第28話 それでも危機は続く
深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻したアリスは澄まし顔で言う。
「あれ? シェーラも怪我してない?」
「え?」
シェーラは肘を擦りむいていた。傷口から血が滲んでいる。
「こ、これは違うわ!」
「いや、なにが違うの? どこからどう見ても怪我だよね? 治癒液を――」
「ア、アリスだってまだ怪我をしているところがあるわ! そっちが先よ!」
「わかったよ。じゃあ、僕のを治したらシェーラの番だからね」
爽やかな笑みを浮かべ、アリスは自分の傷に治癒液をかける。腕の痛みに比べればたいしたことはなく、反応はあっさりとしたものだった。
「い、痛くないの?」
「ちょっとした怪我なら痛くなんかないよ」
アリスがシェーラの腕を取る。彼女が嫌そうに腕を強く引くので、アリスはジト目になる。
「逃げないでよ。うまくかけられないでしょ。治癒液って結構高いんだから」
「べ、別に逃げてなんてないわよ!」
言いながら腰が引けている。
「大丈夫だから。擦り傷なんて痛くないから。ね?」
優しい口調で説くと、シェーラはしおらしく頷いた。腕を引く力はなくなったものの、全身が強ばっている。目をきつく閉じて身構えているところはとても可愛らしかった。
「ぎゃああああああ」
濁った悲鳴が木霊する。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いーっ!」
「大げさだなあ」
「すっ――ごく痛いじゃない!」
ボロボロと涙を流しながらシェーラが叫ぶ。
擦り傷にかけても痛くないのはアリス基準であって、普段から痛みに慣れていないシェーラにとっては耐えがたい激痛に違いなかった。
怪我をした子供のようにべそをかくシェーラをなだめてから、アリスは未だしっかりしない足取りで這う紫花蛇に向かった。焦げた死骸の前に膝を突いて、おもむろにナイフで解体を始める。
「うぅ……なにしてるのよ」
泣き止んだものの、まだ瞳を潤ませている彼女が隣に屈み込んだ。
「中に遺体があるかなって」
聞いた途端、彼女は下唇を噛んでアリスに身を寄せた。
「あ、あったの……?」
「いや、なにもなさそうだ。植物系の魔物は飲み込んだ獲物をじっくり溶かしていくタイプが多いから、もしかしたらって思ったけど」
アリスは燃え切らなかった死骸の中から丸い物体を取り出す。薄緑色の球体は粘液に塗れていた。シェーラがあからさまに顔を顰める。
「うえぇ……気持ち悪いものを取り出さないでよ」
「卵かな?」
「今すぐ壊して!」
「まあまあ。こういうのは高く売れるんだよ」
球体をボロ布で綺麗に拭いてバックパックに入れる。
「中で孵化したらどうするのよ!」
激昂するシェーラをなだめつつ、バックパックを背負って立ち上がる。少しふらついたところをシェーラが抱きつくようにして支えてくれた。
「まだ怪我をしているの?」
「いや、血が足りてないだけ」
「治癒液で治ったはずじゃ……」
「あれは傷を塞ぐだけだよ。それ以外に効果はない。だから血は戻らないんだ」
加えて疲労も回復してはくれない。精神的な疲労については別の薬があって、それはとても高価なものだ。勇者パーティーにいた頃は国からの支援があったから買えていたが、今のアリスには高すぎた。
「悪いけど、このまま降りていいかな?」
「いいに決まっているわ。私を頼って」
シェーラは上機嫌で言うが、その表情はすぐに不安で塗り潰された。
「ねえ、アリス。もし今、魔物が襲ってきたら……」
這う紫花蛇が死んだ今、魔物の行動を邪魔する要因はない。毒ガスによる安全地帯は消え失せ、今や山全体が魔物たちの領域に戻ったのだ。いつ襲いかかってきても不思議ではない。
「そのために臭い袋があるんだよ」
「うげっ……」
げんなりした表情でシェーラが視線を逸らす。
「あ、あんなものを使ったら、アリスの体調がますます悪くなるわ!」
「魔物に食われて死ぬよりマシだと思うな」
「……わ、わかったわよ! もう!」
観念したようで、シェーラは不承不承に臭い袋を取り出した。アリスを支えている都合上、彼女は鼻を押さえることができず、アリスの身体に顔を押しつける。
「ちょ、ちょっと」
「こうしてないと無理なの!」
少女に身体の匂いを嗅がれるというのは落ち着かない。臭くないかなと不安になるが、臭いと言われたらショックなので聞けない。なにも言ってこないから大丈夫だろうと自分に言い聞かせ、アリスは周囲の警戒に徹した。
臭い袋のおかげで魔物が現れることはなく、順調に下山していく。
「結局、見つけられなかったわね」
「仕方ないよ。けど、毒ガスの原因は排除したんだ。あとはウォーレンハックの住人たちでなんとかするよ」
「そう、ね……」
時間が経つごとにセッタの父親の生存確率は下がっていく。彼女としては今回で見つけたかったのだろう。だが、アリスたちに残された時間はあとわずか。一人の命のために王都の人々の命を費やすことなんてできない。
そのことはシェーラもよくわかっているようで、割り切れない感情を顔に滲ませながらも足は止めなかった。
もうしばらくで麓に着く。そのタイミングで足音が近づいてきた。
「嘘……どうしてあの熊が近づいてくるの!?」
シェーラが臭い袋を確認しながら叫ぶ。効果はまだ切れていない。臭いに反応しないのは魔物の側に原因がある。
「僕としたことが。鼻を切り落としたせいか」
「そんな……」
目の前に現れた狂った灰色熊にアリスは舌を打った。鼻を削がれて嗅覚が死んでいるため、臭い袋で追い払うことができなかったのだ。
弱っているアリスを見て、今なら食えると思ったのだろう。隻眼の狂った灰色熊は唸り声を上げて駆け出した。
アリスはナイフを取り出して構える。瞬劫を使おうとするが、できなかった。こんなナイフ一本では狂った灰色熊を殺すのに心許ない。加えて、今のアリスは歩くだけで精一杯だ。戦闘なんて何秒持つかわからない。
勝てるビジョンは浮かばない。なら、やることは一つだ。自らの愚かさを呪いながら、恥を承知で言う。
「よく聞いてシェーラ。僕が――」
「嫌よ!」
シェーラがアリスの服を強く握った。
「どうせ自分が囮になるって言うんでしょう? 言ったはずよ。そのときは私も一緒に死ぬって」
「それじゃ、レイストリアが」
「大丈夫よ。今度は私がアリスを守るわ」
アリスを庇うようにしてシェーラが前に進み出る。
「なにやってるんだ!」
「私を信じて、アリス」
「シェーラ……」
その手は震えていた。ここで死ぬかもしれないのだ。すごく怖いはずだ。それでも彼女は立っている。決して逃げずに、アリスを守ろうと戦っている。
その背中が、かつての勇者の姿と重なる。アレックスではない。その先代。幼少期に悪魔に襲われたアリスを助けてくれた女性の勇者。
彼女に憧れて、強くなろうと思ったのだ。彼女の後を継ぎたいと。分不相応だと知っていて、それでも目指した。結果としてはアレックスが継いだ。そのことは悔しかったが、この道を選んだことに後悔はなかった。
もしも人間が負けていなかったら、次の勇者はシェーラだったのかもしれない。そんな妄想が湧き上がってきて、アリスは笑った。
死んでほしくないと、強く思う。
こんなところで自分なんて庇って死んでほしくない。彼女の命はもっと価値のあるものだ。
アリスはイメージする。ギリギリのところでシェーラを突き飛ばす。狂った灰色熊がこちらに襲いかかってきたところで、残った目をナイフで潰す。できれば耳も潰す。そうすれば狂った灰色熊はシェーラを追うことができなくなる。この身は食い散らかされるだろうが構わない。
唯一心配なのは、彼女一人で魔王城までたどり着けるかどうかだ。そればかりは祈るしかない。
狂った灰色熊との距離が縮んでいく。
三、二、一――
シェーラを突き飛ばそうとした瞬間、小さな爆発音が鳴り響いた。
接近していた狂った灰色熊が横に逸れ、地面を転がる。起き上がろうとしたところに二回。計三発の銃弾が撃ち込まれ、狂った灰色熊はようやく息絶えた。
助かったと息つく間もなく、アリスはシェーラを背に庇う。銃声のした方を警戒していると、茂みの中から男が現れた。銃を肩にかけ、両手を挙げている。
「怪我は……してないようだ。だが、そっちの少年は今にも倒れそうだ」
男の姿には既視感があった。
「もしかして、セッタさんのお父様ですか?」
「ああ、そうだが。セッタの知り合いかな?」
「はい。セッタさんのお父様が山へ行ったきり戻らないと聞いて、私たちが捜索に」
「そうだったのか。面倒をかけてすまなかったね。蛇のような植物に足止めを食らっていて帰れなかったんだ。もしや、君たちがあれを駆除してくれたのかい?」
「はい! ここにいるアリスが倒しました」
「そうか。なら君たちは私の恩人だな。街までもうすぐだ。肩を貸すよ」
好意に甘えて、アリスはセッタの父の手を借りた。
彼がこのタイミングで下山してきてくれなければ、アリスは間違いなく死んでいた。彼こそ命の恩人なのだが、アリスにはもはや喋る力すら残っていなかった。
運ばれている途中で二人の声が遠ざかっていく。抗うこと叶わず、アリスは意識を手放した。
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