第5話
*** ***
「夏奈慧くん、おはよう」
「おはよう…ございます」
小学一年生、十一月。
僕が教室に入るとそこには新しくクラスの担任になった男性教師の佐藤先生がいて、いつものように教室に入ってきた生徒一人ひとりに優しく挨拶をしていた。
「俊太くんも奈央くんも、おはよう」
「おっはようございまーす」
「あ、おはようございまーす」
佐藤先生は僕の後から入ってきた俊太と奈央にも同じように声をかけ、二人も僕と同様に返事を返した。
担任交代があったのは四十日間の長い夏休みが明けた初日のことだった。
先生は生まれつき持病を持っていたらしく、担任が交代になったのも、その病気が悪化して入院することになったからとその日に説明があった。僕はお見舞いに行くために何度か交代で入った佐藤先生の入院先を聞いた。しかし、彼はそれに対する答えは愚か、教えられない理由さえも僕に貰えてくれず、いつも茶を濁されて話が終わった。だから先生とはもう長いこと会っていない。
先生は僕にとって母親のような人だった。
いつも笑顔で明るく、凄いねと言ってよく褒めてくれた。僕は初めてその一言を言われた時、心から嬉しいと思った。
僕の母は父と離婚してからはいつも仕事で忙しく、あまり僕をかまってくれなくなった。僕は子供ながらに母の大変さはわかっていたけど、だからといって寂しさが消えるわけではないし、事実僕はずっと寂しかった。だからその寂しさを埋め合わせてくれる優しさに触れた僕は、それを愛情だと思い込み、自分を愛してくれた先生のことが大好きになった。
そんな先生が病で入院して、当分会えなくなると知った時はひどく取り乱し、何日か学校を休んだ。ただ、別にもう二度と会えなくなるわけじゃないので今はそんなこともしなくなり、先生のいない学校生活にもだいぶ慣れた。
先生と交代で入った佐藤先生は真面目で優しく、どんな授業でも僕達生徒に興味をわかせる、言わば教師の鏡のような人だった。
しかし、この日の彼の表情には普段違い、どこか余裕がなさそうで、悲しそうな面持ちをしていた。
僕達が学校に着いて十五分ほどが過ぎると朝礼が始まり、その場で男性教師はそんな表情をしていた理由を重々しく口にした。
―――先生が昨日、お亡くなりになりました―――
僕が聞き取れたのはそれだけだった。佐藤先生の声の後にはクラス全員の沈黙が着いてきて、その沈黙は長い間破れずに続いた。
………先生が………?
僕はあまりに唐突な訃報に理解が追いつかず、それから長い時間、意識がはっきりしなかった。
「夏奈慧くん達、少しいいかな」
朝礼が終わるとまだ聞きなれない佐藤先生が茫然としていた僕達を呼んだ。そして僕達はそのまま職員室へ連れて行かれ、彼がそこら辺からかき集めた三つの椅子に着席させられた。
「今朝の話の続きなんだけどな………」
そう口火を切ると彼の暗い顔にいつもの真面目さが少しばかり混ざり、真剣な口調で話を始めた。
「明日、先生のお葬式があるんだ。君達の先生は亡くなる前に、自分が死んだら三人にも葬儀に出てほしいと言っていたらしく、昨日親族の方から案内の電話があったんだ。君達には今、先生との最後の時間を過ごす権利がある。だからこの場でお葬式に行く気があるかないか、教えてほしい」
その翌日、僕は佐藤先生の車に乗って、来たこともない街に連れられていた。
隣にはちゃんと俊太と奈央が座っていて僕は一定の安心を感じていたが、それでもやはり心のどこかでは常に抱いたことのない蒼い感情が存在していた。
その大半は漠然とした悲しさだった。だか、その感情はそんなに単純なものではなく、中には憎しみに似たものさえあった。
「着いたよ、降りよう」
しばらく走ると車は大きな建物の駐車場に停まり、先生が到着を告げた。
ほとんど会話のなかった車内から降りると、僕達は息苦しさを保ったまま先を歩く先生を追った。そしてさっき窓から見えていた建物に入ると、僕達は奥の方にある部屋へ通され、定時になるまでそこで待つように言われた。
「遺伝病ですって」
「可哀想ね、まだ若かったのに」
「子どももまだ小さいのに」
「その子には遺伝してないといいわね」
部屋に入ると入り口付近で話していたおばさん達の会話が聞こえた。
僕はその人達が何を言っているか気になり、声のする方を見た。
「この度はわざわざお越しくださって、どうもありがとうございます。きっと娘も喜んでいます」
すると僕の見ていない間に左の腕に黒い布をつけた女の人が僕達に近寄ってきて、僕達にそう声をかけてきた。僕はこの見知らぬ人が言っている言葉の意味が頭に入ってこず、隣で頭を下げた佐藤先生とその人の顔を交互に見上げた。そして女の人と目が合うと彼女はその場にしゃがみ込んで目線を僕に合わせた。
「あなた達が教え子さんね、みんな来てくれてありがとう」
その人は笑顔を作ると、僕達三人の顔を確認しながら順に頭を撫でてきた。そして、また後でね、と最後に言って立ち上がると、次に部屋に入ってきた人の対応へまわった。
僕がその人の姿を追って後ろを振り返ると、彼女について行く一人の女の子が目に留まった。
その子は僕が見ていることに気づくと一瞬目を合わせて立ち止まり、恥ずかしがってか不審がってか、隠れるように女の人の後ろに回った。
*** ***
「二番線から電車が発車します。閉まるドアにご注意ください」
アナウンスが響く学校帰りの駅のホーム。電車が来ると、僕はいつも通り二人と同じ車両に乗って、閉まったドアにもたれかかった。
すると二人もなんとなく僕の傍にかたまり、いつもと変わらずなんてことのない話を始めた。
見た目だけなら普段と変わらない光景だ。三人一緒の電車に乗り、数日後に迫った期末テストの話なんかをしながら僕の家に向かって、俊太の持ってきた新しいゲームをする。最後の一つはテスト前のこの時期には異常な行動かもしれないが、それは問題ではない。
僕が雄介を蹴り飛ばしてから二週間、花楓に会いに学校を飛び出して一週間。最近奇行に走りすぎたせいか、僕はクラスの生徒どころか二人とも関係が途絶えていた。
電車がガタンゴトンと左右に揺れる中、二人の会話をよそにふとスマホを覗くと、光った画面にはメールの通知がきていた。
『花楓が夏奈慧くんと面会したいそうです。時間が許す時でいいのでぜひ会ってあげてください』
そのメールは花楓のお祖母さんからのものだった。
僕はメールを確認するとわかりました、と一言返信を送り、それ以上の操作は何もしないでスマホの画面を閉じた。
駅の改札を抜けて家への道を歩いていると今日に限って、いつも見流しているはずの草木が目に止まった。少し前まで花をつけていた街路樹のユリノキは、すっかり花を散らせてどこか悲しげで、青白い花弁のかわりに味気ない紅葉型の緑葉を茂らせていた。
「なあ、悪いんだけどさ。今日はうちに寄らないで帰ってくれない?」
僕は帰り道の途中で二人にそう切り出した。関係を悪化させるかもしれないが、今の僕はそんなことに気をかけられるほど、心の余裕がなくなっていた。
「………わかった。じゃあ、また明日な」
いつもならさすが優等生、などと言うはずなのに俊太は何かを察してか、それとも単純に極力僕と一緒にいたくないからか、あっさりと僕の頼みを聞き入れた。
二人が帰った後、僕はざわつく心を沈めるために、いつものごとく自分の部屋へ逃げ込んだ。
堅苦しい制服を中途半端に脱いでベッドに横たわり、下校の時からつけていたイヤホンの音に初めて耳を傾けた。毎日飽きるほど聴いているはずなのに、流れてくる曲達はいつもより鮮明に聴こえ、楽器の一音一音と歌詞の一言一言が僕の沈んだ感情にそっと寄り添ってくれる気がした。おかげで曲が一つ終わるごとに僕の中のその感情は風化していき、それが砕け消えた跡には一時の心地良さだけが残った。
僕はこのまま時間が止まってくれないだろうかと本気に天に願ったが、窓の外の雲はさっきと同じ速さで流れ、うっすら開けた視界に映る時計は当たり前のように秒針を刻んでいた。
「はあ………何してるんだろう、止まるわけがないのに」
僕は自分の馬鹿げた思考を嘲笑い、左右に放り出されていた両手を頭の下に入れた。
「………ほんと、何してんだろう」
零れるように放った口癖は鉛のように重く胸にのしかかり、肺を押して口からため息を出させた。
僕はしばらくそのまま目を瞑っていようと思ったが、こうしていても無意味な時間を過ごすだけだと悟ると、明日のテスト教科の復習だけはしておこうと机の前に座った。
しかし、いつもなら色とりどりの教科書がこの時は色味がないように思え、試しに色のある文字をノートに書いたが、感じるのは虚無感ばかりだった。
変な違和感のせいで勉強にはまったく身が入らなかったが、それでも何もしないよりは気が紛れるぶん良かったので、僕は教材を投げ出そうとはせず、問題を解く手だけは止めなかった。
ふと教科書から目線を外すと、視界の端に小説のノートが写った。だが、今日に限ったことではないが、僕はそれに手を伸ばそうとはしなかった。
「ただいまー」
それから二時間ほど無心で黒い字面と格闘していると、母が帰ってきた。
「夏奈慧、明日も学校なんだから、早めに食べちゃいなさい」
そんな母の声が聞こえてから十分ほど経ったところで僕が一階へ降りると、すでに食卓には目新しさのない惣菜が二、三品並んでいた。
僕は台所のカトラリーから母と自分の箸を取って母より先に食卓の席に着くと、それらを眺めながら人が揃うのを待った。
「いただきます」
「………いただきます」
母が自分の荷物や買ってきたものを整理して、スーツから部屋着に着替えると夜ご飯の時間はすぐに始まった。
「夏奈慧、期末テストそろそろよね」
「………うん」
「勉強は進んだ?」
「それなりに」
「頑張るのよ、良い点取っといた方が後で楽だからね」
「うん………」
今日の教科書のように色味のない、いつもの会話は、今日も機械のように一定のテンポで交わされ、その回数が増すごとに僕が感じていた虚無感も一層大きなものになった。
「こんばんは、八時を回りました。今日のニュースの時間です」
母がつけたテレビから番組冒頭の決まった挨拶が流れると、僕は現在時刻を耳にしたばかりなのに、無駄に時計を確認して夜ご飯の席を立った。
自室へ戻ると、誰もいなくなっていた部屋にはさっきより冷たい空気が充満していた。
僕が、夜ご飯を食べた分以上に重くなっている身体をベッドへ投げると、部屋のどこかから軋む音が聞こえ、後に続く沈黙を目立たせた。
終わりのない無音は高デシベルな教室や電車の中よりもしつこく耳に付き纏い、僕の胸に不快感と抱きたくもない孤独感を運んできた。
すると、その直後に手の中に握られていたスマホが鳴った。
『会いたい』
スマホが知らせたのは花楓からのメールだった。
偶然にもほどがある。
メールのタイミングと内容は、そう思わずにはいられないくらい僕の感情を汲んでいて、不振な雰囲気が溢れていた。ところが、僕はなぜかその怪しさに魅せられ、母がリビングのテレビに夢中になっている間に花楓へ返信もしないまま家を飛び出した。
玄関の傍に留められている自転車に乗ると勢いよくペダルを漕ぎ始め、この前の朝のように急ぎ足で駅へ向かう。その途中で交差点の信号に引っかかると、僕はようやく花楓に返信を送り忘れていることに気づき、スマホを開いた。
『今から行く』
短くてお互いに淡白ではあるけど、久しぶりにする花楓とのやりとりはやはり胸が高鳴るものがあり、脚にも自然と力が入った。
おかげで自転車は少しの段差でも大きく揺れるくらいに速度を上げ、チェーンやギアの錆びついた箇所は前より壊れそうな音で軋んでいた。
風に揺れる味気ないユリノキもこの時ばかりは楽しげに踊っているように見え、勝手に自分の後押しをしてくれているように思えた。
駅について駐輪場に自転車を止めると、遠くから電車の案内放送の声が聞こえ、視界の右側に僕が乗るべき電車のヘッドライトが見えてきた。
僕はその光に気づくと、今度は自分の足で地面を蹴って、息を荒くしながらホームへ走りこんだ。
「一番線、列車が到着します。黄色い線の内側でお待ちください」
そして発車のアナウンスが鳴ると電車のドアは閉まり、ゆっくり加速しながらホームを出ていった。
しかし僕はその時、下車した人の人だかりの中で立ち尽くし、その人だかりが捌けていった後もその場から動かないでいた。
『今日は無理だよ。明日ね』
電車に乗る寸前のところで鳴ったスマホには、そう綴られたメールが映っていた。僕はホームの黄色い点字ブロックの手前でその画面をただ茫然と見ていた。
それから何分も経った後、メールのおかげで浮ついた夢物語から目を覚ました僕は、転がる自転車のタイヤと同じように現実に戻って地面に足をつけていた。
『わかった』
僕は自転車のハンドルを押しながら自分の返信で終わっているメールの画面を眺め、羽を失った鳥のようにぎこちない歩き方で来た道を戻った。
「何やってんだろう………。馬鹿みたいに焦って」
帰り道で見たユリノキはいつも通りの様子に戻り、上がっていた息もいつの間にか怖いくらい整っていた。
そして住宅地を縫うように進んで我が家が見えてきた時、僕は家の前にある人影に気づき、思わず声が漏れるほど驚いた。
「やっほー」
僕が家の前に見つけた人影、それは他の誰でもない奈央だった。
「なんで家の前で張ってるんだよ」
「ちょっとね」
僕が自転車を片付けながら驚きを隠して呆れたように言うと、奈央はたくらみ顔を見せた。そして少しぶらつこうと一言放つと、僕の返答も待たずに勝手に歩き始めていた。
奈央の行こうとしている場所は歩いていく道ですぐにわかった。そして十分ほど彼に着いていくと、僕はこの前より深く茂った葛と木の葉のトンネルの前まで来きていた。
「どこ行ってたの?」
「なにが?」
「自転車でどっか行ってたんでしょ?」
トンネルを潜っている最中、家の前で話してからここまで口を開かなかった奈央が鋭く僕に問いかけてきた。
「あー、それはいいよ」
花楓に会いに駅まで行ったなんて思いあがった、自分の恥ずかしい行いを奈央に知られたらどんなネタにされるかわからない。そう思った僕はそのことを絶対に言いまいと話を濁らせた。
「ふーん、そんなに知られたくないことなんだ」
するとその意図に気づいた奈央は詮索こそしてこなかったが、代わりにこちらを振り返って僕に見透かすような目を向けた。そして進行方向を向き直すとそれとなく片手で口元を隠し、ほくそ笑んだ。
「それで、なんでここに来たの?」
トンネルを抜けて丘の中腹にあるいつもの開けた空間に連れてこられると、今度は僕が奈央に問いかけた。すると奈央は青々とした草の上にあぐらをかいて、僕にもそうするように視線を送ってきた。
「なんか最近、夏奈慧とちゃんと話してなかったから。一緒にいてもずっと上の空だし、ゲームしてる時も楽しそうじゃないし」
「よく見てるね」
「よく見なくてもわかるよ。僕達何年の付き合いだと思ってるの?」
「そう………だよね」
「………ねえ、悩んでることがあったら相談してね」
「うん、わかったよ………」
奈央の優しい哀れみに僕はため息を吐かされ、仕方なく口を割ることにした。
僕はまず、今まで自分が何のために生きているかわからず、悩んでいた事を話した。次に花楓との事、雄介を蹴り飛ばしたり、学校を飛び出したりした理由を。そして最後に最近また何をすればいいのかわからなくなっていることを、余す事なく打ち明けた。
「………やっぱり夏奈慧はすごいね。なんか、教養小説の主人公みたい」
すると、僕が大まかに話していた間、口を挟まず聞いていた奈央が思わぬ事を呟いた。
「それ、馬鹿にしてる?」
「いやいや、してないよ。むしろなんていうか、考えてることが大人びてるって思った」
僕が奈央の言葉に対して疑いの目を向けると、彼は口早にそれを否定し、焦りながら弁解をした。
「そうかな」
「うん、僕なんか自分の生きてる意味なんて考えたことないもん」
そして冷静さを取り戻すと、さらにそう続けた。
「悩みがあってもそれが解決できなきゃ意味ないよ」
僕は奈央の言ったことが重く心に響いてきたのに、わざとそれを軽く流し、否定的なぼやきと一緒に一枚の写真を渡した。
「これは?」
「学校飛び出して病院に行った日に花楓のお祖母さんからもらった」
「じゃあ、この人が花楓ちゃんのお祖母さん?」
「そう。しかも奈央はこの人に見覚えない?」
「ある………けど、そんなことってある?」
「それがあるらしいんだよ」
僕が写真の中の一人を指差してそう言うと、奈央は少しばかり目を見開き、視線を写真に集中させた。
「………ってことは、先生と花楓ちゃんは親子?」
奈央はしばらく考え込んだ後で独り言のように呟くと、自分で言ったことにまた驚いた。そして、ついには考えることを放棄して、地面の上に組んでいたあぐらを崩した。
「先生か………懐かしいね」
「うん………そう…だね」
僕は奈央が空を見上げながら懐かし気に放った言葉に躊躇いながら答えると、彼とは逆に俯いた。
「ねえ、夏奈慧は夏祭りのこと覚えてる?」
「えっと………なんだっけ」
だが、奈央がその行動に気づかないまま当時の記憶を掘り下げようとすると、僕は自分で始めた話題なのに、それを嫌がって咄嗟にわざとらしくとぼけた。
「ほら、僕達が学校で夏祭りのこと話してたら、先生が『子どもだけで遅い時間まで外出してちゃいけません』って言ってきてさ、そしたら俊太が『じゃあ先生が一緒ならいいんですね』とか言い返したじゃん」
すると、そのとぼけは僕の望みとは真逆の方向に作用し、奈央は僕が求めていない思い出話しをし始めた。
「それで結局、先生本当に遅い時間まで僕達の付き添ってくれて。今考えたら、休みの日なのに一日付き合わせるのはちょっと酷いよね」
「………」
「………あ、ごめん………」
そして共感を求めて僕の方を見ると、彼はそうしてようやく僕の意図に気づき、ぎこちなく口をつぐんだ。
「………僕は良かったと思うよ。あの日、先生ずっと笑ってたから」
それからしばらく沈黙の時間が過ぎると、僕はおもむろにそう言い放ち、居心地悪そうにしていた奈央を助けた。
「そっか、確かに笑ってたね。………なら、良かったことにしよう」
すると奈央は僕の言葉を聞くとほっとしたように笑顔を見せ、落ち着いた口調を取り戻した。
「夏奈慧、嫌じゃなかったらでいいから教えて」
そして息苦しさが無くなると、彼はまた、今できたばかりの傷をつつくようなことを言おうとした。
「………まだ先生のこと引きずってるの?」
「え………」
そして躊躇いを感じさせながら放たれた奈央の言葉はその傷口に直撃し、僕は再び声を失った。
奈央と別れて家に帰ると、僕は外にいた時間の半分ほどの時間を母に叱られ、ベッドに入れたのは深夜になってからだった。
「生きる意味か………」
―――私があなたに生きる意味を授けます―――
―――僕なんか自分の生きてる意味なんて考えたことないもん―――
僕は家を飛び出す前のようにベッドに身体を放り出し、横になったまま二人の言葉を思い返した。手には無意識のうちに小説用のノートが握られていて、それを頭上に上げ、白いページを覗くと恐怖に近いものを感じた。
そう、僕は怖かったんだ。自分に才能がないとわかるのが、自分の生きる意味が見つけられないのが。
「生きる意味って何だよ………」
自然と出た独り言は重く心にのしかかり、見上げたノートの空白と部屋の天井をじんわりと歪ませた。
それから数日後の平日、僕は結局花楓のお見舞いに一度も行かずに、自分の部屋に引き籠もっていた。
今日は一学期最後の登校日で、翌日からは夏休みに入る。普通の生徒ならこれほど嬉しい日はないだろう。
しかし僕は違った。違うからこうして学校を休んでいる。
事の発端は一学期の期末テスト初日のことだ。
*** ***
「試験時間は五十分、始め」
開始のチャイムが鳴り、監督官の先生の合図で期末最初のテストが開始した。
僕は普通にシャーペンを持ち、普通に目の前の問題冊子を開いた。
その直後だった。僕は問題を目にした瞬間、自分の身に起きている異変に気付いた。
問題用紙が白黒だったのだ。
僕は初め、配られたものがなんなのか理解できず、その見慣れない色彩にばかり意識が向いて、問題を解いている場合じゃなかった。
*** ***
結局、僕は四日間に渡るテストの最終日になってもまともに問題が解けず、返却された回答用紙には見た事のない数字がずらりと並んだ。
ふと僕はベッドから起き上がり、自分の机の前に座った。そして引き出しから本の言葉を書き出したノートと無数の文字が散りばめられたページの切れ端を取り出し、わずかな希望を抱いてそれを目に映した。
しかし、やはりそこには以前のような美しさはなく、ただ白い紙に黒い字があるだけだった。
僕は共感覚を失ったのだ。
「夏奈慧、入るわよ」
僕が机から離れてベッドに逆戻りすると、とうに出勤時間が過ぎているはずの母が部屋の扉を叩いた。
「あれ、母さん、仕事はいいの?」
僕は母の事なんて考えている余裕がなかったが、愛想だけでも振りまいておくべきだと思って驚いた様子をした。
「仕事なんて行ってる場合じゃないわよ」
廊下から部屋に入ってきた母は両手で木製のお盆を持っていて、その上には湯気を上げている食器がのっていた。
「はい、お昼ごはん。食べたくなかったら残していいから」
「うん」
僕は早く一人になりたくて、そんな母をよそに素っ気ない返事を返した。すると母はお盆を机に置くとその望みとは逆に僕のベッドの方に来て、寄り添うように座り込んだ。
「ねえ、夏奈慧。母さんって良い母親かな」
「………急にどうしたの」
「その………最近あんまり夏奈慧の話をちゃんと聞いてあげられてないなって思ってね」
そして覇気のない声でそう僕に聞くと、横たわる僕を撫でるように布団の表面をさすった。
「駄目だよね、自分の子のこともわかってあげられてないのに母親なんて気取っちゃ。夏奈慧にはいっぱい迷惑かけてるのに、私はあなたに何もしてあげられてない………」
この時の母は珍しく弱気で、声もわずかに湿っぽかった。
「そんなことないよ。仕事は毎日遅くまで頑張ってくれてるし、それなのに家事も欠かさずこなしてるし。十分良い母親だよ」
僕が起き上がって紛い物の優しさを伝えると、母はふっと笑顔を作った。するとその表情は僕に本当の優しさが芽生えた感覚を植えつけてくれた。
「母さん、もし僕が小説家になるって言ったらどうする?」
だから僕はその紛い物のせいで気が緩み、余計なことを口にしてしまった。
母さんはおそらく、成績優秀な僕の才能を当たるか当たらないかわからないような博打の世界ではなく、安全に企業や会社に就職するという一般的な生き方に活かしてほしいと思っているだろう。子の将来に安定を望む、その思考は人の親なら誰でも思い浮かべることなので、母さんがそんな考えをしていても、なんらおかしなことはない。
だから僕は答えがわかっているのに無駄なことを聞いた自分が馬鹿らしくなり、なんでもないと言ってまた横になると、母から逃げるように壁の方に寝返りをうった。
しかし母は僕が思っていたよりずっと良い親だったらしかった。
「それが夏奈慧自身の決めたことなら、母さんはあれこれ口を挟まない。夏奈慧のやりたいようにしなさい、あなたの人生なんだから」
背後から聞こえてきた母の声はこの十七年間で一番優しく、一番暖かかった。
母の言葉を最後に部屋が静かになると、僕は今の異例な事態に驚き、母が告げた言葉の意味を探した。
「ピンポーン」
すると、しばらくしてそれを遮るようにインターホンが鳴った。
母はその音を聞くと、インターホンのモニターを確認しに部屋を出て行った。僕はなりたかった一人ぼっちの部屋の中で、今まで母に不満を抱いていた自分を心から愚かに思った。
「何してんだろうな………」
母がいなくなった一人きり部屋は、がらんとしていて何もない空間がやけに目立った。
「夏奈慧、俊太くん達来たよ。出てあげな」
しばらくするとさっき閉められた扉がまた開き、僕の名前が呼ばれた。
「うん、わかった」
僕は扉の敷居のところにいる母に返事を返すと、ずるずると布団から這い出た。
「ねえ、母さん」
そして母が部屋を出ていく直前で僕はそれを呼び止めた。
「なに?」
「机の上の紙に書いてある字、何色に見える?」
「黒………じゃないの?」
「………そうだよね、ありがとう」
母は僕が呼び止めてまでして聞いてきた最後の質問に一瞬不思議そうな顔をすると、それを紛らわすための笑顔を見せて階段を降りていった。僕はそれを見送ると、寝間着から私服に着替え、母に続いて一階に降りた。インターホンが鳴ってから十数分後、僕は適当に髪を整えるとようやく玄関の扉を開けた。
「よっ、おサボりさん」
「おはよう。あ、今日はカラコン入れてないんだね」
玄関前で待たされていた二人は僕を見るなり、それぞれ思うがままに声を投げかけ、まだ許可する前なのに早々と家にあがってきた。
「今日はお前のために、とびきりの新作持ってきてやったぞ」
そしてリビングに入り、いつもの定位置に座ると久しぶりに俊太が僕に話しかけてきた。
「僕のため?」
「そうだよ。………なんていうか、俺達、最近うまくいってなかったから、そのお詫びにと思って………」
僕は普段、俊太の口からは出ないようなことを彼が言い始めたことで、思わず笑みがこぼれ、さっきまでのしかかっていた肩の荷がストンと落ちたように気持ちが軽くなった。
「ごめんな、なんかギクシャクした関係つくっちゃって」
僕は今日の俊太は何かおかしいと思い、どうしたんだと問い詰めたくなったが、それよりも彼の言葉が暖かくて、そんなことを聞く気にはならなかった。
「いや、謝るのは僕の方だよ。ごめん………ありがとうね、そんなに大事にしてくれて」
「おう」
僕達はお互いに気恥ずかしくて目を見て信頼を確かめ合ったり、和解の握手をしたりはしなかったが、それでも崩れていた友情を修復するのは簡単だった。
「なんか湿っぽくなっちゃったね」
僕と俊太のやりとりを横で聞いていた奈央は事が丸く収まって安心したらしく、切実そうな笑顔浮かべていた。
「いいよ。たまには」
「そうだね」
その後、僕達は居心地の良くなった空間で日が暮れるまで一緒に過ごし、固まったばかりの地面をさらに硬く凝固させる思いでゲームをした。
母の心に触れ、二人の友人と強い絆を築いたこの日、僕はくだらない動機だが、今まで生きていて良かったと初めて心から思えた。
俊太と奈央が帰った後も昼間見た机の上のパレットみたいだった紙は、母の言う通り黒いままだった。しかしその単色も夜見た時には、前のようにまではいかないが、それでも十分鮮やかに思えた。
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