第三章

 翌朝、自室にこしらえたアトリエを整理した。アトリエといっても水彩紙が積んであって、絵具や筆が散らばっているくらいのものだが、こういう空間を作るのに憧れて大学入学とともに上京して一人暮らしを始めたのだ。緑の絵具が切れかかっていたので画材屋に行き、ついでに他の色もいくつか調達した。


 私は中学生が描く絵が好きだ。彼らの絵には特有の強烈な魅力がある。この魅力は私が中学生のときから既に感じていたし、自分の絵も例外ではなかった。この魅力の正体とは何なのか、それを突き止めるのが私の夢だ。つまりこれは人生の中で一瞬しか許されない魅力を再現するということであり、将来の夢というよりもむしろ不老不死とかそういった野望に近いものだと思う。

 

 今回はこの目標を追究する機会にしたかったから、若き日に感銘を受けた農地の風景を題材に選んだ。私はそこに含まれる要素の全てが好きだった。畦道の柔らかな草。それは所々禿げているが、そこから覗く土は暖かい。出鱈目に生えている木々にも、錆びたサッシの赤褐色にも、投げやりに丸められたブルーシートにさえも、美しさは確かにあった。そんな風景を、少年時代に感じたままに描きたかった。


 私の掲げる目標はあまりにも大きいという事実が、一筆描くごとに水彩紙から跳ね返ってくる。畝も農耕機もビールケースも、変に気取っていて陳腐だった。見つめれば見つめるほど陳腐で、イライラしたので散歩に出かけた。こういうことを繰り返すうちに一週間が経ってしまった。

 

 ある日、電車に乗って美術館まで足を運んだ。自らの陳腐な絵に見飽きたので、ただ鑑賞を楽しむということを思い出そうとしたのだ。この美術館には予備校を紹介してくれたのとは別の知人が職員として働いているらしいが、この日は会わなかった。美術館の荘厳な雰囲気は好きだが、この日はそれに気圧されてしまった。というのも名画の数々と自分の描きかけの絵を比べてしまい、己の凡庸さを突きつけられてしまったからだ。どの絵も素晴らしかった。特に廃屋に差し込む光を描いた水彩画が良かった。身近に有り余るほどの日光の一部を切り取ることで、その神秘を雄弁に語っていた。私は他人の才能には人一倍敏感であると自負している。それを、何につけても自分と見比べてしまう傲慢な競争心と併せ持ったのがよくなかった。


 美術館を出るとなんだか潮垂れてしまったので、人と会いたくなった。大学時代の友人の安井にに電話をかけて飲む約束を取り付けた。この安井というのが、私の今の職場を紹介してくれた男である。彼は学生時代に例の予備校でアルバイトをしていて、現在は広告代理店に勤めている。私たちは学生時代共によく行った居酒屋で会うことになった。


 約束より少々早く店に着いたが、安井もすぐにやってきた。私たちはビールを頼んだ。

「久しぶりだな澤口、それで予備校の仕事はどうだ?」

「悪くないよ。思っていたほどキツくないし、何より金がもらえる。」

「そうだろう。給料ってのはいいものさ。俺はこういう働き方しか知らないけど、絵を売るっていうのはどういうもんなんだ、生業として。」

「やるもんじゃないね。」

「知ってたさ。それはそうと、絵描自体はまだ続けてるのか?」

「それなんだが、実はしばらく辞めていたんだけどね、予備校の上司に川村さんって人がいて、その人が主宰する画廊に一点だけ出展することになったんだ。」

「へえ、それは良かったじゃないか。」

「そうなんだけど、なかなか描きたいようにはいかなくてね。あと二週間と少しで描きあげなきゃいけないんだけど。」

「描きたいようにって、今までだって絵を売ってたんだろう?」

「それはそうなんだが。僕はさ、子供の描く絵が好きなんだ。わかるだろう?そういう風なのを描くのが難しいってことは。」

「なるほどね。現代のピカソだ。」

「僕はね、なぜ子どもたちは絵を売ってくれないんだろうってときどき本気で思うんだ。」

「画家になりたくないんだろうさ。」

「中には画家になりたい子もいるだろう。」

「そういう子も本心では画家になりたくないんだろう。なんだよ、真に受けるなよ。」


 カウンターで長身のサラリーマンがぼおっと黄昏ていた。そのくたびれた雰囲気がなんだか羨ましくて、二杯目は彼を真似て梅干しサワーを頼んだ。

「とにかくさ、自分の絵がどうもつまらないんだよ。だから描いても描いても先に進めないんだ。」

「つまらないと思えば全部つまらないものさ。だから面白いことを、時にはあるはずのないようなところからも何か見出すしかないんだ。そういう営みが芸術なんじゃないかな。」


 絵を描くことさえやめた奴に芸術について説教されたのが癪に障った。しかも私はそれに感銘を受けてしまった。同じことを川村に言って欲しかった。そうすればただ感銘を受けるだけで済んだのに。


 その夜は早いうちに店から引き上げて、帰ってからすぐに寝た。








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