第3話
「えっ、俊太また新作持ってきたの?」
「だからさっきそうだって言ったじゃん」
「なんか最近ピッチ早くない? 前は一ヵ月に一作でも上々だったのに、今じゃ毎週一本のペースだよ」
「いいだろ、そのおかげで今までより確実に楽しみが増えてるんだから」
四限目の授業を終え昼食を食べた僕達の会話は、たわいないもので構成されていて、その中にはちゃんと僕の居場所があった。二人からしたらそんなのは当然なことで、居場所がどうこうなど意識してないだろうが、僕は毎日そのいつか終わりが来るであろう当然が、今日もまだ当然のまま顕在しているかどうか不安で仕方なかった。
ただ今日はその終わりの日ではない、そのことがわかったことで僕はふっと肩の力を抜いた。
「あのー、……さん」
すると廊下を歩いていると通り過ぎようとした隣のクラスから、聞き覚えのある声がうるさい校内の中でも際立って鼓膜に届いた。
僕は始め、何事もなかったかのように素通りしようとしたが、その考えは直後に変わった。なぜならその後に聞こえた声が最初にしてきたものよりずっと聞き覚えのあるもので、ずっと望んでいた人の声だったからだ。
「なんですか?」
僕が二つの声がしてくる方を向くとそこには思った通り、あの二人がいた。花楓と雄介だ。
二人、特に雄介の方はなぜか警戒態勢をとっている様子で、お互いの間には一つの机を挟んだ状態で、ただならぬ空気を醸し出していた。
周囲の生徒はまだこれから何が起きるのかわかっていないだろうが、僕はこの時点ですでに事態の深刻さにうっすらと気付いていた。
「花楓さん、昨日の夕方どこいましたか?」
そして雄介が花楓に向けて放ったその言葉は、途端に僕の予感を明らかなものにした。
「昨日の夕方ですか……?」
「そうです。時間でいうと四時頃ですかね」
昨日の夕方、四時頃。その言葉から僕は雄介の狙いがわかった。そして今回彼が目を付けたその弱みの種類と仕掛ける手段はガキっぽいものだが、周囲に及ぼす影響が計り知れないことを僕は知っていた。
「その頃なら家にいましたよ」
ただ、今僕が二人の間に割って入ったらそれこそ雄介の思うつぼなので、現状僕にできることは二人の会話の行く末を予測し、見守ることしかできなかった。
「本当ですか。では僕が近所の公園で見かけたのは一体全体、誰でしょう」
雄介は仕掛けた言葉の罠に花楓がはまると、自分のスマホの画面に予め準備していた何かを彼女の前に叩きつけた。
「そんなの知りません」
彼が花楓に何を見せたのかは僕の位置からでは確認できないが、それが何であろうと花楓がそう簡単に弱気を見せないことは最初からなんとなくわかっていた。そして彼の悪知恵と何年も付き合ってきた僕には、雄介が定めた目先の標的が初めから花楓ではないということもまた、予想がついた。
そこから雄介が、真の標的に牙を向け変えたのは一瞬のことだった。
「じゃあ聞きます。これを見てあなたはどう思いますか」
僕は雄介がそう誰かの名前を言おうとした瞬間、なんとか彼の口を封じようと現場に駆け出した。
「上田さん!」
しかし、雄介のあがった口調に僕の怠けきった足が適うわけはなく、僕は踏み出してから数歩目にしてそれを諦め、急がせた足取りを途端に止めた。
「え……?」
雄介が名前を呼ぶと、偶然か否かその場に居合わせてしまった上田さんは、突然自分に話を振られたことで困惑してした様子を見せた。いや、よくよく考えれば驚いていたのではなくて、怖がっていたようにも見えた。雄介が取り上げていた夏奈慧という人物の話題が自分に振られることを。
「雄介……!」
僕は上田さんのその表情を見ると、どうしても我慢がいかなくなり、今が最も飛び込んではいけないであろうタイミングだと知っていながら、一度落とした歩調を再び速め、威圧的な声で彼を睨みつけた。
「お、夏奈慧。いいところに来たね。お前昨日の……」
そして彼が何かを言いかけたところで僕は今度こそ雄介の達者で外道な口を二度と開けさせまいと、今までの恨みも一緒に込めた渾身の飛び蹴りを彼にあびせた。
『なあ、空手の回転技ってかっこいいよな』
そんな訳の分からないことを俊太が言い出したのは三年前の夏休みのことだった。
僕と俊太、奈央は当時中学二年生で、絶賛中二病中だった。
ただこの時、僕らは既に親友と呼べる仲だったし、三人が同時期にそれを発症したので幸い誰か一人が浮いてしまうようなことにはならなかった。
病状としては漫画の登場人物の真似をするなんて王道で重度なものから、三人でバンドを組んでアーティストデビューしようなんて馬鹿げたものまで、挙げだしたらきりがない。
その中の一つに、夏休みの暇を使って空手を習得するというものがあった。言い出したのは当然俊太で、彼が実践役、奈央が技などを調べる調査役、そして僕がその二人をつなぐ取り持ち役のようなものをやらされた。
あまり乗り気ではなかった僕は、どうせ数日もすれば俊太の熱が覚めて諦めがつくだろうと仕方なく付き合った。だが、珍しいこともあるもので、俊太も奈央も相乗効果のせいかなかなか粘り強く、十日以上経っても諦める様子は見せなかった。だから仕方なく僕の方が妥協し、本腰を入れて空手だけでなく、奈央が詮索できる全ての格闘術を網羅することになった。
ただ、結局俊太は僕が折れた数日後に突然呆気なくやる気をなくし、僕の努力は報われないまま化石化した。そして今更になってその化石が役にたった。
僕の錆びれた刃をくらった雄介は、怪我といえるほどのものは負っていないようだが、それなのにひどく恐れ慄いている感じだった。
「雄介、もうそういうのやめたら?」
僕は激しい動きで乱れた髪の毛を適当に直すと、数メートル先に倒れている彼に向かって冷たく哀れむように言葉を投げかけた。そして近くで過呼吸を起こしたみたいになっている上田さんと、驚いた目で僕を見ている花楓の手首を両手でそれぞれ掴み、いつかの誰かのように二人をその場から連れ出した。
歩いている途中、ふと今の自分と遠い昔の記憶に残るあの先生の姿が重なり、場違いな懐かしさを感じた。足にはまだ制裁の感触が生々しく残っており、僕はその余韻を感じながら気を休めることができる場所を探した。
「ちょっと意外だったな」
花楓がそう口にしたのは、僕達が最上階に行きついて屋上へ逃げ込んでから、一時の沈黙を挟んだ後だった。
「どういう意味?」
「だって、いつも静かな夏奈慧くんがあんな大胆で、アクロバティックなことするなんて。らしくないっていうか、普段からじゃ想像できないから」
「それはそうだ。十年間かけて積もった鬱憤を全部ぶつけたからね」
「ああ、そういえば幼馴染なんだっけ?」
「うん、小学校からずっと」
「言っちゃ悪いけど、ついてないよね」
「まったくだよ」
花楓との会話が始まった途端、現場からここまで保たれてきた緊張の糸はプツリと切れ、僕は思わずその場に座り込んだ。見上げた空には灰色の雨雲がいくつか、集団から逃げてきたように漂っていて、あまり晴れ晴れとはしていなかった。しかし、そんな空とは裏腹に、僕はこの時とてもせいせいした気分だった。
「上田さんは、ああいう夏奈慧くんをどう思う?」
「えっと、私にはすごいかっこよく思えたかな。それにあの時、あの場に割って入ってきた夏奈慧くんを見たらなんかすごい安心しました」
「でもここまで私達を連れて来ちゃうのは、青春小説とかに影響受けすぎでダサい気がする」
「ううん、そんなことないですよ。少なくとも私はこういうの好きです」
「そうだよねー。おかげで憧れの夏奈慧くんと手も繋げたし?」
「ちょっと、花楓さん」
上田さんと花楓がそんな話をしている間、僕は二人を保護者のような目で見守っていた。そして何気なくフェンスの奥に広がる景色を見ると、そこにはいつもと変わらない屋上からの風景があった。
「ねえ、花楓」
それからしばらく景色を眺めていると、僕はふとここにいられる時間が限られていることに気づき、わざと素っ気なく思われるような態度で話を切り出した。
「昨日の話の返事なんだけどさ」
「お、ちゃんと持ってきてくれたんだ」
「え、あ、うん……」
花楓の声はなぜかいつもより弾んでいて、彼女の望み通りではない答えをこの場で言うのはとても気が引けた。口を開く前は一思いに言ってやろうと決意するのだか、その決意は一言目を放つ直前に砕け、出かけた言葉が喉に詰まった。
「えっと……その、ごめん……」
僕が花楓に話しかけた途端に居心地の良かった空間は息苦しさが目立ち始め、僕はやっとの思いで短く謝ったが、それ以降言葉を繋げることができなかった。
その後、僕達しかいなかった屋上に一人の教員が現れ、あえなく僕は身柄を確保された。そして職員室の隣にある会議室に連れ込まれ、自分が勝手に連れ出した二人も、申し訳ないことに五限目の授業を休んで同行させられた。
部屋に入るとそこには鬼瓦のよう顔をした生徒指導の教師がいつもに増した鬼の形相で待っていて、これから怒涛の説教が始まることを僕に悟らせた。
だが、鬼が口を開こうとすると、それより先に花楓と上田さんが弁護の先手を打って鬼の邪魔をした。そのあらぬ行動には、長いキャリアを持っているであろう鬼も調子が狂ってしまったらしく、いつまでたっても大きな怒鳴り声をあげれず、本領発揮できないようだった。
僕が九死に一生を得てからしばらくすると、仕事に行っているはずの母がどこからともなく現れた。そして校長と担任の岡田先生、雄介本人が揃うと僕の処遇を決める会議のようなものが始まった。
ただその会議も雄介に嫌な思いをさせられていた上田さんを僕が武力行使して救った、なんて内容の花楓の熱弁によって事なきを得た。会議の最後には僕と雄介が共に等しく悪いという結論にまとまり、僕に課せられたのは規則上免れることができない一週間の謹慎だけだった。
仕事を途中で抜けるはめになった母は会議の間、謝罪の言葉以外は一切口を開かなかった。そして帰り際になってようやくそれ以外を口にしたかと思うと、母は雄介を蹴り飛ばしたことをそれなりに叱ってきただけだった。
僕は会議の間、母は装飾品としての価値を落とした僕に呆れて、何も言う気が起きないんだろうと思っていた。だが、学校を出てからの母の顔は、誇らしげにしているようにも見え、僕には母が何を思っているのかわからなかった。
「にしても、さすがは俺の師範代だ。やっとあいつに一泡吹かせてやることができたな」
「絶対一泡どころじゃ済んでないよ。これで雄介もこりたんじゃないかな」
謹慎処分をくらったその日の夕方、なぜか僕の家にはいつもと変わらずゲームで遊んでいる俊太と奈央の姿があった。
「だな。あーあ、俺も夏奈慧の蹴り見たかったな。なんで先に教室入っちゃったんだろう」
二人はコントローラーを握り、テレビ画面を見ながら器用に会話をしていた。僕はその違和感のあるいつもの光景に混じれず、二人とは別に食卓の椅子に座ってスマホを眺めていた。
「見せ物じゃないんだから見なくていいんだよ。っていうか、なんで二人ともここにいるんだよ」
「いやな、俺達も最初は寄らないつもりだったんだけど、毎日こうしてきたからか、お前ん家に上がらないとなんか落ち着かなくてよ」
「なにそれ」
「まあ、いいじゃん。夏奈慧も一人より三人の方が楽しいでしょ?」
奈央の言うことに僕は何も反論が思い浮かばず、照れみたいなものを隠すように鼻を鳴らした。そんな僕を見て奈央は優しく笑い、僕はそっちの方が楽しいよ、と言うとまたテレビ画面に集中し始めた。
「……わかったよ」
奈央が照れくさいことを言った数秒後、僕は彼の言葉に後押しされ、仕方なく二人の間に座った。
それから数時間も経つと、二人は既に各自の家に帰宅して僕の家のリビングには普段よりだいぶ遅く帰ってきた母がいた。
母は昼間のこともあるからいつも以上に疲れきっているはずなのに、なぜか平日には珍しく帰ってくるなり料理を始た。そして食事をしながら、やけに僕の普段の生活について聞いてきた。それは学校で今何を勉強してるのかだとか、どんな友達とどんな話をするのかなどと色々だった。
きっと母なりに考えて、そうするべきだと思ったのだろう。僕は好きではなかった母の声ができるだけ途絶えないように普段しないようなことまでちゃんと話した。
夜が更けてくると母は最後に今までごめんね、と僕に言って話を終わりにした。
変なこそばゆさが残る中、僕は自分の部屋で今日一日のことを全て思い返し、胸が締め付けられるような思いをしながらベッドに入った。
いつも夕日を見ている窓には下弦の月が映っていて、青白い月光でぼんやりと部屋の中を照らしていた。
翌日の朝、謹慎初日の僕は母が仕事に出かける少し前に目を覚ました。
「おはよう」
「あ、うん。おはよう」
寝間着のままリビングへ行くと、ちょうど母がコーヒーを入れているところで、部屋いっぱいに嗅覚を刺激する香ばしい匂いが充満していた。
しばらくすると母は仕事に行く時間になり、行ってきますと言って家を出ていった。僕は母を見送った後、コーヒーポットの中に数センチほど残されたコーヒーに目がいき、それを自分のコップに少し注いだ。
まだ中二病が抜けきってないんだな、などと自分を笑いながらコップに口をつけて啜ってみると、何が美味しいのか今ひとつわからないが、かといってめちゃくちゃ不味いとも思わない味がした。
なんで人類はこんなものを飲むんだろうと哲学的なことを考えながら、僕は結局ポットに残っていたコーヒーをもう一度注いだ。
世間の人間達が学校やら仕事やらで家を留守にする時間に、自分は自宅で一人優雅にコーヒーを啜っている。その非日常的な状況に僕は少しの興奮を覚え、子供のように心を躍らせ始めた。
まずは部屋の静けさが気になり、いつも聴いているアーティストの曲をリビングにあるスピーカーで家中に響かせてみた。そしてその曲にのって歌詞を口ずさむと、異常なほどの満足感が得られ、何にも邪魔されない今の空間は簡単に僕を上機嫌にさせた。
しかし、曲の終わりとともに訪れる空白の時間は重ねるごとに僕を現実へ引き戻し、熱唱していた曲も次第にスピーカーから流れてくるだけの騒音と化した。
「何やってんだろう……」
夢から覚めたような感覚になった僕は、突如訪れた孤独感を紛らわすために自分の部屋のベッドに戻ると、ため息をこぼした。
すると僕の蒼い気持ちに反応したのか、手の中に握られていたスマホが何かを受信した。
首と手先だけを動かしてスマホの画面を見るとなぜか花楓からのメールがきていた。
『窓から外見てみて』
彼女からのメールには確かにそう書かれていた。
『なんで?』
『いいから』
一回の会話で花楓が何をしても引き下がらないことを察した僕は、ベッドに根をはりかけた身体をいやいや起こし、昨晩月が浮いていた窓から外を覗いた。
すると家の敷地のすぐ横にある道に、花楓本人が立っていた。
『やっほー』
そして後から腑抜けたメールが付け足しで送られてきて、驚いていた僕を呆れさせた。
「あいつは何をやってるんだか……」
僕はそんな愚痴を言いつつも、心のどこかで喜びと安堵を抱いていた。それは彼女が現れたことに対してではなく、現れたのが俊太や奈央や上田さんではなく花楓だったことに対してだ。その感情がどうして生まれたかは自分にもわからないが、それでも僕は自分の抱いたその感情を疑問視せず、純粋に受け入れた。
しかし、僅かに足取りが軽くなったのを感じながら階段を駆け下り、玄関の扉の前に立つとふと昨日の心苦しい会話が脳裏に浮かび、歓喜する感情を即座に鎮めた。
僕はそんな忙しない葛藤を隠すために平常心を顔に覆いかぶせ、自然な流れで玄関の扉を開けた。
「おはよ」
薄暗い玄関が左の空に浮かぶ朝日で照らされると、同時に扉の前で出待ちしていた花楓がその光を遮っておどけた笑顔を作った。
「花楓、学校はどうしたの」
「さぼっちゃった」
「それ、笑い事じゃないと思うけど」
「自分でそうするって決めたからいいの。夏奈慧くんにどうこう言われる筋合いありません」
花楓はどこまでいってもおちゃらけた態度で、僕はそれを見て呆れるしかなかった。
「はあ、わかったよ。それにしてもなんでこんな朝からうちに来るんだよ」
「えっとね、ちょっと二人で話しがしたいなって思って」
僕はため息と文句をこぼしながらも流れるように花楓をリビングに通した。そして彼女を食卓の椅子に座らせると、いつも俊太や奈央にするのと同じように飲み物をコップに注いだ。
花楓は僕が想定よりすんなりと家に上がらせてくれたことに驚いているのか、席に座るとそわそわと部屋の中を見回し、どうにも落ち着かない様子だった。
「話って、昨日の僕の返事のこと?」
そんな彼女をよそに僕は当然のように食卓にコップを二つ置き、口を開いた。
「あ、うん。そうだよ」
直前まで落ち着きのなかった花楓は話を始めると瞬時に泳いでいた視線を安定させ、まっすぐ僕の方へ向いた。
「僕が断ったのが不満なんだね」
「不満じゃないよ。普通の人なら誰でも断るような頼み事だもん」
花楓は優しく笑うと、一呼吸おいてさらに台詞を続けた。
「だからね、今日は夏奈慧くんを説得しにきたの」
「説得?」
「そう。私は何がなんでも絶対に夏奈慧くんに小説を書いてほしいの。その気持ちは夏奈慧君が何を言っても変わらない。だから夏奈慧くんが私のわがままを聞いて」
「いや、でもさ……」
「お願い」
花楓のしつこい言葉は回数を増すごとに僕の意思を氷のようにいとも簡単に溶かし、僕の心を再びゆすぶり始めた。
「ねえ、夏奈慧くん。今から出かけない?」
気持ちが揺れ動き始めたせいで僕がしばらく黙り込んでいると、今度は花楓の方から話がふられた。
「今度はなんだよ。謹慎中なんだから外になんて出れないよ」
「えー、いいじゃん。行こうよ」
「出かけるって、どこへ何しに行くの?」
「うーん、内緒」
「なにそれ。僕は絶対行かないから」
「一番線、列車が到着します。黄色い線の内側でお待ちください」
十数分後、僕は花楓に言われるがままに家の外へ駆り出され、毎朝利用する最寄り駅のホームに立っていた。
「何で外に出てきちゃったんだろう……」
僕はそう呟いて駅のホームで断りきれなかった自分を責め立てると、隣にいる誘導のプロを横目で睨んだ。
掲示板の横に吊るされている緑色の時計は普段見るはずのない時刻を指していて、僕をさらに呆れさせた。
「あーあ、何やってんだろう」
時計から目線を外すと、また隣で楽しそうな表面をしている花楓の姿が視界の端でちらつき、僕は思わずいつもの口癖をいつもとは少し違う意味でぼやいた。
間もなくして駅に入ってきた電車の車内には、通勤ラッシュ時のどんよりとした空気が漂っていて、その中に数えるほどの乗客が座席の両端で快適そうに座っていた。
花楓は先に開いた扉から車内に入り、空いている席に座ると僕に隣に座るよう手招きをした。僕は不本意ではあるが、仕方なく彼女の隣に腰を下ろして綺麗に笑う彼女の顔色を見た。
それから花楓は二十分ほど同じ電車に揺られ続け、家の最寄りから十個ほど離れた駅でようやくその電車をおりた。
「やっと着いた!」
花楓が降りたのはここら辺の地域で最も発展した、高層ビルの立ち並ぶ都市の中の駅だった。ここには何年も前に俊太と奈央と数回来たことがあるが、その時とはだいぶ景色が違うように思え、僕は家に上がった時の花楓のように辺りを見回した。
「夏奈慧くん、行くよ」
「あ、うん」
僕が口を半分開けたまま周りの建物達を見上げていると、先に歩き始めていた花楓が当然のように名前を呼んだ。
彼女の態度を見て、僕はとうとう何が正しいのかわからなくなり、謹慎中だということも忘れて花楓の後を飼い犬か何かのようにただついて行った。
花楓が歩く道はどこも一定数の通行人がいて、僕は時々、前から来る人と肩を掠めながら歩いた。一方の花楓は僕より身体が細く、背も低いので、人と人の間をするすると掻い潜って易々と進んでいった。
僕と彼女の間にある距離の差は時間と共に着々と開いていき、その差が十メートルほどに膨れ上がった時、ついに花楓の後ろ姿が完全に人混みに飲み込まれた。
僕はやばいと思い、急いで飼い主が消えたその場所まで行き、背伸びをしながら消えた彼女を探した。だが、この人混みの中から花楓を見つけることはもはや不可能で、どれだけ血眼になっても尻尾すら掴むことができなかった。しかし、僕が彼女に連絡を取ろうと落ち着ける場所を探して脇道を見ると、その傍にある洋服店の前に焦る僕を楽しそうに見ている花楓の姿があった。
「面白かった?」
「うん、非常に」
やっとの思いで道から捌けてきた僕が、彼女の行動に遠回しな文句を言うと、彼女はさらに同じような態度を重ね、僕をおちょくった。
僕もそれに対抗するように心の内の苛立ちをできる限り言葉に乗せてああそうかい、と彼女に発した。すると彼女はそれを気にもとめず、なぜかさっさと目の前のお店に入っていった。
「ストォディ……違うな。ストレイディ……」
淡いピンク色をした店の壁には筆記体の英語で店名らしき単語が書かれて、僕はその文字を数十秒かけて読み解こうと口で綴りを追った。
そしてその単語の中に一文字だけ色の着いたものがあるのに気づいた。僕は店の壁の色と似た、桃色のような色に染まった『d』を見つけると、ふと昔のことを思い出して、とっさにそこから目を背けた。
「今は感傷に浸ってる時じゃないか」
そして次第に店の名前の読み方など、どうでも良くなると、僕はその場から逃げるように花楓の後を追った。
店内に入ると建物の中から鼻を刺激する服屋独得の匂いが漂ってきた。
花楓を探すために辺りを見回すと、彼女は店内の奥の方で棚に置かれた服を物色していた。
「今日の目的は買い物?」
そう言いながら僕が近づくと服選びに夢中になっていた花楓は、既に何着かが入ったカゴを持ち上げて僕に渡してきた。
「違うよ」
「じゃあ、なんで服屋?」
「いいの、細かいことは。ほら次行くよ」
僕が核心にせまるようなことを言うと、花楓は適当な返事でそれをあしらい、他の棚へ逃げていった。
「よくないと思うけどな……」
僕は最後にそう呟くといつの間にか押しつけられたカゴを片手に、彼女の後ろをついていった。
それからもう何着か服を選んでレジに並ぶと、花楓はなぜか僕の方を見てきた。そして僕がまさかと思って所持金を聞くと、財布を忘れたという答えが返ってきたので、もう呆れるなどの次元ではなく、もはや面白くさえ思えてきた。
幸い僕の財布は今までの行いのおかげで潤っているので、結局その場は何があっても必ず全額返すという契約のもと、僕がお金を出して難を逃れた。
その後も花楓はいくつかのお店をはしごし、その度に契約を交わして僕が会計を済ませた。おかげで跨いだはしごの段が増えるごとに僕の手荷物の数は増え、それと反比例するように僕のふところは寒くなっていった。
花楓が立ち寄りたい最後の一店へ移動している途中、僕はふと横切った店に目がいった。
「これって……」
その瞬間、僕は今の状況にひどくデジャブに似た感覚をおぼえ、思わず言葉をこぼした。するとそれに素早く反応した花楓が、身体ごと僕の方を振り返った。
「どうしたの?」
花楓は何かを匂わせるようなもの言いで僕に聞き、僕はその思惑通りに彼女の企みを必然的に察した。
「仕組んだね?」
「ふふふっ、何のことかな?」
しかし花楓はあくまで何も知らない態度は変えないつもりのようで、僕が問い合わせてもシラを切り続けていた。
「なるほど……説得ね」
僕は自分を罠にはめて上機嫌になっている花楓の横で首筋のむず痒さを掻きながら呟いた。
僕が見つけた店、それは一軒の名画座だった。
そして僕が花楓に仕組んだねと言った理由。それは買い物途中に見つけた映画館で映画を見るというシチュエーションが、彼女の書いた小説の中にもでてきたからだった。
小説の中では、後に恋愛関係に結ばれる主人公とヒロインが、一人暮らしをしているヒロインの夕食の買い出しに付き合い、その帰りに映画館に立ち寄るという流れだった。
その場面はシリアスな話の中にある温かい時間という、箸休めのような位置づけがされていて、僕も読んでいる時はその意図通り心が休まった。
「してやられたな……」
僕は小説の内容を思い出しながら、彼女の思惑通りに見つけさせられた名画座の方を向いた。
「どうする?」
すると花楓が予め買っておいたのであろうチケットを二枚広げて、こちらへ見せびらかしてきた。
「……はあ、わかったよ」
僕は声に吐息を混じらせて、心のどこかにある嬉しさが面に出てこないように気をつけながら、彼女の手に握られたチケットを一枚受け取った。
若干地下へと続く階段を降り、名画座の中に入ると、そこには上映する映画の予定表や昔の映画のポスター、フライヤーなどが丁寧に飾られていた。
僕はその一枚一枚をそれとなく流し見て、さっさとシアタールームに入ろうとした。建物の奥の方へ行くと受付に定員が二人いて、来館者のチケットを切っているのが見えた。
僕はここの仕組みをなんとなく理解すると二人のところへ行き、チケットを渡した。
すると店員が紙の切り取り線を切る直前で、横に花楓がいないことに気づいた。はっとなって辺りを見ると、彼女は入口の近くに貼られている一枚のポスターの前で歩みを止めていた。
僕の慌てた動きから状況を把握した察しの良い店員さんは優しい顔でどうぞ、と言いうと、僕が花楓の傍に行くのを促してくれた。
「すいません、連れてきます」
僕はそう言いながら定員さんに軽く会釈をし、花楓を呼びに行った。
「どうかしたの?」
「ん……、なにが?」
「ずっとそのポスター見てたから」
「ああ、どうもしてないよ」
花楓は僕が話している間もずっと同じポスターを見続けていて、僕の目には明らかにどうかしているように見えた。
花楓の見ていたのは小説原作のアニメーション映画のポスターらしく、紙一面に綺麗なイラストが描かれ、他には題名と『春風芽吹希』という原作者の名前が書かれていた。
僕が立っている場所から見える彼女の横顔はどこか暗く、いつも見せている明るさの反対にある、黒い感情に浸食されているようだった。
「そっか……それならいいんだけど」
僕は多少心配だったが、花楓のためにもあえて詮索はせず、彼女のことをなるべく気にしていないような態度をした。
だが、僕が何を言っても、花楓は依然としてポスターから目を離そうとはしなかった。だから僕は仕方なく両手に持っていた荷物を片方に集め、空いた手の方で花楓の空いている掌を握った。
「行こう」
「え……?う、うん」
不意をつかれた花楓は相当驚いたのか、さっきの深刻そうな面影からは考えられないくらい易々とポスターのもとを離れ、僕の誘導に従ってくれた。
花楓が買っていたチケットの映画はよくある恋愛ものの邦画で、大した関係でもない同級生の女子と見るにはハードルが高い内容だった。しかもどういうわけか、花楓が繋いでいる僕の手を上映中になっても離してくれず、おかげで僕はそのハードルの高さが二倍も三倍もあるように感じるはめになった。
ただその事態は花楓のさらに非常な行動によって打ち消され、実際僕は映画の内容を気にする余裕すらなかった。
花楓は映画の上映中、僕に気づかれないよう静かに泣いていた。
隣にいる人が訳もなく、人知れず涙を流し始めたら僕じゃない誰だって、映画どころではいられないものだ。
結局、僕は暗闇が続く間、どうしたら良いかわからず、彼女の気に障らないようにじっとしていることしかできなかった。だからせめてもと、花楓と繋がっている手だけは優しく握ったままでいた。
それから数時間後、僕達は映画の感想を言い合いながら、映画鑑賞前に寄る予定だった最後の一軒の店で買い物をし、日が西に傾いてきた頃に帰りの電車に乗った。
僕は電車に乗ると、隣に座っている普段に戻った花楓の横顔を見た。そして彼女の眼もとにできているわずかな腫れを数秒見つめると、蒼い気持ちが胸の内に生まれて思わず目を逸らした。
「どうしたの?」
すると視線を察知した花楓が正面の窓を向いていた顔を僕の方に傾けてきた。
「いや、なんでもない」
「えー、なにー?」
「なんでもないってば」
横顔を見ていたことを気づかれたことで、僕が反射的に目を花楓が向けていた窓の外へ移すと、花楓は名画座のポスターの前で見せた表情と同じ種類の笑顔を作り、目線を戻した。
窓の外をゆっくり上下する電線と、その奥を右から左へと流れていくマンションや店の看板は、どれも無機質で、本当に人が生活しているのかを疑いたくなるほど動きがなかった。そしてその様子は、まるで花楓の涙の理由を必死に考えている今の僕を馬鹿にしているように見え、どうにも腑に落ちなかった。
しかし、電車が高地に敷かれた線路にさしかかると、高層ビルに隠れていた大きな雲が背景に現われ、景色に色味のある白を与えた。おかげで色味のなかった世界は精気を取り戻し、馴染みあって綺麗な一色になった。
僕は思考を凝らすのも忘れて、その一連の流れをただ茫然と興味の湧かない絵画を見るみたいに眺めていた。
*** ***
視界がぼやけている。そう思って目元を擦ると、焦点の合った手の甲には浅い悲愴の海ができていた。僕はその雫を見て、初めて自分が泣いていることを知った。
さっきまで自分は冷静を保てていると思っていたが、割と僕には人間味が溢れているらしく、泣いていることに気づくと後からそれに見合う感情が追い付いてきて、一度流れた涙は止まらなくなった。
数秒すると目の前にあった他人の後ろ姿が一歩先へ動き、僕は隣にいた大人に手を引かれて同じように前へ進んだ。
何のためにこの人の列に並んでいるか、僕はその理由がわからなかった。しかしなぜか、何が何でもこの列に並ばなければならない、それだけは自覚していた。
悲しい。でもなぜ悲しいのかも思い出せない。
誰かに助けを求めようと声を出したが、その声は涙の流れを促す嗚咽にしかならなかった。
まともに息を吸うことすらできず、今まで味わったことのない苦しさに襲われた。僕は空いている方の手の袖で涙を押さえ、苦しさの波が治まるまで凌いているしかなかった。
涙をぬぐって、苦しさを堪え、手を引かれて前に進む。何度もそれを繰り返した。
そして、ようやく僕は列の先頭にたどり着き、ようやく僕は自分の行動の真意を思い出した。
*** ***
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