような光景が広がっていた。

「じゃあ、私は下に行ってるわね」

そして僕が部屋に入り切ると、お祖母さんはなぜかすぐにそこから退出していってしまい、僕は訳のわからないうちに花楓の部屋に置いていかれた。

「え、あの………」

部屋中には暗く、重苦しい空気が充満していて、お祖母さんが廊下側から扉を閉めると部屋は見違えるほど薄暗くなり、その要素をさらに際立たせた。

僕が足をつけた床には本棚に並べてあったはずの書籍や、クローゼットにしまわれていたであろう洋服が散乱していて、男である僕の目には絶対入ってはいけないようなものまで落ちていた。

「これは………ひどいな………」

 僕はその荒れ果てた部屋を前に自分が何をどうすればいいのか全くわからず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

数分後、このままでは何も始まらないと悟った僕はどうにか止まっていた足を動かし、踏み場を探しながら部屋の奥へ移動し始めた。だがその時、隅に置かれていたベッドの上の毛布がモゾモゾと動き、布の隙間から花楓の顔が出てきた。

僕は彼女の顔を見た瞬間、ずっと抱いていた不安のせいで、足だけでなく心臓まで止まりそうになった。しかしその顔が寝顔だとわかると、足はまた動き出し、共感覚の本が置かれていたはずの机の前まで進んだ。

そして傍の壁から文字の書かれてあるあの紙が消えていることに気づくと、僕は紙がどこへ行ったのかと机付近を見回した。すると望みの物は見つからなかったが、代わりに机の上に置いてあった本達を足元で見つけた。

見違えた部屋の中に見覚えのあるものを目にした僕は、安心感を得るために手を伸ばし、三、四冊が束になった本の山を持ち上げようとした。すると急に方向を変えた足が死角にあった何かに当たり、コトンと乾いた音がした。

「………あーあ、やっちゃった」

それを聞いて僕が音のした方を振り返ると、そこには木製のゴミ箱が広がった口を横にして倒れていた。

僕は床に広がった雪崩を見て思わずため息を一つつくと、こぼれた雪を集めるために、また床に手を伸ばした。

すると僕はその雪に、床に落ちていた本達を見つけた時のような既視感を覚えた。そして山の中の一片を拾い上げ、しばらくそれを見つめ続けると突然はっとなり、それが何なのかようやく理解した。

「ノートだ………」

ゴミ箱に捨てられた雪のようなもの。それはいつの日か、花楓が僕に渡したあの物語が書かれたノートだった。今となってはその形状は荒く崩れ、どこにも原型はのこっていないが、証拠に破られた雪の一片一片には黒い文字が所狭しに並べられていた。

思わぬ物を思わぬ形で見つけた僕は、ふとさっきお祖母さんが言っていたことを思い出し、反射的に花楓の方を向いた。

「そうだ」

そして僕はある事を思いつくと、おもむろに立ち上がってノートの破片を一度机に置いて、一階にいるお祖母さんに助けを求めた。数分後にはお祖母さんから新しいノートとセロハンテープを借りて二階に戻り、バラバラになった雪の破片を集めてノートの修復作業を始めた。

物語の内容を思い出しつつ、机の上に移した紙の山から破片を一つ取り、まずは一ページ目の破片を探しだす。

何百何千というパーツの中から特定のページのものを見つけるのは始める前からわかっていたが、ほとんど無謀に近く、作業は出だしから難航した。

 しかし、あれでもない、これでもないと四苦八苦しているおかげで、僕は余計な思考をこらさず無心になれたので、作業を投げ出そうとは思わなかった。

「ありがとう………来てくれて」

それからしばらく部屋に紙の擦れる音とセロハンテープの剥脱音だけが響き続けると、背後のベッドが軋んで少しの間を開けてから花楓の声が聞こえてきた。

僕がベッドの方を振り返ると、彼女はこちらを見て物寂しそうに笑い、そうかと思うと吐く息と一緒にその目線を落とした。

「ごめんね………見損なったでしょ、こんな醜い状態で」

そう言うと、花楓は自分の部屋と身体を自身の目で眺め、暗い表情を崩すことなく寝乱れた髪に手櫛を通し、掻き上げた。

「見損なってはないけど、心配だとは思った」

「あはは、私の事なんて、そんなに気にかけてなくて大丈夫だよ」

「この部屋見せた後じゃ説得力ないよ」

「これは………実は私がやったんじゃないから」

 僕の指摘に対して花楓が苦し紛れに戯けると、僕は呆れて机の方を向き直し、中断していた作業を再開した。

「何してるの?」

 そして僕が元の体制に戻ると会話が途絶え、その沈黙に耐えかねた花楓が身体を前のめりにしてベッドから僕の手元を覗いてきた。

「部屋を荒らした犯人が、小説のノートを破っていったみたいだから、それを直してるんだよ」

僕がそうやってわざと遠回しな冗談を言うと、花楓はそれ以上言い返してこず、僕の頭の中には花楓が頬を膨らましている様が自然と思い浮かんだ。

「しょうがないな。じゃあ、今から部屋も片付けてあげるから、指示して」

そこから僕は滅入っている花楓の気も直すべきだと思い、背後にいる花楓にそう言うと修復作業をやめて机から離れた。

「え………?あ、うん………ありがとう」

部屋の全体を元の状態に戻すのはノートの修復作業ほど難解ではないが、それにはない全身を使う労働を強いられた。

ただ部屋の全体といっても僕が片付けるのでは倫理にまずいものもあるので、それは花楓に初めのうちに片付けてもらい、僕が作業を始めるのはその後だった。

 

 部屋の整理が一段落したのはそれから二時間ほどが経ち、時計が正午を過ぎた頃だった。

床に散らばっていた服や本はそれぞれの居場所に戻り、こもっていた空気も窓を開けて換気をしたことで、だいぶ呼吸がしやすくなった。

「結構、綺麗になったね」

「ほんと。ごめんね、こんな面倒なことまでやらせちゃって」

 花楓は再びベッドの上に戻って、それなりに見違えた部屋の中を改めて眺めると、満足そうに、そして申し訳なさそうに僕に謝った。

 すると僕が花楓に返事を言う前に部屋の扉が叩かれて、音を発した。

「お昼ご飯できたわよ、夏奈慧くんのも用意してあるから食べにいらっしゃい」

 その音に続いて今度はお祖母さんの声が聞こえ、さらに後から何かまではわからないが、とても香しい匂いが扉と床の隙間から漂ってきた。

「はい、今行きます」

僕は花楓ではなくお祖母さんの方に返事を返すと、手に持っていた最後の本を棚にしまった。そして扉の近くまで進むと一緒に部屋を出ようと思い、まだベッドに座り込んでいる花楓の方を振り返った。

「行こう?」

僕がそう声をかけると花楓はまた影に隠れ始めていた表情を強引に明るくし、腕を前に伸ばすと、その手を引っ張るように目で信号を送ってきた。

その合図を受信すると、僕ははあ、とまんざらでもないようなため息をついて、その手を取りに部屋の奥へ戻った。

「やっぱり優しいね」

「言わないで。恥ずかしくなるから」

久しぶりに触れた花楓の掌は変わらず柔らかで、単に握り返す気力がないだけかもしれないが、僕よりずっと優しくこちらの手を包んでくれた。

僕はその手をしっかり掴んで腕にそれなりの力を入れた。しかし、花楓の身体は思っていたより弱い力でも軽々と持ち上がるような重さしかなかったらしく、僕が誤った出力で手を引いたせいで花楓は勢い余って僕の胸元に飛び込んできた。

「うわっ!」

僕はその突然の出来事に驚いて足の踏ん張りが効かず、花楓と一緒に後退りをし、整理したばかりの本棚にもたれるようにぶつかった。

「ごめん、引っぱりすぎた」

「………」

「………大丈夫?」

当たった痛みがひいてから僕が気遣って声をかけると、なぜか花楓は一切応答しなかった。するとその代わりに彼女の手がゆっくりと僕の服の上を滑り、腕の下を通って背中にまわされた。

「花…楓………?」

 ふいに訪れた沈黙はもう一度声を出しても続き、僕はその中でどうたらいいかわからず、ピクリとも身体を動かせなくなった。そしていまだ胸に埋もれている花楓に対し、さっき彼女がしたように目で何か反応を見せろ、と無意味な信号を送った。

「ごめん………もうちょっとだけ………こうしていさせて………」

すると花楓は遅れてその信号を受信したらしく、発信して何秒も経ってから弱々しく途切れ途切れに呟いた。

胸の中にある暖かいものは、過ぎていった瞬間が増えるごとにじんわりとその温度を上げ、弱くても存在感のある重みで僕を包み、圧覚を強く刺激した。

「………うん、わかった」

僕は花楓の頭上から同じくらい小さな声で囁き、同じように彼女の背中に手を回した。

「入院してる時、ずっと一人で寂しかった。会いたかった」

「ごめん………」

 僕は花楓の気持ちにじかに触れ、今更ながらに彼女のお見舞いに行かなかったことを後悔した。

「まあ、私も夏奈慧くんのこと追い返しちゃったからあんまり言えないんだよね………。だけど次は断らないからさ………会いに来て」

「わかった………すぐ駆けつけるよ」

掌に伝わってくる花楓の体温は暖かく、僕はその温度に気づくと花楓もちゃんと生きているんだな、などと当たり前で今の状況とまったく関係のないことを考え始めた。その一方で腕の中のその命は周期的に鼻をすすり、時折僕の背中に回した腕を戻して目を擦っていた。

「………ありがとう、もう大丈夫」

花楓がそう言って僕から剥がれたのは、時間で換算するととても短いものだった。しかし、僕からするとその僅か数十秒は、その絶対量の何倍も長かったように思えた。

「じゃあ、行こうか」

しかし、いざ花楓の体温が離れるとそんな気はしなくなり、むしろ本来の何分の一ほどの時間しか過ぎていないような気すらしてきた。

「うん」

僕は花楓の後から部屋を出て、階段を降りていった。するとさっき僕達を呼んだお祖母さんが台所に立っていた。

「座ってていいから、もうちょっと待っててね」

お祖母さんは僕達が降りてきたのを見ると、フライパンに溶き卵を注ぎながら食卓へ座るように促した。

僕は先に食卓に着席した花楓に指示されて、彼女の正面の席に座った。

「はい、できたわよ」

そう言ってお祖母さんが出してくれたのはデミグラスソースのかかったオムライスだった。

食卓に置かれたそのオムライスは、窓からの光で半熟の卵とデミグラスソースがキラキラと輝いていて、その光が立ち昇る湯気と香りに次いで僕の食欲をかき立てた。

「いただきまーす」

「いただきます」

「召し上がれ」

いつもと人も声の数も違う中での食事はどうしても僕をぎこちなくさせたが、それも最初のうちだけで、お皿の中のオムライスが減っていくと次第に食卓の会話が弾みだし、そのなれないぎこちなさは居心地の良さに変わっていった。

涙の痕跡が残っている花楓の表情も、その頃にはすっかり和らいでいて、心の底から湧き出ているとわかる、自然な笑顔をちゃんと僕に見せてくれた。

 

「まじかー。まさかお前とあの宇佐美さんがな」

その翌日、僕はその日のことを一人では抱えきれなくなり、奈央が僕の家にゲームをしに来たタイミングで、彼に助け舟を求めた。

「別に付き合ってるとか、そういうわけじゃないんだよ」

「本当か?でもどうせいずれはそうなりたいとか思ってるんだろ」

「思ってない」

しかし僕が話をするとそれを盗み聞きいていた俊太が、奈央より先に口を開いて煽りを始めた。

「へー、じゃあ俺とか奈央が宇佐美さんと付き合っても嫉妬したりしないな」

「しないよ」

「本当か?」

 俊太は僕が否定してもいつもの調子でしつこく僕をおちょくり、にやけた顔を見せた。

「夏奈慧がしないっていってるんだからしないってことでいいでしょ。あと俊太には話してないから、口を挟まない」

「はいはい、わかったよ」

 そして呆れた奈央が強い口調で歯止めをかけると、俊太は全くこりていない様子で諦めたふりをして、またゲームに集中し始めた。

「まったく………それで、ご飯食べた後はどうしたの?」

「ああ、えっと、その後はすぐに部屋に戻って学校のことだったり、色々となんてことない話をしてたんだけど、何かの拍子に花楓が小説の話を始めて―――」

 

 ***   ***

 

「あのさ、小説のことなんだけど………あのことは全部忘れてくれない?」

「え………?」

花楓が僕にそう告げたのはお祖母さんのオムライスを食べた後、花楓の部屋へ戻ってしばらくしてからのことだった。

「わかった?」

「えっと………ちょっと、待って………」

僕は直前の会話とまったく関連のない中で放たれた、まさに唐突な発言を受けてひどく戸惑っていた。


 ***   ***


「それに夏奈慧はなんて答えたの?」

「花楓の考えてる事がわからない、って………」

 口にする前からわかってはいたが、僕が花楓に言った言葉を繰り返すと、奈央と俊太は同時にため息を漏らした。

「確かにこの間と言ってることが真逆だし、お祖母さんから花楓の小説に対する気持ちを聞いたのもあるから、そう聞きたくなるのはなんとなくわかるけど………」

「傷つけちゃったかな………」

「んー、難しいね。花楓さんはその質問になんて答えた?」 

「わかんないよ、そんなの。って言ってた」

奈央は僕の正面の食卓テーブルの席で、俊太が動かしているゲームの映ったテレビ画面を眺めながら考え込んだ。

「じゃあ、夏奈慧は今、どうしたいと思ってるか教えて。小説を書きたい?書きたくない?」

「それは………書きたいとは思わない」

「でも一時期は書こうとしてたんでしょ?」

「それは場の空気に流されて書いた。しかも今じゃ頼みの綱も消えたし………」

「頼みの綱?」

「言ったじゃん、共感覚だよ。花楓は僕に共感覚あったから小説を書かないかって誘ってきたって言ったでしょ」

「ああ、そうだったね」

 僕は伝えた事を忘れていた奈央に少し怒りを覚えながら、彼の言葉を待った。

「じゃあ、書く必要がなくなったのに、なんで夏奈慧は今も本を持ち歩いてるの?」

 すると奈央は罠にはまった僕に鋭い指摘を言った。

僕は彼に言われて手元に置かれた読みかけの文庫本を見ると、なんて言い返せばいいかわからず、黙り込んだ。

「ね。いざどっちだって言われると何とも言えないでしょ。そんなものなんじゃない?」

結局奈央は、はっきりこうだと答えを言わなかった。ただ僕も一杯食わされはしたが、そこまで馬鹿ではないので彼が何を言いたいのかはなんとなくわかった。

「なあ、作家っていくらぐらい稼げるんだ?」

僕と奈央の言い合いが終わると、テレビ画面の前でそれを聞いていた俊太が口を挟んだ。

「確かに。どれくらいなんだろう」

俊太の話につられた奈央は相談相手の僕を放って、食卓の上に置いていたスマホを持ち上げると、ネットで検索をかけ始めた。

「えっとね………出版社ごとに違いはあるけど、原稿用紙一枚ごとに三千円前後、そこに印税が一冊の値段の一割かける売り上げ部数の金額だけプラスされる。売れてる作家の詳しい収入はわからないけど、新人の頃は一冊で百万いけば最高だって」

「割と少ないんだな」

「でもさ、時々本の帯に百万部突破とか書いてあるじゃん」

「あー、あるね。じゃあ、もし百万部売れたとしたら………一冊六百円として印税が六十円、それに百万を掛けて………」

「六千万………!」

「しかもそこにページ分の原稿料も入るから………すごいね」

「………でも、はずしたら一文も入ってこない」

僕は二人の皮算用を横で聞いていて、六千万という単語に嫌でも気持ちが昂ぶり、それを抑えるためにわざと興ざめなことを言った。

「まあ、そこは賭けだよね」

「………才能あるかな」

「頭良いし、いけんじゃない?」

「かな………」

今の僕には俊太の楽観的な意見も少しの励ましの言葉に聞こえ、目の前にある人生の分岐点をどちらに進むか大きく左右に揺らされた。

「あはは、やっぱり夏奈慧は教養小説の主人公みたいだね。そんなに深刻そうに考え込んじゃって」

「馬鹿にしてるだろ」

「だからしてないって、するわけないじゃん」

 僕達は前にもした覚えのあるセリフを言い合うと、お互いの顔を見てわらった。

「でも、決めるなら早くした方がいいよ。決断が遅れるとどっちに行っても結局は手遅れでした、なんてことになっちゃうから」

そして急に真剣な表情をして放たれた奈央の言葉は、嫌なくらい腑に落ち、だからこそまだ悩んでいる僕は内心すごく焦らされた。


「主人公か………」

二人が帰った後、僕はベッドで奈央が言ったことを思い出した。

「見えるか?」

そしてスマホを顔の上に持ってきて、画面の反射で自分の顔を見つめながら、長い前髪をいじる。共感覚が消えた今も、髪の隙間からちらつく二つの目だけは、変わらず醜い色のままで、髪で隠れているのになお、さえない僕の顔面の中で奇妙な存在感を放っていた。

「そこまで言うなら、やってやるか」

そして僕はしばらく瞳を見つめながらあれこれ考えを巡らせると、誰もいないのに乗り気になり始めている自分を隠して、嫌々を演じた。

「まずはキーワードだったね」

 僕はベッドから抜け出すと真っ先に机に向かい、出しっぱなしのまま長い間放置されていたノートを開いた。

空白の多いページに僅かに書き残されたキーワード。僕はその文字の下に続けるように新しく思いつける限りのキーワードを書きたした。藤浪夏奈慧、高校二年、ヘテロクロミア、二人の友達、嫌いな奴、謹慎、共感覚、宇佐美花楓、小説、お祖母さん、先生………

前回とやっている作業は同じなのに、今回はなぜか一度手を動かし始めるとなかなかペンを置かなかった。原動力が何なのかは自分でもわからない。全てが花楓のためというでもないし、自分のためとも言い切れない。

だか、僕はその何かに突き動かされ、それから何時間もノートにしがみついていた。頭の中で思考し、思いついた言葉を手で書いてまた考える。書いたものが気に食わなければそれを消して、上から別の言葉をまた書き込む。その作業を何度も何度も、一晩中繰り返した。


 ***   ***


「ねえ、先生何してるの?」

夏休み直前のある日の昼休み。僕は珍しく俊太と奈央と別行動をとり、教室の教卓に座る先生の隣にいた。

先生は机の上に僕が授業で使っているのより、ずっと細かい線のひかれたノートを広げて、ひたすら鉛筆を走らせていた。

「これ?」

僕が集中をそぐと、先生は優しい声で机の上のノートを指差し、僕に聞き返した。

「これはね、お話を書いているんだよ。ある男の子とある女の子の物語」

そして僕が頷くと、先生はノートを持ち上げてページをパラパラめくりながら、何をしていたのか教えてくれた。

「物語?」

「そうだよ。小説ともいうね」

「小説………面白そう!僕も小説書く!」

「ふふふ、いいと思うよ。夏奈慧くんならきっと凄いのが書けるよ」

僕の子供ながらの無責任な物言いに先生は少し驚きながら笑い、でもその無邪気な発言をちゃんと受け止めてくれた。

「ただ、もうちょっと大人になってからかな」

 そして先生は僕の頭を撫でながら、どこか物惜しそうに言った。

「先生、これはなんて読むの?」

「それは私のペンネーム。―――って読むの」


 ***   ***

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