第2話
「行ってきます」
模試を早退した二日後、僕はようやく学校に行ける体調に戻った。
昨日はまだ熱が引いておらず、体もだるいままだったので、渋々母に頼みこんで岡田先生の言いつけ通り学校を欠席した。その間、僕のスマホは定期的にメールの通知を鳴らすようになり、画面を確認するとそれらは全てあの二人からのくだらないメッセージだった。
家を出て集合場所に着いた僕は、二人を待つ間、耳につけたイヤホンでいつもの曲を流し、目にかかる前髪の隙間からスマホに表示された二日分の無駄なやり取りを見返した。
「お、待たせたな」
「やっほ、久しぶり」
数分して集合場所に現れた二人はそれぞれ手を振りながら僕に声をかけ、傍に寄ってきた。その様子は、なぜか面白いもののように見え、僕は思わず返事を返す前に彼らを鼻で笑ってしまった。
「何笑ってんだよ」
すると場の流れにそぐわない動きをしたことに俊太がつっかかってきた。
「お前さ、普通久しぶりに友達と会えたんだから、そこは二日分の寂しさを言葉にするところだろ」
「それはそうなんだけどさ」
僕は笑い混じりにそう言うと二人、特に俊太の方にさっき見ていたスマホの画面を見せた。
「二人が休んでる間にしつこくメールで送ってくるせいで、ぜんぜん久しぶりな感じがしないんだよね。逆に三、四日分会ってた気分だよ」
「はあ? いいだろ、メールくらい」
「いいけど、確かに数が多いとありがたみ薄れるね」
「おい、俺と一緒になってメール送ってたお前がそれを言うなよ」
「僕は俊太ほど送りまくってないもん」
「奈央のは二日で五通、それに対してお前は一日で奈央の四倍。これは受信拒否ものかもね」
僕がそうやって冗談を言うとメールの大半を送った張本人である俊太はふんっと鼻を鳴らして拗ね、それを見た奈央は僕と同じように笑みを浮かべた。
僕はここ最近、二人との間に視覚化できない壁があるのを感じていた。物理的にどれだけ近くにいても疎外感が付きまとい、これでもかと僕を追い込んでくる。そして心の中の孤独はいつしかその壁の内側に巣を作って、一層二人との距離をわかりやすく僕に教えてくれた。
だが、その巣も今まさに駆除され、壁も透過できるようになった。そんな気がした。
いつもと変わらない待ち合わせ場所、今日のその場には小学校から続いてきた居心地の良い空間が飽和状態で充満していた。
「迷惑だけど、まあ、たまには会わない日があるのもいいかな」
僕は駅の方向に向かい始めた二人の背中を見てそう呟いた。イヤホンから流れてくる音楽はいつもより人一倍輝いて聞こえ、透明になった僕の心を優しくくすぐった。
数十分後、心地よい空間を保ったまま学校に着いた僕は自分の教室の手前にある隣のクラスの教室を廊下から覗き、そこで見たものに驚いた。
「ああ、夏奈慧は知らないよね。宇佐美さんのこと」
すると僕の驚いた顔に気づいた奈央が口を開いた。
「あの子が噂されてた宇佐美花楓さん。なんか入学してから今までは事情があって不登校だったけど、昨日から学校に来れるようになったんだって」
「そう……なんだ」
「まあ、俺らにはほとんど関係ない話だな。クラスも違うし」
俊太がそう言い、奈央の後に続いて僕達の教室に入ると、僕はそれを確認してからもう一度花楓のいる教室を見た。
花楓はまだ登校を再開してから日が浅いはずなのにすでにクラスに居場所を作り上げていた。
「……凄いな」
僕は意外のあまりぼそっと独り言をこぼし、それを誰かに聞かれていないかと慌てて周囲を見回すと自然体でその場から逃げて二人の後を追った。
教室に入るとそこには見慣れてはいるが、とても普通とは呼べない点がもう一つ存在していた。
「おい、佐藤!これで何回目だ!」
それは担任の岡田先生が小学校から対立した立場にある雄介を怒鳴りつけている光景だった。
「あーあ、あいつまた派手に怒鳴られてんな」
「今度は何やらかした。セクハラとか?」
「はははっ、それは傑作だね」
「岡田先生にセクハラはきついな」
僕が調子に任せて吐いた冗談に二人は悪乗りし、大声で怒鳴っている先生に気づかれないようにその光景を嘲笑った。
「たしか昨日、授業中にまたスマホでゲームしてたのがバレたらしくて」
「あいつも馬鹿だよね。どうせばれて怒られるんだから、やらなきゃいいのに」
「無理だって、猿並みの知能しかないやつに自制なんて高度なことできないよ」
「確かに」
いまだ雄介が触れた担任の逆鱗が鳴り続く中、僕達の悪乗りも同じく留まるところを知らず、僕はこみあげてくるせせら笑いを堪えようと必死に口を結んだ。だが、そうしている僕に俊太と奈央が何度も冗談の追い討ちをかけるので、その結び目はすぐに緩んでしまった。
「おい、夏奈慧。お前、この前告られたんだってな。良かったじゃん、お前みたいな奴を好きになってくれる変わり者がいて」
それから時間は過ぎ、そんな罵倒が僕の耳に入ってきたのは一日の授業と終礼が終わり、放課後が訪れた時だった。
僕は顔を見ずともその声の主が判別できた。
「なんだよ、雄介。岡田先生っていう相手がいながら、やきもちでも焼いてるのか?」
雄介が僕に言い寄ってくると、それを察知した俊太が奈央を引き連れて、まだ始まってもいない話に乱入してきた。
「あ?それどういう意味だよ」
「意味?そのままだって」
「そのまま?」
「そう、そのまま。もういいな、俺達帰るから。じゃあ岡田先生と末永くお幸せに、雄介くん」
俊太は煽るような口調で、雄介が言葉の意味を考える暇さえ与えない間に話を終わらせ、僕と奈央を教室の外に連れ出した。
「さすが俊太だね」
「あれは我ながら華麗な返しだった」
「岡田先生という相手がいながら、ね」
「雄介のポカンってした顔、笑えた」
僕達がそうして雄介を笑いものにしていると後ろから誰かが追いかけてくる足音がした。
「夏奈慧くん、今日休んだ分の模試受けるわよ」
その足音は僕の名前を呼んだ。
その声に反応して僕が後ろを振り返ると、それは誰であろう、岡田先生だった。
「え、あ、今からですか?」
「そうよ。あと十五分くらいしたら、うちのクラスの教室で始めるからちゃんと来なさいね」
「わ、わかりました」
僕が心臓が止まるほど驚いていることを隠しながら答えると、先生は表情を変えないまま体の向きを返し、今度は僕達から離れていく足音をさせた。
「恐ろしいな。噂してたら本当に来たよ、雄介の嫁」
「ちょっと、笑わせないでって」
隣にいた俊太は先生が視界から消えるとそう呟くように言い、顰め面とお得意の毒舌で先生をネタにし、凍りついた場の空気を溶かした。
「じゃあ、そういうことだから先に帰ってて」
「オーケー、さすがに今日はそうするわ」
「また明日ね」
「うん、また明日」
僕は笑いが収まると、切りの良いところで最後に俊太と奈央のそれぞれと言葉を交わし、昇降口に向かう二人に手を振りながら背を向けた。
放課後になってしばらく時間の経った教室前の廊下には誰も残っておらず、閑散とした空気が広がっていた。
二人と別れ、数十メートル後方にある教室に戻ると、僕は暇をつぶすために壁に貼られた掲示物を何となく見て回った。いつ配られたか記憶にない昔の学年だよりや、何度見たかわからないラミネートされた校歌の掲示。夏のオーキャンに向けた大学案内のチラシや、掲示する意味が今ひとつ理解できない今月の目標が書かれた紙。
掲示物なんて毎日の学校生活で必ず目にしているうえ、普段はどうでもいいと思うはずなのに、こうして持て余す時間があるとなかなか巡回する足を止められず、僕は結局十分ほどかけて教室を一周した。
掲示物を見つくして、ついに何もやることがなくなった僕は、これだけ時間をつぶしても誰一人教室に現れない状況にようやく不安を覚え、先生の言っていたことの正否を見定めようと扉から顔を出した。するとそれと同時に廊下から人が入ってきて、僕と正面からぶつかりそうになった。
「うわっ!」
僕は目の前に迫ってきた相手の声を合図に身体に急停止をかけ、衝突寸前のところで勢いを止めた。
「あ……」
「お!」
難を逃れた僕と相手は同時にお互いの顔を見合い、同時に短い声を溢した。
この時、目の前にいたのは今朝楽しげな様子でお喋りをしていた花楓だった。
「夏奈慧くんだ。久しぶり、体調良くなったんだね」
彼女は鉢合わせた相手が僕だと気づくと、なぜか嬉しそうに笑顔を見せた。そして入り口の前で驚く僕の横をするりと通り抜けて教室に入っていった。
「なんでここに?」
僕が勢いで乱れた髪を気にしながらそう聞くと、花楓は恐らく偶然、窓際にある僕の机に腰を乗せ、手をつきながら体を後ろに反らした。
「この前の模試、休んだから」
「それじゃあ、今から受けるってこと?」
「そうだよ」
「あの日、学校には来てたのに模試は受けなかったんだ」
「うん。夏奈慧くんが帰った後、私もすぐに帰ったから」
「へえ」
どこかわざとらしい雰囲気を醸し出している花楓に、あえて素っ気ない返事をすると、僕は彼女を机から降りるように誘導した。
「二人とも揃ってるね。そしたら適当に席に着いて、始めますよ」
僕が花楓を机から引き剥がして他へやると、同時に教室の扉から岡田先生が現れ、僕達の会話を終了させた。
「はい、じゃあ最初は国語。試験時間は八十分間。始め」
模試の未受験者は僕と花楓だけだったらしく、僕は自分の席に、花楓は前寄りの席に座り、問題用紙が配られるとすぐに先生が試験の火蓋を切った。
合図を聞いた僕は気だるく思いながらも問題用紙を開き、そこに書かれている文章を眺め始めた。そんな何の変哲もない模試の時間に異変が起きたのは、終了時間の三十分ほど前のことだった。
「ふーん」
僕が真剣に紙の上の活字と奮闘していると、不意に耳の後ろの方から声がしてきた。見るとそこには席から立ち歩いて、大胆に僕の答案用紙を覗いている花楓がいた。
「何してんの?」
「夏奈慧くんの解答を見てるの」
僕が不正行為を働いている彼女に冷ややかな態度で聞くと、花楓はまるでそれが当然であるかのように答え、その行為をやめる素振りは見せなかった。
僕は試験中にカンニングをしている生徒がいるのに、先生はなぜ注意をしないのか疑問に思い、教室の中を見回した。するとさっきまでいたはずの先生がいつの間にか姿を消していて、部屋の中にいるのは僕と花楓の二人だけになっていた。
花楓は僕がどれだけ白い目を向けても、答案用紙から目を離さず、ずっと僕の解答を見ていた。
「見てるだけでいいの?」
僕はしばらくするとついに痺れを切らし、彼女の方を見返してそう聞いた。
すると花楓は急に僕の顔を覗き込んできて、答案の次は前髪でうっすら隠れている僕の目をじっと見つめてきた。
「ちょっと」
僕は彼女の顔が目の前に迫ってきたことで思わず声を出し、反射的に身体を仰け反らせた。
「何するんだよ」
心の中の呆れは彼女の馬鹿げた行動によってついに怒りへ変わり果て、僕は躊躇うことなくその怒りを口にした。
「カラコンだ」
「え……?」
だが、その怒りは花楓が直後に放った一言で打ち消された。と言うより、まるで水が蒸発するかのようにひとりでに消滅した。
「……なんでわかった?」
僕は声を低くし、防衛体制に入って彼女の返事を待った。
「だって夏奈慧くんの目、左右で若干色が違うんだもん」
「やっぱりそれだけ近くで見るとわかっちゃうのか……」
僕が落胆した調子で目の前の机に視線を落とながらそうぼやくと、花楓はしてやったりと言いたげな表情で前屈みになっていた腰を伸ばした。
「学年トップの夏奈慧くんもそういうことするんだね」
「べつに自分がしたくてつけてるんじゃないよ」
僕は彼女の誤解をきっぱり否定するとがっかりしながら横を向いた身体を戻し、模試に集中し直そうと深く息を吐いた。
「それじゃあ、なんでつけてるの?」
するとそれを邪魔するようにまた花楓が話しかけてきた。
「なんでもいいでしょ」
「えー」
「えーって。不満を言う前に元の席に座ってた方がいいと思うよ」
「優しいんだね」
「違う。僕はただとばっちり食らってこっちまで怒られるのが嫌なだけ」
僕が彼女の年齢にそぐわない駄々と調子取りを否定すると、花楓はしぶしぶ席に戻った。そして、その後すぐに先生が戻ってきたが、僕が忠告したおかげで幸い先生に怒られることもなく、僕と花楓しかいなかった教室は静けさを取り戻した。
だが、僕は残りの試験時間、急接近してきた時の彼女の表情が頭から離れず、まったく落ち着きを取り戻せないでいた。
するとシャーペンを持っていた僕の手が無意識に机の上を滑り始めた。そして試験前に花楓が座っていた箇所をなぞり、残っているはずもない彼女の温もりに触れようとした。
その三十分ほど後、模試を受け終わって下校する時になっても、僕はまだおかしな事態に頭を悩まされていた。
「ラッキーだったね、今日は国語だけ受けたら帰っていいなんて」
なぜなら本来一人のはずの帰り道にどういうわけか花楓が後ろから着いてきたからだ。
「家こっちなの?」
「途中までね」
「ふーん、でも別に着いてくる必要はないよね」
「あるよ。だってまだカラコンつけてる理由聞けてないもん」
彼女はまるで、さっき僕がわけを話すことを拒んだのをさっぱり忘れてしまっているようだった。
僕は彼女の発言に思考を奪われ、動いていた歩みが一瞬止まった。だが、ため息をひとつ落とすと、逆にどこまで着いてくるのか確かめてやろうという考えが浮かび、彼女のことをこのまま野放しにしておくことにした。
ところが、彼女は僕が電車に乗っても、家の最寄り駅で下車しても一向に僕と別れる様子を見せず、それどころかいつしか僕の隣を歩いてすらいた。
「……あのさ、どこまで着いてくるつもり?」
駅から家までの道の途中、俊太と奈央との集合場所のところでついに耐えきれなくなった僕は、とうとう彼女を放っておけなくなり口火を切った。
「どこまでって聞かれると困るな」
「なんで?」
「だってどこまで行けば夏奈慧くんが理由を教えてくれるかなんて、私にはわからないもん」
すると花楓はさっきの間抜けな素振りに続いて僕が悪者みたいな口振る舞いをし、口を尖らせた。
「なんだよ、その顔は。僕が悪いの?」
「うん、悪い。レディーがここまで聞きたがってるんだよ」
「レディーの言うことは絶対ってこと?」
「そう」
「どんな独裁政治だよ」
僕は是が非でも言いまいと思い、彼女との間に距離を作ろうと努力した。
「えー、いいじゃん。教えてよ」
ただ花楓もなかなかあきらめの悪いレディーらしく、彼女が引き返すよりも先に僕は家に着いてしまった。
「わかった。僕の負けだよ」
玄関の前まで歩いて行き、一度扉に触ると僕はいまだに後をついてくる花楓にそう言った。そして家の前で立ち話をするのもなんだと思い、彼女を誰もいない家に入れることにした。
僕が扉を開けて手招きをすると、花楓はぱっと笑顔になり、跳ねるように近寄ってきた。
「夏奈慧、お帰り」
だが、僕が家の中に入って数秒経つと、リビングの方から予定にはない、母の声が聞こえてきた。僕はリビングを確認して母を見つけた途端、家に入りかけている花楓の背中を押し返し、扉の外へ逆戻りした。
「どうしたの?」
花楓は突然追い返されたことに驚き、豆鉄砲を食らったような顔をして言った。
「親が帰ってたから、家には入れそうにない」
「なんで?」
「なんでも。とりあえず場所を移そう」
家に入れないとわかると、僕はふと、花楓と二人きりの今の状況をどこかに潜んでるやもしれない下世話好きの二人に見られていないか不安になり、すぐにここから離れようとした。
「じゃあ、あそこは?」
僕が焦りを見せると、花楓がそう言ってどこかを指さした。その指の先にはこの住宅地の外れにある小規模な丘があり、ここからだと民家の屋根の上にそのてっぺんだけが見えていた。
僕は花楓の提案に対して、そうしよう、と一言だけ賛同を口にしてその場所を目指して歩き始めた。
家の前から見えた丘は周囲を広い公園に囲まれていて、その公園は桜の本数が非常に多いことで全国的にもに名の知れた公共施設だった。
ただ、この場所が賑わうのは春の桜が咲いている期間だけで、季節外れであるこの時期は近隣住民の安らげる隠れスポットとなっている。だからこの公園はほとんど誰にも見られず、密談をかわすには打って付けだった。
歩きながらそれとなくあたりを眺めると、昼間より薄暗くなった住宅地は静止画のように動きがなく、時折どこからか聞こえる子供の声がなければ本当に時間が止まっているようだった。
僕達はその空間をお互い一度も口を開かないまま進んでいき、住宅地を抜けた。すると、大通を挟んだ向こう側に公園の中へと続く葛と木の葉のトンネルがポツンと現れ、僕達を引き寄せた。
園内はところ狭しに植えられた樹木のせいで本来の半分ほどの光量しか足元には届かず、模試で精神力が削れている僕にはちょうど良い空間だった。ただ一つ良くなかったのは花楓が中心に聳える丘に登ると言い出したことだ。
僕達は自分の露出している肌に群がる片生いの蚊やその他の虫をはらいながら、のらりくらりとその丘を登った。
「うわ、こっちも刺されてる」
「ほんとだ。夏奈慧くん刺されすぎ」
先に森を抜けて丘の中腹にある切り開けた空間に着いた花楓は、少し高いところから僕を見下ろし、面白がりながら言った。
僕はうるさいと彼女の笑い声をかき消し、その声の隣にたどり着くとあまりの疲労感からその場に座り込んだ。
「……綺麗だね」
「うん」
この時スマホを確認しなかったので時計が何時をさしていたかはわからないが、丘の上からの景色には一日の終わりを告げる紅い夕日が浮かんでいた。
花楓は心を奪われたようにその夕焼け空をまっすぐ見つめ、しばらくそのまま動かなかった。
僕は虚空を見つめる彼女の整った横顔を、気づかれないようにそれとなく観察した。そして初めて会った時から気づいてはいた、宇佐美花楓という少女の美しさを改めて知った。
外国人並に完成されたイーラインはいつまでも見つめ続けたくなるほど綺麗で、透き通った肌は無意識に手を伸ばしたくなるほど美しく僕の目に映った。
「ねえ、夏奈慧くんってさ」
「なに?」
「……生きてて楽しい?」
すると花楓は夕日を見たまま、顔色ひとつ変えずに突然不謹慎なことを聞いてきた。その瞬間、街を照らしていた太陽が地平線にある積乱雲に消え、偶然にも周囲を暗くする演出が施された。
僕は光を失った花楓の顔から視線を逸らし、眼下に広がる景色にそれを移した。
彼女の問いに対しての答えは本当なら楽しいよ、とか、それなりにね、などといった普通の人間が言うようなものを返せばそれで済むことだった。それなのに、僕はなぜか口を開かないまま数秒間の沈黙を保った。
「……わからない」
そしてその表面的な答えが返せなかった僕が、しばらく考えて導き出した回答は、鬱念の後味を口に残しながら零れる曖昧なものだった。
僕が答えを花楓に返すと、暗闇に反応するように街のあちこちに眩い明かりが灯され、視界の中で輝き始めた。
―――生きてて楽しい?―――
花楓の声は脳裏で何度も輪唱され、時間とともに僕の心はその深い藍色のような声に共鳴して蒼く染まっていった。すると次第に学校からここまで無意味に張っている意地が恥じらいへと変わり、諦めて気を緩めると口からため息が溢れた。
「これが理由だよ」
僕は少し爪の伸びた指を目に近づけ、瞳の色を隠しているコンタクトを取ると、前髪の隙間からそっとその目を覗かせた。
「綺麗……」
木の葉の擦れる、梅雨らしくない乾いた雑音の混じる沈黙の中、花楓は流れるようにそう呟いた。
黒いコンタクトを外し、なんとなく鮮明になった景色の中で、目と鼻の先にある彼女の顔が僕の妙な色の目に映った。
「ヘテロクロミア。和名だと虹彩異色症だったはず」
「俗に言うオッドアイっていうのだよね」
「そう、これが理由だよ。小さい頃はこれのせいで、周囲の同級生からはよく気味悪がられてさ。それが嫌でいつからか隠すようになったんだ」
僕がカラコンの理由を話すと、それを待ちに待っていたはずの花楓はどういうわけか何も言わないまま動かなくなり、遠くから聞こえてくる街の音が浮き彫りになった。
「夏奈慧くん……」
そして花楓がようやくその沈黙を破るように立ち上がって閉ざしていた口から僕の名前を呼ぶと、目の前の崖の方へ数歩進んだ。すると、見えなくなっていた太陽が雲の隙間から差し込み、彼女のことを水平な光で照らした。
僕は斜面の方へ歩いていく花楓の影になった背中を目で追いかけ、彼女の言葉を待った。
「自分が生きてる意味って考えたことある?」
すると花楓は、またしても答えを出すことを渋りたくなるようなことを聞いてきた。
「突然何を言うかと思ったら。なんでそんな哲学じみたことを聞こうと思ったんだよ」
僕は彼女の問いを冗談かなにかだと勘違いしているように苦笑いを作った。
「いいから、答えて」
しかし、僕が笑っても花楓は表情に綻びを見せることはなく、終始真剣な様子のままだった。
「……考えてるよ。いつだって考えてる……。自分が何のために生きてるのか、何のために存在しているのか。だけど一度もその答えを見つけたことがないから……その類いのことを考えるのは、あんまり好きじゃない」
「そっか……」
僕が彼女の態度に見合う真剣な回答を用意すると、花楓は慰めか何かを求めていた僕の期待にはそぐわない、平然とした言葉を返した。ただこの時の、彼女の顔からは悲しみや苦しみなどといった負の感情も同時に感じられ、それを目にした後だとその返事の印象にも僅かな変化があった。
「………私もね、少し前までそうだったの」
その小さな声はどうしてかわずかに震えて、僕の耳にひときわ際立って聞こえてきた。
「それでさ……私から夏奈慧くんに一つお願いしたいことがあるんだけど」
すると彼女は何かを匂わさるような口調をやめ、テンポよくこちらを振り返り、場のしんみりとした空気を切り替えるように話を続けた。そして僕の方へ戻ってくると傍に置かれていたスクールバックの中から、一冊のあるノートを取り出し、それを僕に渡した。
「なにこれ」
そのノートは年季の入った、だが新品同様のきれいさを保った表紙で閉じられているなんの変哲もないノートだった。
「開けてみて」
花楓にそう言われてノートの表紙をめくると、そこには無数の文字がわずかな空欄を残しながら、十数の罫線の上に並べられていた。
「……これは……小説?」
「正解」
ノートの中を見て驚いた僕が、呼吸の隙間を縫うようにきくと、彼女は嬉しそうに答えた。
「自分で書いたの?」
「うん、自分で書いたの」
「……すごいね」
「ありがと」
彼女が書いたという文章は、眺めただけでもその上質さがわかるほど整っていて、それはさながらキャンパスの上に描かれた油絵のようだった。
僕はその色合いに思わず見入ってしまい、次に声を発するまでに時間がかかった。
「それで……これを見て僕はどうすればいいの?」
話の展開が進まないことに気づくと、ようやく僕は我に返って花楓に声をかけた。すると彼女は思惑通りに話が進んだからか、たくらみ顔を見せた。
それから僕は花楓と別れ、一人で家への帰り道を戻っていった。家に入ると帰りが遅いと心配を募らせていた母と二言、三言の会話を交わし、母が話を膨らまさないうちにそそくさと自分の部屋へ入った。
いつものようにイヤホンを耳につけ、制服のままベッドに寝転ぶ。こうすることで普段はどんな精神状態でも心を落ち着かせることができた。だが、この時はその普段とは違って心が落ち着くことはなく、どこまで行っても追いかけてくるのは一人ぼっちの空間の寂しさばかりだった。
ふと閉ざされた瞳を開き、体を起こすと、部屋の床に無造作に置かれたスクールバックとその傍に落ちている花楓のノートが目に入った。
*** ***
「その小説を最後まで読んで感想を教えて」
「……感想って、なんで僕が?」
「いいから。お願いね」
「理由を教えてくれたら、引き受ける」
「じゃあ、逆に感想を言ってくれたら教えてあげる」
「なにそれ」
「それじゃあ決まり。夏奈慧くんはその小説を読んで私に感想を言う、私はその感想を聞いたら理由を言う。よろしく」
*** ***
花楓はそうやって僕を強引に丸め込み、半強制的に自分の意見を押し通した。
ただ僕が彼女の頼みを断る理由は特になかったし、内心ではまるで新しいゲームのオープニングを見ている時のように胸が高鳴っていた。
ノートに書かれた物語は初めの一行目からすぐに本文に入っていて、作者名や題名など小説として必要不可欠な記述がいくつか欠けていた。しかし、そういう欠損が僕にとっては逆に良い方へ働き、独り歩きする先入観を抱かないまま物語を読み始められた。
その日から僕は彼女の無題の物語を持ち歩くようになり、自分でも頭がおかしいと思えるほど暇さえあればそのノートを開いていた。僕の突然の変化にはさすがの俊太と奈央も戸惑いを隠せなかったようで、何度か僕の至福の時間を妨げてきた。
そして僕達の仲はページがめくられるごとにじわじわと亀裂を広げていき、いつの日にか感じた暖かい友情はすっかり冷めきっていた。
しかしそれでも僕の奇行は治まらず、数日が過ぎた頃には何重もあったノートの未読ページも残り数枚になっていた。
そしてノートのめくるページがあと一枚になったのは物語意を読み始めてから五日後、日曜日の昼過ぎだった。
その日のうちに読破できる確信をもてると、僕はすぐさまイヤホンを伝ってポケットにしまわれたスマホを取り出し、花楓にメールを送った。
『今日でいい?』
『いいよ。どこで待ち合わせしようか』
僕がわざと曖昧さのある文を送ると、まるで僕の行動を予知していたかのようにすぐ花楓からの返信が返ってきた。
『四時にあの公園の丘はどう?』
『おっけー! じゃあ待ってるね』
この五日間、数回あった彼女との連絡はいつも決まってテンポがよく、最短の会話数で終わっていた。普段、俊太と奈央とくらいしか連絡を取らない僕は、花楓との会話が始まると必ず適度な緊張と心の落ち着きを手にできた。それはさながら病気の症状を抑える処方薬を飲んだ時のようで、どこにいてもその場所がとても居心地の良い空間に思えた。だからその時間は次第に僕の日常の中で最も大切な時間になった。
だが、薬に持続時間があるように、会話にも始まりがあれば必ず終わりもある。ゆえに僕はスマホでメールのやり取りをしている時以外は、前にも感じたことのある孤独感を常に感じていた。そしていつからか、僕の孤独の時間は、麻薬やゲームのように中毒性があるその薬を手に入れるための話題探しにあてられるようになった。
『うん』
ただ、幸か不幸か話し下手な僕には、会話を長時間持続させるだけのスキルが皆無だったので、しばらく返事に悩んだ挙句、結局最後は自らの手で会話を終了させるのだった。
「よし、ラストスパートだ」
僕は新しい薬を表示しなくなったスマホの画面から目を離すと、自分で気合を入れ直し、手元のノートに集中した。
「それでどうだった?」
花楓がこの前と同じ草の上で僕にそう話を切り出したのは、ちょうどスマホの画面に集合時間きっかりの表示がされた時だった。
花楓は待ち合わせの五分前に現地に着いた僕より、さらに数分前にこの場所にいた。彼女は白と黒でコーディネートされた服を着ていて、まさに今どきの女子高生という格好だった。だが、彼女の制服姿しか見たことのない僕の目には、それがありがちな服装でもとても新鮮に見えた。
「そうだね……。初めのページを一目見ただけで駄作じゃないことはわかったけど、全部読んでみたら駄作かどうかを判断するなんてレベルじゃなかった。なんていうか、本当に一流の作家が書いたみたいだった」
僕の評価は聞いている限りでは大絶賛でお膳立てのようにもきこえるが、別に言葉に嘘を混じらせたつもりは微塵もなく、彼女の物語は本当によくできていて、本当に書籍化された本のよう、いやそれ以上だった。だから僕はそんな優れる力を持っている彼女が羨ましく思えた。
「あはは、そんなに褒めてくれると思ってなかった。嬉しい。ありがとう」
幸い花楓は僕の奥の方に潜んでいる感情までは読み取れず、言葉にした感想だけを素直に受け取ってくれたので、妬む心を除けば比較的良い気分のまま話を進められた。
ところが、その直後に花楓が放った、まったく予知しなかった言葉はその安定を壊した。
「その感想の一目見ただけでっていうのはさ、共感覚の目で見てって意味?」
「えっ……?」
僕は思わず声を詰まらせた。それは花楓が意味不明なことを唐突に口にしたからではなく、彼女の言ったことの中に、思いもよらぬ単語が含まれていたからだ。
「今……共感覚って言った?」
「うん」
僕が慌てて聞き直すと、花楓は何がおかしいのかわかっていないような様子で首を傾げながら頷いた。
彼女が放った共感覚とは、僕に言わせれば一種の障害だ。
本来、人間の構造として、音の刺激には聴覚、光なら視覚、痛みには痛覚といったように刺激にはそれぞれ対になる感覚が一つずつ存在する。そして何かの刺激を受ければ、その感覚の中のどれかが刺激の強さによって度合いの違う反応を示し、脳がそこから刺激や物質の判断をする。
共感覚はそれら感覚が混信することで起こる。
共感覚を持っている人は普通の人と違って、一つ刺激に対して複数の感覚が、または正常とは異なる感覚が反応をみせる。痛みに対して味覚が反応したり、光に対して視覚と触覚が反応すると言った感じだ。
その反応のパターンは保持者によって違いがあり、黄色い色を見て花の匂いを感じる人がいれば、音を聞いて風景を見出す人もいる。だからこの摩訶不思議な能力は保持者の数だけ種類があり、その数を数えようと思ったら時間がどれだけあっても足りない。
そして僕もまたその症例を増やしている一人だった。
僕の場合の症状は視覚と共に反応するもので主にそれは文字を見た時に現れる。
*** ***
算数の授業中、ノートのことで雄介にいざこざを起こされ、先生の優しさによって教室から連れ出された僕は、職員室の椅子に先生と対面する形で座らされていた。
先生の顔はいつもと変わらず柔らかで、それを見れば叱るために自分をここへ連れ出したのではないことは小一の僕にも簡単にわかった。だが、そのかわりに浮かんできた、なぜ連れ出されたんだろうという疑問は手馴れた足し算、引き算とは違って難しく、答えは簡単には導き出せなかった。
僕は頭にもやもやを残したまま、視線の先にある先生の顔をじっと見つめ、次の言葉を待った。
「夏奈慧くん、さっきは雄介くんが遮っちゃって聞けなかったからもう一回聞くね」
そして先生は僕が場の空気に慣れて落ち着いたのを見ると、口火を切った。僕はコクンと頷いてそのまま先生から目を逸らした。
「夏奈慧くんはどうしていろんな色を使ってノートを書いたのかな」
「先生がその色で黒板に書いたから……」
僕がさっきから言っているこの屁理屈は嘘ではなく、紛れもない事実のつもりだった。しかし僕が小一のガキであることも相まって、取ってつけたようなこの理由が他人からすれば子供の屁理屈にしか聞こえないのもまた、事実だった。
僕は一度自分の主張を言った後も、どうにか先生にわかってもらおうと半分べそをかきながら理解を求めた。
先生は耳を傾けてくれるだけまだマシだが、当然赤の他人なのでやはり理解するには至らず、僕が咽びに妨げられて、ろくに話せなくなるまでその言い訳を聞き続けていた。
ただ、教師の端くれでもある先生は赤の他人とはもう少し違った。
先生はこの時、大抵の人と同じように僕の弁解をそのまま言い訳とでしか受け取ってくれなかった。ところがその後、他人であるはずの彼女はいつの間にかに僕の理解者になっていた。
「夏奈慧くん、見てほしいものがあるの」
先生がそう言って僕を呼んだのはその日の昼休みのことだった。
彼女はどういう訳か一緒に居合わせた俊太と奈央も連れて職員室へ行き、彼女のデスクの前に三つの椅子を用意して僕達を座らせた。
先生の机の上には一枚の紙があり、そこには数字や漢字、平仮名や何と読むのかわからない、たしかアルファベットとかいう字が間隔を開けて書かれていた。先生はそれを僕達に見せるとなんの前置きもなく、僕を除いた二人にその文字が何色に見えるかと聞いた。
「全部、黒い字に見える」
「僕も同じ」
二人は俊太と奈央は当然のように、それぞれ意味のなさそうなその質問に答え、それを聞いた先生も頷いた。
だが、三人が平然とした様子で受け答えをする中、僕はその場で唯一触りどころのない疑念を抱いていた。
「じゃあ、夏奈慧くんにはどう見える?」
そして先生は何か知っている顔で、困惑している僕だけに向けて質問を聞き直した。
「えっと……ほとんどは黒に見えるけど、数字の『さん』と『はち』と、漢字の『楽』とこのアルファベットが違う色に見える」
そう恐る恐る僕が答えると,
先生は二人の時のように頷く代わりに、僕が言葉にした文字を見るとしとやかにほほ笑んだ。
「じゃあ、何色に見える?」
「三がオレンジ色で、八が紫で、楽が水色よりもっと薄い色でアルファベットがピンク」
それを聞くと先生は何かを確信した顔でなぜか頷き、その表情を見ると僕の困惑はいつの間にか優越感に変わっていた。
僕はテレビやゲームのせいか、自分が普通の人間とは違うことを望むことが多々あった。しかし、その望みはいつになっても願望のままで、今まで現実になることはなかった。
だからこの時の確かな優越感は一瞬にして僕の心を射止めた。そして一種の天狗状態になった僕の頭の中には、輝かしい未来がどこまでも広がっていた。
だが、その幼稚な妄想を膨らましたのが良くなかった。
「やっぱりそうなんだ。いい、夏奈慧くん。あなたは共感覚を持ってるの」
「共…感覚……?」
「そう。わかりやすく教えてあげると普通の人は持ってない凄い力を持ってるってこと」
先生が発した普通の人は持ってない、凄い力、という言葉はすでにできあがっている僕をさらに思いあがらせ、有頂天にさせた。そこまでは良かった。
「どう、わかったかな?」
「うん!」
僕は感極まって柄でもない、活気に溢れた声を上げた。
しかし、僕が天狗になったことで、とうとう僕を地の淵へたたき落とす準備が整い、次の瞬間、僕は永久に続く失望の人生のスタートラインを切ることになった。
「先生ね、インターネットに調べてみたんだけど、その共感覚にはいくつか種類があって、どうやら夏奈慧くんが持ってるのはよくある種類で今みたいに簡単にテストができるらしいの」
「よく…ある…種類……」
*** ***
「どうして僕が共感覚なんてものを持ってるってわかるの?」
遠い昔の記憶を垣間見るように思い出していた僕は、我に帰ると首を傾げている彼女を問いつめた。
すると花楓はどこかで見たことのある笑みを作った。
「模試の日に私、夏奈慧くんの解答用紙を見たでしょ。その時、記述の問題で普通の人なら使わないような表現があったから、もしかしてと思って」
「それだけで僕が共感覚者だって決めつけたの?」
「でも実際そうなんでしょ」
「なんでそんなことわかるんだよ」
「だってそうでもなきゃ、共感覚なんて言葉に食ってかかってきたりしないでしょ。ましてや夏奈慧くんみたいな男子高校生なら、普通名前さえ知らないよ。何それ、とか言うのが当たり前。それなのに、そういう反応をしないってことは共感覚を持ってるって大きな証拠」
「探偵かよ……」
花楓は鋭い推理で見事に僕の正体を見破ってみせた。僕は何の反論も唱えられず、表情を隠すように前髪を推し伸ばし、渋々その推理が当たっていることを認めた。
「それで小説の感想を僕に頼んだわけね」
「うん。共感覚の人は並じゃない表現方法を自然に使いこなせるって聞いたことがあったから。これほど小説を審査するのに適した人はいないでしょ」
「……開花ぶりすぎだと思うよ」
僕は花楓の自信満々な物言いとは裏腹に生気のないため息をついた。
今考えれば僕が人生の挫折の中にいる理由なんて、ほんの小さなことだと言うことくらいわかる。自分は確かに珍しい人種で、ただその珍しさが、僕の求める特別のレベルより少し普遍に寄っていただけだ。別に同じような力を持っている人間が世界で百人だろうが一千万人だろうが、七十二億人という総人口と比べれば珍しいことには変わりない。
だが、僕はその事実をわかっていても、やはりそれを受け入れられなかった。幼さが抜け切っていないからか、はたまた脳みそが足りないからか。その理由はわからないが、何にしても僕は十七歳手前にもなって、まだ自分だけが保持している漫画の主人公のような凄い力を求めているらしかった。
だからその力が見つかっていない今の自分をのけ者扱いし、優れた物語を作りだした並々ならぬ才能を開花させている花楓に嫉妬している。なんとも馬鹿げた話だ。
「じゃあそろそろ帰るね。感想はちゃんと伝えたし、なんで僕なのかって理由も聞けた。花楓が共感覚のことを口にしたのはびっくりしたけど、おかげですごく有意義な時間が過ごせたよ」
「それじゃあ、またね」
僕は花楓に感謝を言って、その嫉妬心にもあわせて別れを告げようとした。
「待って」
ところが、僕がお別れを言いながら立ち上がって帰り道の方を振り返ると、花楓がそれを引き止めた。
「戻って」
そして跡がついている芝の地面を叩いて、僕に元の位置へ戻るよう指示した。僕はその意図が理解できず、今度は僕の方が代わって首を傾げた。
「私が話したいことはそれだけじゃなくてね、もう一つ大切なことを夏奈慧くんに言っておきたいの」
「話したいこと?」
僕は不信感のようなものを抱きながらも、仕方なく再び地面に座り直して、花楓の言葉を促した。
「うん。夏奈慧くんさ、前に生きる意味が見つからないって言ってたでしょ?」
「言ったね」
「今もそう?」
「それはね……。数日で生きる意味が見つかるなら、わけないよ」
「……辛い?」
「少しね……」
僕が花楓からの一方的な問いに答えていくと、終始続いていた沈黙はいつしか湿った空気に変わっていた。そして会話の流れもそれにつられるように速度を落とし、より一層沈黙を際立たせた。
「じゃあさ……」
そんな雰囲気の中、花楓が次に放った声はその場にそぐわない希望に満ちたものだった。
「私があなたに生きる意味を授けます」
その場に立ち上がった彼女が格好つけて言ったその台詞は、初め僕の頭の中を真っ白し、その後、抜け出しようのない疑問の渦を作った。
「まずそのために夏奈慧くんも一本小説を書いてみない?」
僕が混乱している間に花楓はさらに話を進め、僕のあずかりしらないところで何やら満悦な様子を見せた。
「ちょっと待ってよ。急に何?」
生きる意味を授けます、などと理解不能なことを言われて混乱していた僕の脳は、小説を書けという理解可能な無理難題のおかげで正気を取り戻し、花楓と同じように立ち上がってようやく異議を唱え始めた。
「何って、夏奈慧くんは生きる意味が見つからなくて辛いんでしょ。だから私が手っ取り早く意味を授けるって言ってるの」
「だから、その言ってる意味がわからないんだよ。生きる意味なんて、そんな手っ取り早く見つけられるものじゃないって言ったじゃん」
「違うよ、見つけるんじゃなくて授けるの」
「授ける?それこそもっと意味不明だよ。それに、なんで生きる意味の話が執筆に繋がるの?」
「なんでも」
「なんでもって……。ちゃんとした説明がないとそんな……」
「いいから私の言う通りにしてよ!」
僕達の口論はその花楓の柄でもない怒鳴り声で中断となった。そしてその後に今日はもう終わりにしよう、という彼女の提案が続いた。そしてそれに僕も賛成し、この日の会談はお開きになった。
家に帰った後も彼女の声は鼓膜にこびりついたまま取れず、その違和感に意識を注ぐと、それは次第に耳鳴りのような音へ変わっていった。僕はベッドに寝転んで心を沈めようとしたが、それもあまり効果がなく、それどころかその耳鳴りを酷くさせただけのようにも思えた。
僕はその後もずっと違和を感じながら時間を過ごすことになった。おかげで休日だけしか味わえない母の手料理も喉を通らず、もう寝てしまおうとベッドに入っても、都合よく睡魔が訪れることもなかった。
そして時計が深夜三時半を回った頃、僕は何を思い立ったかベッドを抜け出し、私服に着替えて玄関の扉を開けた。
日の入りから随分の時間が経っていることもあり、空気は夏直前とは思えないほどひんやり冷えていた。そのため騒がしい頭を冷やすにはちょうどよく、次第にその雑音も静まっていった。
僕はどこを通ろうとか、どこへ行こうかなどということを、いちいち脳で考えることはせず、歩みの動くままに進んでいき、視界に映るものをただ眺め楽しんでいた。
すると、たまたま俊太や奈央の家が見えてきて、僕は何百何千と同じ道を通れば本当に足が道順を覚えるのかと寝ぼけたことを考えた。そしてそのまま染み付いた行動をとり続けていたら、僕の身体は危うくいつものようにインターホンを押そうとした。しかし、ボタンに指が触れる寸前で目覚めた僕の自我がそれを止め、その手をそっと下ろした。
―――私があなたに生きる意味を授けます―――
さっき通った公園からの帰り道にさしかかると、僕の中にあった漠然とした違和感が水中から浮き上がる泡ように頭の中を廻った。そしてふと、思い出された花楓とのやり取りが今まで持続させていた無意識を掻き乱した。
「小説か………」
僕は今更ながら彼女の本気か冗談かもわからない発言を真に受け始め、大した取り柄も持っていない自分自身に改めてそれを問いかけた。
その後も僕は何かを探し求めるように夜の徘徊を続け、朝日が顔を出す頃になるとそれと入れ替わるようにベッドへ隠れた。
しかし、学生である僕にゆっくり寝る時間は残されてなく、しばらくうとうとしていたら、俊太と奈央との待ち合わせ時間が十数分後に迫っていた。
僕はさっき着替えたばかりの私服を脱ぎ捨て、少し急いで制服を着ると鏡でいつもより適当に身なりを整えて待ち合わせ場所へ足を走らせた。
速まる鼓動が次第に昨日からの胸騒ぎへと繋がり、二人と合流した後も僕は意味もなくどこかそわそわしながら学校へ向かった。
その胸騒ぎが一種の虫の知らせだと気づいたのは、その日の昼のことだった。
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