第4話

「ああ、夢か………」

 何の予兆もなしに自然と瞼が上がって現実に戻ってくると、僕は独り言を呟いた。

時計は午前十時半過ぎ。いつもなら学校で二限の授業を受けている頃だろう。

謹慎二日目を迎えた僕の生活リズムは、昨日の夜から明らかに落ちぶれていて、登校再開した後の生活を不安にさせるものになっていた。

しかし、リズムを戻そうにもうまく頭が働かず、僕は目を覚ました後もベッドに寝転んだまま、だらだらとしばらく枕もとのスマホを覗いていた。

「お腹空いたな、何か食べるか………」

僕がぼさぼさの髪を手櫛でとかしながら食欲に任せて身体を動かし、下の階に降りて行った。そしてリビングに入るとすでに仕事へ行った母が作ってくれたのであろう朝食と、母の字で「ちゃんと食べてね」と書かれた書置きを食卓の上で見つけた。

そのメモ用紙を取ろうと手を伸ばすと、僕は視界に入り込んできた自分の左手を眺めた。すると頼んでもいないのに、脳が昨日触れた花楓の手の感触を勝手に思い出させてきた。

その瞬間、腹部で渦巻いていた食欲は忽然と姿を消した。

「………」

 僕はいつもの口癖どころかため息すら出ず、何も口にしないまま部屋へ戻った。

―――私があなたに生きる意味を授けます―――

ベッドの上で呼吸をする以外、本当に何もしないまま死人のように時間が過ぎるのを待っていると、ふといつか花楓が言った言葉が脳裏をよぎった。

その言葉と昨日見た花楓の涙。花楓が起こしたことを除けば直接的な関係のないもの同士だが、なぜかこの時の僕はその二つに同じ種類の感情を奮い立たされて、闘志のようなものに火を付けさせられた。

昨日から回転数が遅かった僕だが、そこから行動を始めるまでは別人に思えるほど早かった。

まず僕は花楓に二言だけのメールを送った。

『書く決心がついた。だからある程度、書き方を教えて』

そしてメールの送信を確認すると、ベッドから飛び起き、時間を無駄にしないために返信を待たずして外出する身支度を始めた。服を寝間着から適当なものに着替えて、洗面所で癖のついた前髪を真っ直ぐに伸ばす。色の違う両眼に同じ色のカラコンを入れれば完了。あとは持って行くものを何となく集め、それを大きめのリュックサックに入れると、僕は急ぎ足で家を出た。

 行先は昨日訪れたのと同じ街にある、全国経営している大手書店の本店だ。

 僕は電車を降りるとスマホで建物までの道のりを調べ、案内通りに足を運ばせた。


「すごいな………」

今までゲーム三昧だった僕は本などとは疎遠でまともな書店に入ったことすらなかった。だから無数の本が並べられた店内を見て、僕が最初に発したのはその驚きの言葉だった。

この書店は全国でも一、二を争う大きさで、四階建ての建物には数十万にもなる書籍が所狭しに並んでいた。

その中でも僕が用のある本は三階の小説が販売してある区画だ。そこには小説を書く上で資料となりうる作品が星の数ほど置かれている。既に作者が故人となっている一昔前の有名な作品から、書籍化されたばかりの駆け出し作家が書いた作品まで、中には相当な読書家じゃないと解読できない難解な作品だってあるだろう。

僕は昨日減った分を継ぎ足した財布の中を確認すると、目に付いたり、名前を知っていたりした本を持てる数だけ片っ端から手に取った。その数ちょうど二十冊。

しかも僕はそれをレジで会計をすると、すぐにリュックサックへ入れて再び小説の棚を物色し始めた。

結局帰りには三十冊ほどの本を背負って帰宅することになった。リュックサックが厚くなった分、財布は昨日のように見違えるほど痩せ細り、とても頼りなく思えた。さらに帰り道の途中で百均に寄り、ブックスタンドを買ったことで最後のお札がくずれ、財布の中にあるのは価値の低い金属だけになった。

家に帰ると僕は真っ先に自分の部屋へ行き、机の前に座るとリュックサックから本を取り出した。

するとこのタイミングでスマホに通知が入り、ようやく花楓からの返信がきた。

『書き方は基本自分で見出すものだけど、しょうがないから一つだけヒントね。キーワードを見つけること』

「なるほど、キーワードか」

花楓からのヒントは漠然としたものだったが、何もないよりはよっぽどマシに思えた。

僕は柄でもないのに苦戦しそうな難関に笑みを浮かべると、了解と声で返事をした。そして机の引き出しから使っていないノートとシャーペンを用意すると、今できあがったばかりの本の山を崩し、そこから適当に一冊引き抜いて表紙をめくった。

手始めに、僕は読んだ本に出てきた綺麗な表現や熟語をできる限りノートに書き起こしてみた。見開き一ページを読んで、ノートに描き起こそうと思うものは多くても二つほどで、読書を開始してから一時間ほどの時点で書いた文字は、罫線数本分にしかなっていなかった。

しかし、それから数時間が過ぎて、読んでいた一冊目の未読ページが既読ページより少なくなった頃には、ノートの初めの一ページが綺麗に文字で埋められていた。

そしてふとノートを眺めると、僕は物語から選出した言葉にある共通点を見つけた。それは、ノートに書かれた文字が、どれも共感覚によって多様に変色していることだ。

それから最初の一冊を読み終えた僕は、次に行ったのはその色の着いた文字を、新しいノートのページにまとめることにした。

しかし、まとめると言っても、僕はただ罫線に沿って文字を並べ直すといったことはせず、思考を変えて色付きの文字を紙全体に散りばめるように書くことにした。一見それは何のためにやっているのかわからない、つまらなさそうな作業だったが、やってみるとそれが案外楽しかった。

そして試行錯誤をした末、僕はノートから三枚のページを切り出して、青の類の色をした文字は一枚目、赤の類は二枚目、黄色は三枚目といった具合に文字を仕分けし、それに従って文字をまとめた。そして完成したその三ページは、普通の人には紙の上に黒い字が散乱しているようにしか見えないが、僕にはさながら美術のパレットのように見える、という不思議な芸術品になった。僕はその奇妙な優越感に自尊心をくすぐられ、心が満たされていく感覚はなんとも気分がよく、病みつきになりそうだった。


「はいこれ、この前の模試の結果。先生が褒めてたよ」

その翌日、時計が四時過ぎを指し示すと、いつも通り俊太と奈央が僕の家に訪れ、静かった僕一日の空間は途端に騒がしくなった。

この日はこの前後日受験をした模試の得点表が返されたらしく、奈央が気を利かせて僕の分を持ち帰ってきてくれた。

「うん、ありがとう」

僕は模試の点数なんてどうでもよかったが、それだとわざわざ持って帰ってきた奈央に悪いと思い、得点票を受け取ると、とりあえずお礼だけは口にした。

そしてそれとなく得点表をみると、そこに書かれていた各教科の点数はどれも七割ほどだった。

「すごいね、どの教科も偏差値六十以上。僕達じゃ足元にも及ばないね」

 すると下校中に僕の点数を盗み見たのであろう奈央が、俊太に向けてそう言った。

「そういうお前だって総合は俺より百点以上も上じゃん。あーあ、いいなあ。二人とも」

「俊太だってやればできるようになるよ」

「はいはい、随分簡単に言ってくれるな」

二人はいつものようにゲームのリモコンを動かしながら、器用に言い合いを始めた。僕は得点票を閉じると二人とは別に食卓の椅子に座り、本を開きながらそれを後ろで聞いた。

「あー、負けた。奈央があれこれ言ってくるから気が散った。夏奈慧、交代」

 それから数分すると、ゲームに負けた奈央が僕を気遣ってか、僕にゲームに参加するように言ってきた。

「………あ、ごめん。今日はパス」

だが僕はその誘いを一拍遅れて断った。それを聞いた奈央は、帰ってきた返事が思いがけないものだったのか、驚いたように目を見開き、続けて顔をしかめた。

「………お前、今日どうした?」

 すると今度は俊太が話しかけてきた。

「僕も気になってた。なんでずっと本読んでるの?」

「ちょっとね」

「なんだよ、教えろよ」

「うーん、また今度」

二人は僕の突然の変化に強く興味を示し、理由を言うよう何度も迫ってきた。だが、説明している時間でどれだけこの本を読み進められるかということを考えると、話している時間が勿体なく思え、僕は二人に理由を言わず、話をごまかして黙々と読書を続けた。

しかし、この二人は十七という歳にしては人間ができているので、だからといってそれ以上僕に迫ってきたり、白い目で見るようなことはせず、それどころか何かを察して、それ以降僕の集中力をそがないように気を配ってくれていた。

そして普段より早い時間に二人が帰ると、僕は彼らの行為をありがたく思いながら自室に戻った。


残りの謹慎中、僕は一日に二冊の本を読破することをノルマに決め、昼夜問わず読書に明け暮れた。

夜になって時計が日付変更線を超えると母は必ず寝なさい、と言って何度も催促してきた。それでも僕は曖昧な返事を返すだけで母の言うことは聞かず、本を手放そうとはしなかった。

そして積まれた山の三分の一ほどを読んだところで謹慎期間の一週間が終わった。

謹慎明けの初日、僕が自分の教室へ入ると、そこに漂っていた空気は先日までとは少し違うもののように感じられた。どことなく離れているというか、冷たいというか。とにかく今まで吸っていた空気ではなかった。

「お、藤浪は今日からだったか」

「あ、はい。お騒がせしました」

「いやー、全くだよ。成績優秀のお前が素行不良に走っ………」

その日、僕はお互い顔を知っている教師とすれ違うと、必ずと言っていいほど声をかけられた。あの人達はそれを普通のこととして捉えているのかもしれないが、僕にはいちいち話しかけることで、孤立しかけている僕の気を紛らわしているようにしか思えなかった。

「あの日は職員室でも結構お前の話題が挙がってな」

「はあ、そうなんですか」

だから僕は何度教師に話しかけられても、こうして相槌だけをうってそれをうまくあしらった。

移動教室で隣のクラスの前を通り過ぎる時には、たまたま雄介と鉢合わせになって彼と目が合った。彼は悔しさと気まずさが混ざったような表情をすると瞬時に顔を逸らし、急いで僕の視界から消えていった。

クラスからの孤立感と教師とのしたくもない話、雄介の変化した態度。その三つを一挙に相手にしていた僕は一日ですっかり気疲れを起こし、帰りの電車の時にはうつ病患者のように困憊した顔になっていた。

「大丈夫かー。夏奈慧、目が死んでるぞ」

僕が塩をかけられた青菜みたいな様子で電車の吊革にぶら下がっていると、横にいた俊太がそれとなく心配してきた。

「大丈夫じゃ………なさそうだね、すごい疲れた顔してる」

僕の異変に俊太が気づくと、反対側にいた奈央もこちらを向いてきた。

「何かあった?」

「………いや、なんでもない」

僕は二人の優しさに甘えてしまおうか一瞬迷ったが、結局は何も打ち明けないことを選んだ。

「あっそ………なんかあったら、ちゃんと言えよ」

「うん………」

この日以降、日にちが一週間以上過ぎても周囲とのぎくしゃくした空気は解消されず、日を重ねるごとにいっそう心はすり減っていった。

花楓の方は話によると日によって来たり来なかったりしているらしく、違うクラスの人間はよっぽど彼女のことを意識していないと会えないらしかった。

そんな日が続く中、僕は自分のベッドの上で今日一日読んでいた本の最後のページを読み終えて、しばらく目を閉じて余韻に浸っていた。そして唐突に深く息を吸い込むとよしっ、と勢いよく意気込み、意を決して執筆を開始することにした。

「まずは………キーワードか」

本を読み漁っていたこの数日間、僕は読書をしながらどのように自分の作品を書くか、終始考えていた。

小説の書き方なんて、書店に置かれている出版社や有名作家のハウツーの本を買えばそれてすべて解決する。僕はそのことをわかっていたが、あえてそういったものには頼らず、あくまで自分の頭だけを頼りにした。そして花楓から貰った一つのヒントを元に、どうしたら彼女ほどの物語が書けるかを自分なりに解析し、オリジナルのハウツーを作り出した。

第一工程、キーワードを見つける。第二工程、登場人物を作る。第三、物語の骨組みを組む。第四、骨組みに肉付けをする。

できあがったハウツーは驚くほどありきたりで、オリジナル感は皆無に等しかった。だが、自分で作り上げたというところに僕は強い満足感を感じ、それが自信をつける元となってくれた。

僕は明日には花楓に良い知らせができるなどと心を躍らせながら、作業を始めた。

引き出しからいつも書き込んでいるのとは違う、新しいノートを一冊取り出すと、最初のページにキーワードになりそうな単語をいくつか書き込んでみた。筆を走らせるという行為だけを見れば、やっていることは普段と変わりないが、一単語を書いてから次の単語を描き始めるまでに要する時間はいつものそれより何倍も長かった。

しかも頭の中で想像を膨らますのは、読書のように自分でピッチを早めたりできないので、開いたノートは何時間経っても空欄の方が多いままだった。

そして夜が明け始めた頃、ようやく僕は未だ白の多いノートを前に思考を完全に止めた。

結局、机に座ってから一晩過ぎた午前六時、途中で休憩を挟んだにしても七時間は作業を続けたが、その進捗としては第一工程すら終わらず、花楓へは良い悪いどころか伝える知らせすらないままだった。

ただ、これを誰かに言ったらキモいとか言われそうだが、僕はノートと向き合っていた時間、ずっと花楓と繋がっているような気でいられた。彼女が好きだからとか、そういうことでは断じてないし、何がそう思わせているかはわからないが、それでも僕はこの一夜、懐かしさすらある繋がりのようなものを確かに感じていた。

「才能ないのかな………」

 それでも何も工程が進んでいないという結果には変わらないので、正直僕の気分は落ちるところまで落ちていた。

集中が切れると無意識の中にあった感覚が途端に活動を再開し、脳が全身に溜まった疲労に気づくと、身体のいたる箇所が悲鳴を上げ始めた。

「夏奈慧、そろそろ起きなさい」

僕がその悲鳴を鎮めようと机に突っ伏していると、数十分後に下の階から母の声がしてきた。僕はそれに適当な返事をすると、やっとの思いで重い瞼を上げ、身体に力を入れて曲がった背骨を起こした。


「行ってきます………」

全身がだるく、気分も優れない状態だった。作業中のときめきも今となっては何処かへ消えていってしまい、僕は止まりがちな手をどうにか動かして身支度をし、いつもより遅れて家を出た。

「おはよう」

「遅いぞ」

すると玄関先には俊太と奈央がいた。二人は珍しく自転車に乗っていて、僕の姿を確認するとほぼ同時に地面についていた足をペダルに乗せて、ゆっくりとこぎ始めた。

「時間ぎりぎりだから今日はチャリな」

「ごめん、わかった」

僕はうまく整わなかった髪をいじりながら、去り際の俊太に聞こえる声で一言謝ると、急いで玄関脇にある中学時代の自転車に乗ってペダルを漕いだ。

自転車は高校に入ってからろくに整備しておらず、ブレーキやギアは使うたびに鳴ってはいけない金属音が聞こえた。しかし、急いだおかげで駅には普段と大差ない時間に到着でき、僕達は毎朝乗っている時間の一本後の電車に乗れた。

少し慌ただしい朝になったが、それ以外のことはすべていつも通りだった。

「そういえば明後日で期末テスト一週間前だよ」

「え、まじか。まあ、いいや。俺は一週間前になったら勉強始めよ」

「またそんなこと言って。前回もそれで失敗してるじゃん」

電車の混み具合も、窓の外を流れる街も、二人の陽気な会話も、僕の周囲を取り巻くものはすべて普段と変わらず、そこにあった。学校の最寄り駅に着くといつも通りの順番で改札を出て、いつも通りの道順で学校に向かう。

僕はその当然に今日もどこかほっとし、人間関係もそれらと同じように不変のものならいいのにと勝手な願望を頭に浮かべた。

しかし、僕達が学校に着いて教室に入ると、そこにあったのはいつもより良くない雰囲気でざわついているクラスの光景だった。

僕が教室の敷居を踏むと、部屋の中にいた全員がちらほらと僕の方を向き、何を考えているのかわからない視線を、嫌というほど送ってきた。僕はその異様な空気に圧されて後退りをすると、教室の奥へ行ってしまった二人と目を合わせて助けを求めた。

「夏奈慧くん………!」

すると突然、背後で僕の名前が呼ばれた。そして僕が驚いて声のした方を振り返ると、そこにはひどく青ざめた血相の上田さんがいた。

彼女は僕を振り向かせた後、上がりきっていた息を数秒かけて整えた。

僕はその間の沈黙や漂ってくる教室の空気に雲のような不安を感じ、今まで抱いていたはずの安堵を探すように目の前にいる上田さんを見つめ、彼女の言葉を待った。

「花楓ちゃんが………!」

そして呼吸の合間に聞こえた上田さんの声は、その一言で事の重大さを物語っていた。


それからしばらくすると、僕は校外にあるどこかの道を走っていた。できるだけ足を速く動かし、疲れたなどと言って途中で止めることはしなかった。

そして目の前にコンクリート造りの大きな建物が見えると、急ぐ気持ちはさらに強まり、僕は最後の力を振り絞ってその建物に入った。

「すいません………面会をしに………来たんですが………」

「えー、面会ですね、わかりました。ではまずあなたのお名前とお会いに来た患者様のお名前を教えてください」

「僕は藤浪夏奈慧で………患者の名前は………宇佐美花楓です………」

「藤浪夏奈慧さま、宇佐美花楓さま………ご家族の方ですか?」

「いえ、えっと………友人です」

「………わかりました。それではご本人に確認致しますので、あちらの席で少々お待ちください」

受付の女性にそう誘導された僕は、そこでようやく気が落ち着き、上がった息を整えながらそれに素直に従い、受付の前に設けられている座席に腰掛けた。

僕が学校を飛び出して駆け込んだこの場所、そこは学校から二駅ほど離れたところにある大学病院だった。

―――花楓ちゃんが………花楓ちゃんが倒れた………―――

あの時、上田さんは息が整うと僕にそう言った。そして続けて彼女が倒れた大体の時間、搬送先の病院の場所を伝えてくれ、僕は学校を抜けて出して言われた通りの場所に来た。それが大体の事の経緯だ。

なぜ上田さんが事態を把握していて、それをどうして僕に伝えたのはわからないが、僕はそれを探求するよりも花楓のためにも彼女の元へ行くことを優先した。それほど僕は彼女のことが心配だった。

「藤浪さま」

「はい」

ところが、数分後にさっきの看護師から返ってきた返答は、僕の耳を疑いたくなるものだった。

「申し訳ありませんが、ご本人が面会はしたくないと………」

「え………?」

僕は花楓のためになんとかここまで来たのに、まさか最後の最後で彼女自身にそれを阻まれるとは思っていなかったので、思わず狐につままれたような顔をした。

「………ですので面会の方はできないということで、ご理解ください」

そして驚きのあまり頭が真っ白になり、応対してくれた看護師の話は一切耳に入ってこなかった。

それから看護師が一礼すると僕はわけのわからないまま、半強制的にその場から立ち退かされた。

受付の前から移動して足をどこかへ向けて運ぶ最中、僕はここからどうすればいいんだろう、という不安思考を働かせていた。だが、それは漠然的なもので実際に現状打開の案が浮かぶことはなく、ましてや足を運ぶ先なんて見つけようがなかった。

「お久しぶり、夏奈慧くん」

すると行き場を失い、迷子になっていた僕に一人の女性が話しかけてきた。

その人は白髪の多い頭を礼儀正しくこちらへ下げ、親しみやすい表情で近くに寄ってきた。

「えっと………お久しぶりです………?」

「うふふ。そうよね、あれはずいぶん昔のことだから、忘れちゃってるわよね」

その人はなぜか嬉しそうに笑うと、持っていた手荷物から一枚の写真を取り出して、僕に差し出した。

「これ、あの子の入学式の時に撮った写真」

そう言って渡された写真を見ると、そこにはうちの高校の制服に着られている花楓と目の前にいるこの人が一緒に写っていた。

「花楓の祖母です。夏奈慧くんのことは色々聞いてます」

そして僕が写真から顔を上げると、その人は自分を名乗ってから、もう一度軽く頭を下げた。


「ごめんなさいね。わざわざ来てくれたのに追い返しちゃって」

「いえ、何の予告もなしに来た僕が悪いんで」

「そんなことないわ。あの子も内心は喜んでたのよ」

学校を飛び出してから二時間余りが過ぎた頃、どういうわけか僕は花楓と彼女のお祖母さんの家で何気ない話をしながら、飲みなれないコーヒーをごちそうされていた。

家に上がってからもう十数分ほど過ぎているのに、僕は何も今の状況を理解できておらず、何を話したらいいかもわからないまま、ただカップの底に残った酸味の強いコーヒーを眺めているばかりだった。

「そういえば、夏奈慧くんは花楓ちゃんのお願いに、なんて答えたのかしら?」

するとしばらく沈黙が続いた後で、お祖母さんがまた口を開いて、今度は訳の分からないことを僕に聞いてきた。

「えっと、お願いってなんでしたっけ?」

「なにって、あの子に小説を書けって言われたでしょ」

 お祖母さんは僕が不明な点を聞き返すと、当然のようにそう答えた。

「え………?」

僕はお祖母さんから小説のことが出てくるとは思ってもいなかったので、その単語が聞こえると、コーヒーが大きく波打つくらい驚いた。しかし、それでもお祖母さんは平然とした顔をし続け、驚いている僕などお構いなしに話しを続けた。

「それじゃあ、質問変えるわね。花楓ちゃんはあのお願いを言った時、どんなことを思っていたと思う?」

「花楓が………ですか?」

「ええ、直感でいいから言ってみて」

僕は話の流れがつかめないながらに、何かしらの意図があるのであろうお祖母さんの問いに対する答えを、黙ったまましばらく考えた。

「ああ、そうだわ」

すると、正面の椅子に座っていたお祖母さんがその答えを待たずして、おもむろに立ち上がり、僕にここで待つように言って一度廊下へ消えた。それから少しすると、お祖母さんは額に入れられた一枚の写真を持ってきた。

「この写真、わかるかな?」

そしてそう言いながらその写真を僕に渡し、僕が流れるように目線を移すと、そこには思いがけないものが写っていた。

「えっ………なんで………?」

写真を見た僕は、驚きのあまりとぎれとぎれにしか声を出せず、その途切れた数回数の分だけ疑問に思う感情も強くなった。そしてその感情が一定量を超えると、僕はお祖母さんの真意にようやく気づいた。

お祖母さんが見せたその写真には、僕の思い出したくない記憶を喚起させる人がいた。

「娘さんだったんですね………」

「そう、あの子は私の娘よ………。いらっしゃい」

僕の様子を見たお祖母さんは額から写真を取り出して、それを僕に持たせると、再び椅子から立ち上がり、手招きをして僕を呼んだ。お祖母さんについていくと僕は二階に誘導され、いくつかある部屋の中の一つの扉の前に立たされた。

その部屋の扉が開かれると、鼻の奥に遠い昔に嗅いだことのある懐かしい匂いが漂ってきた。

「この部屋は以前、娘が使っていた部屋。今は花楓ちゃんのものになってるけど、あの子も母親の思い出だからって、模様替えなんかは一度もしてない。あの子が使っていた時と何も変わってない」

お祖母さんの話を聞きながら部屋を見て回ると、僕は白い壁に沿って設置された本棚に一冊の本を見つけた。

「お祖母さん、この本は?」

僕がそう聞くとお祖母さんはああ、その本ね、と懐かしそうにそれを受け取り、少し色あせている表紙を撫でた。

「いつからか娘がこういう本ばっかりを読むようになったのよね。なんでも、ある教え子がこの先の人生で困らないように、色々と教えてあげるんだって」

「そんなことを言ってたんですか」

「言ってたわ。しかも、すごく楽しそうにね」

お祖母さんの言う通り本棚をよく観察してみると、本棚にはその本と同じ種類のものが何冊も差し込んであった。しかもその類いの本は棚の上だけではなく、本棚の傍にある机の上にも積まれていた。

「こんなに………」

僕が思わず驚きの声をこぼすと、それに反応して胸の辺りがぎゅっと苦しくなった。

僕はそれを押し殺すように奥歯を食いしばると、お祖母さんにならって、本棚の中のものをもう一冊の手に持ち、表紙に書かれている共感覚の文字に触れた。

「あの子にも物語を書く趣味があってね。だからそんな母親を見て育った花楓ちゃんも小説を書くようになったの」

するとお祖母さんは表紙を撫でた本のページをパラパラとめくりながら、思い出に浸るように言った。

「さっきの話の続き。私からするとね、あなたに声をかけた時、花楓ちゃんは楽しんでいたんだと思うの。今までろくにできなかった友達と、自分の好きな話をする。きっと、ううん、絶対あの子はドキドキ、ワクワク胸を踊らせてたわ」

「そう………なんでしょうか」

「ええ、絶対そうよ。祖母の私が言うんだから間違いないわ」

 僕がどうしても明るい調子で話せないでいると、それを見たお祖母さんは対極的な口調で言った。そして持っていた本を置き、傍にあった別の本と持ち変えて同じようにページを踊らせると、さらに話しを続けた。

「でも、考えてることなんて、その時々の感情とかに左右されるものだから、何かの拍子に変わっちゃうのよね。あの子の場合、小説は母親との繋がりでもありながら、自分の死期を近づけてるものでもあるから尚更。自分の意思無関係に良い面と悪い面が交互に入れ替わっちゃうんだと思う」

「自分の死期を近づける?」

 お祖母さんが長い語りをわずかに止めた時、僕は話の中に引っかかる点を見つけ、思わず聞き返した。

「あら、そういえば、まだ言ってなかったわね」

 すると、お祖母さんは思い出したように目を開き、花楓のことを僕に話してくれた。

お祖母さんの話によると、花楓は生まれつき身体が病弱で、頻繁に入退院を繰り返していたらしく、学校に来ていなかったのもそのせいだった。だが、彼女はそんな状態でありながら、入院中も過度なストレスがかかるほどに自分を追い込んで小説を書いていたらしい。

そして本人が口を割らないので、そのわけは誰にも分らないが、ノートに向かっている時の花楓はとても一生懸命で、その頑張る姿を見るとどうしてもやめろと言えないとお祖母さんは言った。

カーテンの隙間から僅かに日の射す、無音の部屋の中に聞こえるお祖母さんの言葉はぐっと僕の心を締め付け、青い感情で埋め尽くした。

「それでもね、あの子があなたに何か言ったことがあったら、その言葉は花楓ちゃんの思いとか気持ちが、ちゃんといっぱい詰まった言葉のはず。だから夏奈慧くんにもあの子を信じてあげてほしいの。あの子の傍で、あの子と一緒に」

 僕は苦しい呼吸の合間に無意識的に頷くと、数秒遅れて、わかりましたと返事をした。


「私は下に戻るけど夏奈慧くんはしばらくここを見てていいからね」

お祖母さんは最後にそう僕に告げると部屋の扉を閉めて、階段を降りていった。

部屋に一人取り残された僕は、何をしたらいいのか今ひとつわからないながらに、ベッドの上に置かれている花楓の服などにだけは目を向けないように気をつけながら、何かないかと探す物を探した。

すると机の傍の壁に一枚の紙が飾られているのを見つけた。なんてことない普通の印刷用紙に黒いインクで書かれた数十の文字、そしてその中に紛れ込んでいる黒以外の色をした文字。僕はその無数の文字が書かれた紙のことをよく覚えていた。

「こんなものまでとってあるのか………」

そんな言葉と一緒に込み上げてきた複雑な嬉しさは瞬時に液体と化し、僕の目を僅かに潤わせた。瞼に刻まれた過去の記憶が目に浮かぶその感覚はとても心地よく、暖かいものだった。

だが、それは同時に痛みも感じさせ、僕の心は真逆の両者に板挟みにされた。

これ以上ここにいたら余計なことまで思い出してしまう。

しばらくすると、瞳に残った涙の滴が冷たくなり、高ぶった感情との間に生まれた温度差が僕にそう思わせた。

僕は手に持っていた本を卓上に戻すと、そそくさと部屋を横切り、お祖母さんが閉めた扉から廊下へ出た。

部屋の外からそっと押すと、扉のラッチはパタンと勢いに見合った音を立てて閉まり、僕の涙腺や懐かしい匂いにそっと蓋をした。

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