昏倒

 梯子を上って外に出たとき、雨が勢いを増していることに気付く。


 ――早く帰らなきゃな。


 親にバレていたら問題だし、こんなところを誰かに見られるのもまた問題だ。

 視界は悪いが、なるべく急いで帰らなければと、私は急いで永射邸跡から立ち去ろうとする。

 ……けれど、これだけ幸運が続いた捜査の最後で。

 最悪の事態は起きてしまった。


「……止まってください」


 声がした。

 鋭い口調に、私は胸を貫かれたような痛みを伴って、動きを止める。

 寒さのせいだけでなく、歯がガチガチと音を立てた。

 雨か汗か分からないものが、頬を伝う。


「どういうことなの、龍美さん」

「早乙女、さん……」


 崩れかけの天井。雨を遮るその天井の下。

 壁にもたれて腕組みをしながら、冷たい視線でこちらを睨んでいるのは、早乙女さんだった。


「あなたが、鍵を持っていたんですね?」

「そ、それは」


 言い逃れはできない。彼女は今まさに、私がこの地下室から出てくるのを目撃したのだ。

 鍵は早乙女さんから盗んだものだと蟹田さんは言っていた。拾ったんですなんて言い訳も苦しい。

 鍵を拾っただけで、この地下室を調べるなんて行動に至るはずがないのだから。

 ……それなら。


「……むしろ早乙女さん、教えてください。あなたたちは……病院は何をしようとしてるんですか? それは私たちにとって良いことなんですか? 悪いことなんですか?」

「知る必要のないことです」

「そんなことない! 私たちの住む街のことなんだから……!」


 私たちの街、満生台。

 その象徴でもある満生総合医療センターで、私たちに不利益な何かが行われているのなら、それは許せないことだ。

 電磁波以上に、認められない大問題だろう。


「WAWプログラム。これは一体、どういうものなんですか」

「……見たの?」

「いいえ、まだです。すぐにでも読ませてもらいたいですけど」

「……そう」


 ワガママな子どもに呆れるように、早乙女さんは小さく溜め息を吐いた。

 そして、傍に立てかけていた傘を手に取り、バサリと広げる。


「満生台はね。『満ち足りた暮らし』が実現されるよう、進化を遂げていく。大丈夫、これは必要なプログラムなの。だから龍美ちゃん……今日のことは全て忘れて、帰ってもらえますか」

「進化って、何なんです……!?」


 早乙女さんは答えない。ぎゅっと口を真一文字に閉じて、ただこちらへと歩み寄ってくる。

 その目が見ているのは――私が手に持つ、機密文書だ。


「あッ――」


 刹那。

 私の脳内に凄まじい痛みが迸った。

 あの、鬼の夜の再現……いや、それ以上の痛みが私を襲い。

 目に映る景色がチカチカと明滅を繰り返して、まともに前を見ていられなくなる。


「ぐッうぅ……」


 コトリと、傘が落ちる。

 冷たく降り注ぐ雨の中、私は立っていられなくなり片膝と片手を床につける。

 ぼやけた視界の先では、早乙女さんが戸惑った表情ながらも、更に近づいてきて。

 その手が機密文書を奪おうと、伸ばされた。


 ――殺す。


 圧し潰されそうな痛みの中。

 目を見開いた瞬間、そこには『鬼』がいた。

 黒霧を放ち、蓑笠を纏うヒトガタの鬼。

 そいつが今、確かに私の眼前に存在していた。


 ――殺す。


 脳内に響き渡るような声が、次第に増幅していく。

 鬼がゆっくりと、私を殺すために、手を伸ばしてくる。

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。

 私の手が、震えて。

 鬼を振り払って。

 頭が。

 痛くて。

 

「……あ、あ――」


 薄れゆく意識の中で、仰いだ空は。

 まるで血の海のように、濁った赤に染まっているように見えた――。

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