第29話 終わりへ向けて

 三日後。ようやくアリスは動くことができるようになった。


 薬師であるセッタの父がいなければ、もっと日にちを要していただろう。今回は特に幸運に恵まれていた。


「もう大丈夫なの?」


「うん。ゾッタさんに感謝しないとね」


「そうね。でも、私だって頑張ったわ」


 ようやく役に立てたと思っているシェーラはすごく嬉しそうだった。生きていてくれているだけで十分なのだが、ここは水を差さないでおくことにする。


「もちろんだよ。ご飯食べさせてくれたり、身体拭いてくれたり、大助かりだった」


「――っ!」


「どうしたの? 急に赤くなって」


「な、なんでもないわよ」


 シェーラは突然顔を背け、黙り込んでしまった。顔を覗き込もうとすると、ぷいっと違う方向を向かれてしまう。


「本当にありがとうって思ってるよ?」


「わかったから近づかないで!」


「え……」


「あ、そう、じゃなくて、ちがくて、その……」


 おろおろしているのが面白くて、思わず噴き出した。


「ひ、酷いわ!」


「ごめんごめん。嫌ってるって意味じゃないことはわかってるよ」


「……ならいいわ」


 この時間がずっと続けばいいのにと、アリスは願ってしまう。だが、それはできなかった。残された時間はあと一〇日。思わぬアクシデントで日にちを食ってしまった。ここからは寄り道はできない。


「そろそろ出発しようか」


「本当に大丈夫なの?」


「大丈夫だって。寝てばかりの方が身体が鈍って駄目になるよ」


 心配そうな表情を浮かべるシェーラだが、彼女も悠長にはしていられないとわかっているのだろう。止めることはなかった。


 ゾッタ親子に礼を言って診療所を出た。グローゼアからは食糧を買う。魔物を倒した礼だと言って、おまけをたくさんつけてくれた。シェーラはご満悦だ。


 彼は最後までシェーラの運命に罪悪感を抱いていた。


 だからか、シェーラは微笑みを讃えて穏やかな口調で言った。


「私は今からたくさんの命を救うのです。だからそのことで気に病む必要はありません。グローゼアさんたちに出会えて、本当によかったと思います。争うだけでなく、手を取り合うこともできるのだと知ることができました。複雑な気持ちはありますが、きっとこれが世界のあるべき姿なのだと、私は思います」


 もはやグローゼアが魔物であることを気にした様子はなかった。シェーラは彼の手を取って笑いかける。優しい、それでいて強い意志の込められた眼差しに、グローゼアが息をのむ音が聞こえる。


「私は私の戦いをします。ですから、皆さんも負けないでください。いつかきっと、この街の在り方こそが世界の道しるべとなるはずですから」


 その言葉にグローゼアは圧倒された様子で静かに頭を垂れた。


『はい、必ず』


 それはまるで女王の言葉を授かった臣下のように見えて、アリスは目を見張った。かつてレイストリア王の御前で魔王討伐の命を受けたときのことが思い起こされ、思わず跪きそうになった。


 それほどの風格を――その片鱗をシェーラは見せた。


 グローゼアに別れを告げ、馬の下へ向かいながらアリスは言う。


「グローゼアさんはきっと、シェーラのあの言葉だけで一生を生きていけるよ」


「大げさよ」


「そんなことない」


 王の言葉とは、そういうものだ。


 レイストリア王もまた、見せしめに殺された。今は息子であるサイランが王として即位しているが、実際に王都を仕切っているのは悪魔だ。サイランは人間を操るための傀儡にすぎない。


 三年前のあの日。アリスはレイストリア王から運び屋を任された。それが彼が下した最後の命だったと聞く。もちろん、命令には隙を見て魔王を殺すことも暗黙的に含まれている。だからこそ、勇者パーティーの生き残りであるアリスに託されたのだ。


 だが、サイランは余計なことをするなと言った。アリスが失敗すれば王都が滅ぶ。だからなにもせず、ただ運び屋の使命をまっとうしろと。


 最初に献上品に選ばれたのはサイランの妹だった。彼は国のために死んでこいと命じた。もしもそれが苦悩の末に導き出された答えであったなら、彼女は自分の死に意味を見出せたかもしれない。だが、それはサイランが自分の命欲しさに下したものだった。国のためではなく、民のためでなく、己のためのものだった。


 もはやこの国に人間の王はいない。だから人間に未来はない。そう思っていた。


「もしもシェーラがレイストリアの王だったなら、少しは世界が変わってたかもね」


「そんなこと、あるわけないじゃない」


 立ち止まったシェーラを振り返る。彼女は少し照れくさそうに笑って目を細めた。


「でも、嬉しいわ」


 風が吹いた。色素の薄い金色の髪が揺れる。髪を押さえた可憐な細い指。小首を傾げた仕草。笑みを浮かべる薄い桃色の唇。どれを取っても絵になる美しさだと思った。


「アリス?」


 シェーラの問いかけに、ようやく我に返る。


「どうしたの? 私をじっと見て。……もしかして口になにかついてる?」


 ちゃんと確認したのに、と言いながら口元を拭っているあたり、食糧を摘まみ食いしたのだろう。


 心を打たれていた自分が馬鹿みたいで、アリスは盛大なため息を吐いた。


「べ、別にいいじゃない! たくさん貰ったんだし!」


「食いしん坊め。太るよ?」


「こ、これくらい大丈夫よ! すぐに消化するもの」


 グローゼアから紹介された武器屋に立ち寄って、頼んで置いた刀を引き取った。這う紫花蛇の卵らしきものが高価で売れたため、かなり上物の刀を手に入れることができた。下手したらアリスが使っていたものより業物かもしれない。


 ウォーレンハックの門を出るときに門番が言った。


『みな、お前たちに感謝している。達者でな』


「はい。みなさんもお元気で」


 豆粒ほどの大きさになっても、彼らはこちらを見送ってくれていた。


「いい街だったわね」


「うん。シェーラの言った通り、世界がああなったらいいね」


「ええ、そうね」


 馬上。シェーラがアリスに背をもたれ、尊大な態度で言う。


「さあ、アリスよ。王命である。余を魔王城へ送り届けるのだ」


 アリスの言葉ですっかり気分をよくしたのだろう。女王様になりきって前方を指す彼女に、アリスは口元を緩める。


「承知いたしました。女王陛下」


 もうすぐ旅が終わる。

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