蟹田郁也
やがて、街で最も大きな建物が見えてくる。
広い駐車場を横目に、私は静かに入口の自動ドアを抜けた。
雨が止んだおかげか、病院に訪れる患者さんの姿もそれなりに増えているようだ。
待合室には六人ほど、ご老人方が座っていた。
外から見える範囲で中の様子を探ってから入ったのだが、受付のお姉さんは狙い通り奥に引っ込んでいる。
私は見舞い客のようにしれっと右側の廊下に進んでいき、階段の手前で足を止めた。
さあ、ここからどのように探っていこう。
院内で頼れそうな人物は、牛牧さんか双太さんか。まあ、その二人も証拠があって信じているわけではないが、虎牙や永射さんの件には関わっていないと思っている。
どちらかに、この病院に怪しい部屋なんかがあるかを聞けたらいいのだけど――。
「やあ、こんなところでどうしたの?」
「ふえっ?」
思考中に、突然声を掛けられたものだから、私は素っ頓狂な声を上げてしまう。ふえって何だ。恥ずかし過ぎる。
男の人の声。私は最初、双太さんかなと思ったのだが、少しばかり声質が違うようだ。では一体、誰なのだろう。
「――蟹田さん?」
色の抜けたような、灰色がかった髪。
いかにも体調が悪そうな、隈の浮かぶ目元。
なのに全体としては爽やかな好青年、という不思議な雰囲気の男性。
この病院で長らく入院生活を続けている、蟹田郁也さんだった。
「どうして……」
と、言いかけて私は口ごもる。普通に考えて、最初に蟹田さんが声を掛けたように、私のほうがどうしてここにいるのか分からない人間だ。
蟹田さんは入院患者なのだから、院内を散歩するくらいなら特別おかしなことではない。
散歩中、何故か階段前で考え事をしている女の子を見つけたら、そりゃ心配して声をかけるだろう。
彼は無視して通り過ぎていくような性格じゃなさそうだし。
「えーっと。私はその、お見舞いというか」
苦し紛れの言い訳だ。誰のか、とまで追求されたら悩むのだが、満雀ちゃんと答えるしかないか。
どうかこれで会話を打ち切ってくれ。そう念じたのだけれど、返答は私の想像と全く違った。
「――虎牙くんだね」
「……え?」
今、この人……虎牙と言ったか?
「ここで話をするのはまずい。悪いけど、俺の病室まで来てくれるかい」
「あの、は――はい」
あまりの展開に、頭がついていかなかった。
蟹田さんは……虎牙のことを知っている?
どういうことだ。
彼はただの入院患者だと、ただそれだけだとばかり思っていたのに。
蟹田さんに導かれるまま、私は三階にある彼の病室に入っていく。三〇三号室。そこが彼の長年滞在する部屋だ。
私たち仁科家が移住するよりずっと前から、蟹田さんはここにいる。
「ふう……さて、と」
蟹田さんは、奥にある清潔そうなベッドに上がる。高機能性のベッドはボタン一つで上半身と下半身部分の角度が変わるようになっていて、今は座椅子のように、上半身が八十度ほど上がっていた。
「まずはここまで来てくれてありがとう、龍美ちゃん」
「は、はあ……」
どう答えていいものか、私は曖昧に返答する。
実際、この人のことを信用していいものかはまだ分からないのだ。
虎牙が、たまに蟹田さんと話しているのは見たことがある。しかし、交流があったからといって、彼が味方とは限らない。
「混乱するのは当然だ。俺もいきなり訳知り顔で首を突っ込んでくる奴がいたら怪しいと思うさ」
「まあ、そういうことですね」
素直に同意の言葉を述べると、蟹田さんは膝を叩いて笑った。
「はは。……ただ、少しばかり事情が込み入っててね。君に言えることは、虎牙くんがどういう状況にあるかだ」
「……虎牙は、今どこに?」
私は勢いあまってシーツの端を掴みながら、蟹田さんに問う。
彼は声を潜めて、
「うん。あの子は病院の地下に軟禁されている」
「な……軟禁!?」
「龍美ちゃん、声が」
あっと慌てて口を塞ぐ。けれど、驚いて当然のことじゃないか。
……虎牙が、軟禁されているですって?
「それ、本当の話なんですか?」
「ああ。俺が直接地下室を見てきたから間違いない。捕まっているあの子に会ってきたよ」
「そんな――」
とんでもない話で、私は絶句してしまう。
病院が虎牙を捕まえるだなんて。ただの子ども一人に、そんな仕打ちをしなければならないほど、病院は後ろ暗い実験をしているというのか……?
貴獅さん。病弱な満雀ちゃんの良きお父さんであり、良き理解者。
そんな人物像が、さらさらと砂像のように崩れ去っていくような。
しかし――他に、誰がどこまで関与しているのだろう。
佐曽利さんが信用しているという牛牧さんも、果ては双太さんも。
病院の関係者には違いないのだ。
「院内のことを調べているうちにしくじったらしくてね。事前に打ち合わせをしていたから気付けたんだが、危ないところだったってとこかな」
「蟹田さん、あなたは一体……?」
入院生活が長いから病院の裏事情に精通するようになった――なんてことは有り得そうもない。
彼はどうして、こんなに詳しく情報を掴んでいるのだろう。
「うん。俺は牛牧さんに恩があってね。病気を治療するため、あの人がここに呼んでくれたんだ。そういうわけで、俺は恩返しとして牛牧さんの手伝いをしてるってわけ」
「ということは、牛牧さんは今の病院に不信感を持っている……?」
「貴獅さんに体制が変わってからね。信じて任せたのに、どうも怪しいと。立場上思い切った行動はとれないけど、俺を巻き込んで二人、ゆっくり内情調査をしていたんだ。まさか病人が院内のことをこそこそ調べてるとは思わないだろうし」
そりゃそうだ。私だってこうして話を聞くまで、蟹田さんに入院患者というイメージ以外の何もありはしなかった。
それがよもや、スパイまがいのことをしているとは。
「言っとくけど、病気なのは本当だからね。治療が受けられなくなったら流石にまずいんで、ここで聞いた話は全部内緒で頼むよ」
「ま、まあ内緒も何も、私だってバレたらやばいですし……」
「はは、それもそうか」
蟹田さんは快活に笑う。こんなときでも爽やかなのは、蟹田さんの人となりゆえなのかな。
「……よし。とりあえず俺のことはここまでにして。龍美ちゃん、君に伝えるべき今後のことを話すとしようか」
「あ――はい。お願いします」
私が言うと、蟹田さんは満足げに頷いた。
「率直に言うと、龍美ちゃん。君は虎牙くんを助けに行かなくてもいい。そっちは俺が何とかする」
「え? じゃあ……」
「虎牙くんは、君に別の仕事を託したんだ。身動きのとれない自分の代わりに、急ぎやってほしいことがあるってね」
そこで蟹田さんは、ズボンのポケットをゴソゴソと漁り、何かを取り出した。
それは、小さなカギだった。
「これはね、早乙女さんが肌身離さず持ってる鍵なんだ」
「え……!?」
そう言えば、彼女はキーケースを携帯していた記憶がある。その中にあった一本なのだろう。
しかし、その鍵をなぜ蟹田さんが持っているのか。
「ここだけの話、失敬させてもらった。大事なキーアイテムさ」
「ぬ、盗んだんですか?」
「ああ……君にこれを託す」
受け取るのにかなり抵抗があったのだが、蟹田さんは有無を言わせず鍵を渡してくる。
飾り気のない、細長い銀色の鍵だ。
「虎牙くんが突き止めた秘密。これは、永射邸にある地下室の鍵なんだ」
「永射邸に……」
焼け落ちた邸宅。あの床のどこかに、地下へ続く扉があるというのか。
仄暗い階段。自然と私は、鬼封じの池にあった廃墟を思い出していた。
「どうやら、病院と永射氏は繋がっていたらしいね。あの人も、病院で行われている何かに協力していた。永射邸に秘密の地下室があるのなら、そこに隠された情報があってもまたおかしくはない」
「た、確かに……」
病院と永射さんとの繋がり。そして永射邸の鍵を持つ早乙女さん。
貴獅さんに渡されただけかもしれないが、早乙女さんはどこまでを知り、どこまで関与しているのだろう。
「君には、その鍵を使って地下室を調べてもらいたい。……というのが、虎牙くんの頼みだ」
虎牙が、私に託した仕事。
それなら、断る理由なんてない。
目の前に、真実への扉があるのなら。
それを開くことが、虎牙を救うことに繋がるなら。
私は遠慮なく、その扉を開けてやろう。
「……分かりました。必ず、やり遂げます」
「よろしくお願いするよ。代わりに、虎牙くんはこちらで必ず助ける」
「蟹田さんも、しくじったら許しませんから」
「はは、さっすが虎牙くんの彼女さんだ。怖い怖い」
「かっ、彼女じゃないですー!」
私が全力で否定すると、蟹田さんは意外そうな顔をした。
別にそういう認識でも構わないのだけれど、一応は本当のことを言っておかねば。
「また明日、ここへ来ればいいですか?」
「そうしようか。虎牙くんはここにいちゃまずいから、俺が助け出して行き先を聞いておこう」
「了解です。……じゃ、約束ですよ!」
「オッケー。じゃあ、また明日」
蟹田さんに別れを告げて、私は病室から立ち去る。
この病院の地下に虎牙が囚われていても、今の私に打つ手はないのだ。
自分の手であいつを助けたいという気持ちはあれど、ここは蟹田さんに任せ。
私は私に託された使命を、果たさなくては。
――やってみせなきゃ。
事件の前は、平穏に生きるためには触れないことも必要だと思っていたが。
ここまで巻き込まれてしまった以上は、もう突っ切っていくしかない。
既に消え去った平穏を取り戻すため。
私は真実を詳らかにする。
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