第4章

第30話 魔王城はあと少し

 ウォーレンハックを出発してから五日が経った。残りもあと五日。予定では三日後に魔王城へたどり着く計算だ。


 献上品として捧げられる日は間近に迫っている。だというのに、シェーラはいつもの調子で虫を皿の端に除けた。


「好き嫌いはよくないよ?」


「いっぱい食べ物をもらったのに、どうしてこんなものを食べなきゃならないのよ!」


 朝食の席で彼女は子供のように喚いた。


「そろそろ克服できたかなと思って」


 本当は彼女が食べ過ぎているせいで量の調整が必要になっているからなのだが言わないでおく。できるだけ好きなものを好きなときに食べさせてあげたい。こうして虫や草も食卓に並べるのは苦渋の決断でもあるのだ。


「できないわよ! 死んでも無理なの! そこらの草でも食べていた方がマシだわ!」


「じゃあ――」


「草もいらない!」


 文句を言いつつもシェーラは虫以外を平らげた。


 二人が座っているのは草原だ。先は丘になっていて道なりに進めばいい。


「ねえねえ、アリス。見ていて」


 シェーラは馬に近づくと鐙に足を乗せた。


「危ないよ」


 アリスが心配して近づこうとすると、彼女は慌てて鞍に手をかけて一息に飛び上がった。馬を蹴りつけるようなことはなく、綺麗に跨がってみせる。


「どう? すごいでしょ?」


「驚いたな……」


 シェーラはご満悦の様子で馬を撫でる。すると馬もまた上機嫌な鳴き声を上げた。


 アリスが同じように撫でたとしても彼女のような反応は得られない。相当に懐かれたらしい。動物は心が綺麗な人を好くというから道理かもしれない。


 調子に乗って走り出そうとしたシェーラだが、馬の動きに対応できず落ちそうになる。短い悲鳴とともに身体が傾いた。背中から落ちる格好だ。


 アリスが大慌てで彼女を支える。なんとか落ちずに済んだ。


「ああ……心臓に悪い。落馬して死んだ人もいるんだから気をつけてよ」


「…………」


 彼女は顔面蒼白にして放心している。


「ほら、一旦降りて」


 彼女は首を横にふるふると振る。終始ぽかんと口を開けているから、アホっぽくて可愛らしい。


「どうしたの?」


 彼女はゴニョゴニョと口の中でなにか言った。当然聞き取れるはずもなく首を傾げると、シェーラは頬を朱に染めながら目を逸らした。


「怖くて、動けない……」


 自分で乗ったくせにと呆れてため息を吐くと、彼女はムッとした表情で目尻に涙を溜めた。


「乗ってるからいい」


「ごめんごめん。拗ねないで。ほら、掴まって」


 両手を伸ばすと、シェーラは一切の躊躇いなく抱きつくようにして飛び込んで来た。後ろにたたらを踏むアリス。なんとか転倒は避けた。転んだら意味がないだろうと注意しようとしたものの、シェーラが首に強くしがみついてくるせいで喋れない。落馬しかけた恐怖のせいだろうか。息が苦しい。腕をタップしても放してくれる気配がない。


「……じぇー、ら……くる、し……」


「え? あ、ご、ごめなしゃい」


 動揺して口調が乱れるシェーラは機敏な動きでアリスから距離を取る。今まで見たことのないスピードだった。この旅で身につけたのだろうか。


「まさか、ここまで来て殺されそうになるとはね」


「わ、わざとじゃないわ!」


 魔王城を目前にして恐怖が頂点に達し、行動を起こす少女は少なくなかった。逃げようとしたり、隙を見て襲いかかってきたり、自害しようとしたり。街のためとはいえ、自らの死を前にして正気を保てるはずがない。なにもかもを諦め、絶望に染まった瞳を何度も見てきた。まるで魂の抜けた人形のように。


 それでも多くの少女たちは引き渡しのときに感情的になる。泣き叫び、助けを乞い、運命を嘆き、世界を呪い、運び屋を恨む。


 いくつも折り重なった怨嗟の声がときどき聞こえる。耳にこびりついたように決して消えてはくれない。


 だが、シェーラは違った。ここまで来ても未だ自分を保っている。それどころか少し逞しくなった気さえする。


 ウォーレンハックのウィース山で自分を守ろうとしてくれた背中を思い出す。不思議な気分だった。だって自分は、誰かに守ってもらえるような価値のある人間ではないのだから。


「アリス?」


「ん? どうしたの?」


 いつの間にか思考の海に埋没していたらしい。顔を上げると、シェーラが不思議そうに首を傾げていた。


「まだ体調悪い? もう少し休んでいった方が……」


「いや、大丈夫だよ。あまり悠長にしていると――」


 間に合わなくなる。いつもなら言えた言葉が、喉に引っかかって出てこなかった。差し迫った旅の終わりを口にする勇気がない。


「そうね。間に合わなくなったら大変だわ。でも、アリスが倒れたりしたらもっと大変だから、辛くなったら遠慮なく言って」


 しかし、シェーラは口にした。彼女の表情にも声にも陰りはない。純粋に心配してくれているのだ。それが伝わってきて、胸の奥がじんと温かくなる。


「シェーラは強いね。心配してくれてありがとう」


「なによ、急に改まって……」


「ただ伝えたかっただけだよ」


 照れているのか、シェーラは背を向けて馬を撫で始める。


 このまま彼女を連れて遠くへ逃げてしまおう。伸ばしかけた手を強く握りしめる。


 それだけはしてはならないと誰よりも知っていた。


 湧き上がる気持ちを押し殺して、アリスは口を開く。


「そろそろ行こうか」

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