第27話 痛みは特効薬
先に動いたのは這う紫花蛇だった。ムチのようにしなる幾本もの蔦がアリスを狙う。
アリスは造作もなくそのすべてを切り捨てると、振り返ることなく叫んだ。
「走って!」
「でも……」
「時間を稼ぐだけだから」
「……わかったわ」
足音が離れていく。だが、すぐに彼女は悲鳴を上げた。
地面から伸びた蔦がシェーラの身体に絡みつき、身動きを封じていた。強い力で下に引かれ、彼女は地面に這いつくばる。全身を縫いつけるように固定されているため、自力では逃げられない。
「今助け――っ!」
背後に危険を察知して咄嗟に横へ転がった。先ほどまでいた場所へ槍のごとく鋭い茎が突き刺さる。
「そう簡単には逃がしてくれないか」
シェーラを拘束したまま殺さないのはアリスを逃がさないためだろう。人質というわけだ。助けようとすれば待っていましたとばかりに攻撃が殺到する。つまり、這う紫花蛇を倒さなければ下山することはできない。
せめて攻撃系の聖法使いがいればと、アリスは歯噛みする。刀一本で戦うには敵の手数が多すぎる。かといって応援は望めない。悪魔はここまで来られないし、戦える人間はウォーレンハックにはいない。
地面から微かな振動を感じて後方へ避ける。そこから蔦がわらわらと伸び、獲物を絡め取ろうとうごめく。捕まればシェーラのように身動きを封じられてしまう。そうなれば養分になるしかない。
地上と地下の両方からの攻撃は厄介だ。さらにはシェーラのことも気にしなければならない。相手の術中に誘い込まれた形だが、アリスは焦らなかった。余裕があるわけではない。だが、焦れば状況が悪くなる一方だと知っている。だから冷静であれと己に言い聞かせるのだ。
幸い、現時点ではシェーラに危害を加えるつもりはないらしい。
「切り続ければ、いつかは尽きるかな?」
迫り来る蔦と茎の攻撃。切って避けて切って。その繰り返し。無限のように思えるそれが終わるより先にアリスの体力が切れるのは自明。不確実な希望にすがるほど楽観的ではない。
ここらで攻勢に出なければ膠着状態に陥る。仕掛けるタイミングを狙っていたアリスは、突如香った甘い匂いに眉を顰める。
「これは……っ!?」
視界がぐらりと揺らぐ。息を止めて距離を取ろうとするが、すでに遅かった。足が言うことを聞かない。神経に作用する毒なのだろう。思考がぼやけ、戦意が削がれていく。その実感さえすぐに曖昧になって消えていった。危険な状態にあるはずなのに、危機意識が致命的に欠けていく。刀が重い。手放してしまおうか。
這う紫花蛇がゆっくりと近づいてくる。アリスはそれをただ見ていることしかできない。大きな花弁が開かれ、口の奥の暗闇を覗かせても微動だにしない。
このままでは食われると思っても、次の瞬間にはその意味を理解できなくなる。死が間近に迫る。アリスにはその足音が聞こえない。
「アリス!」
シェーラの叫び声。それが聞こえた一瞬だけ、アリスは自分を取り戻すことができた。だが、すぐに意識が朦朧とし始める。だから、アリスは反射的に手を打った。
自らの左腕を切りつけたのだ。
鮮血が飛ぶ。痛みが全身を駆け巡り、毒の効果に勝った。食われる寸前のところで避けることに成功する。
シェーラの悲痛な声に自らの傷を見る。かなり深く切ってしまった。あまり長くは保ちそうにない。その代わり毒の効果はないに等しかった。
バックパックを降ろして液体の詰まった瓶を取り出す。それに刀を突き入れた。瓶の底を貫いたが気にしない。粘度の高い液体を刀身に絡ませて引き抜く。残りは瓶ごと這う紫花蛇に投げつけた。
這う紫花蛇は瓶を茎で叩き落とすも、瓶が割れ、中の液体が弾けて全身にかかった。それ自体に害はないため、這う紫花蛇にダメージはない。
「植物系の魔物だってことは、聞いた話から予想できてたからね」
そこらに落ちている石に刀の切っ先をぶつける。火花が散ると同時、刀身が炎に包まれた。液体は粘度の高い油だったのだ。
「さて、あとはお前に引火させるだけだ」
狙いに気づいたのか、這う紫花蛇は液体が付着しなかった蔦と茎で一斉攻撃を始めた。
アリスは瞬劫を使い、襲いかかるすべてを焼き切って前に進む。身体を掠める程度の攻撃はすべて無視した。微かな痛みなどもはや感じない。敵に近づくことだけを優先する。
這う紫花蛇に焦りが見えた。手数が増える。だが、その分だけ攻撃の精度が低下し、アリスに当たらない無駄な攻撃が増えた。
アリスは瞬劫の速度を一段階上げた。三倍速。アリスの足は止まらない。
もはや勝敗は決した。
懐までたどり着いたアリスは、敵の液体がかかっている部分に刀を突き刺した。瞬間、爆発するように炎が荒れ狂い、這う紫花蛇の全身が大火に包まれる。
けたたましい悲鳴を上げてそれは地面をのたうち回る。すぐに声は絶え、火の弾ける音だけが残った。
出血と瞬劫による疲労でフラフラになりながら、バックパックから取り出したナイフでシェーラに絡まったままの蔦を断つ。
「アリス、血が……」
「うん、ちょっとマズいかも」
自分で切った左腕の傷からはおびただしい量の血が流れている。このままだと出血多量で死ぬだろう。
「バックパックから治癒液を出して、傷にかけて」
小瓶を取り出したシェーラは恐る恐るといった様子で傷口に液体をかける。肉を焼いたような音が生じて、白煙が上がった。
「があああああっ」
「えっ、どうしてっ! 私、間違えたの!?」
シェーラは顔面蒼白にして今にも泣き出しそうなほどアワアワしている。そんな彼女に苦笑して、激痛に顔を歪めたアリスは切れ切れに言う。
「こういう、もの、だから――っ!」
アリスの言葉通り傷口が塞がり始めた。完全に治り切ると、アリスは疲れ切った表情で大の字に寝転がった。
「これだから治癒液は嫌いなんだ……」
治癒液は凄まじい速度で傷口を塞いでくれる。その代わり傷口を火で焼くような激痛を伴う。傷が深ければ深いほど痛みが増す。過去にはあまりの痛みにショック死した例があり、酷い傷に使う場合はリスクがある。それでもなにもせず死ぬよりはマシだろう。
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