第25話 彼女の信念は決して曲がらない
アリスとしては悪魔側に人間との融和を受け入れる者がいたことが驚きだった。これまでそんな悪魔とは会ったことがない。悪魔にとって人間など取るに足らない弱者。勇者がいない今となってはなおさらだ。
『争いはなにも生まない』
「そう、ですね……」
頷きを返したものの、シェーラはうまく飲み込めていないようだ。
それはそうだろう。この三年間虐げられ、挙げ句の果てに献上品として命を捧げる身となったのだ。人間と悪魔が共存できる可能性を見せつけられて、簡単に納得できるはずがない。
「最初からこんな風に?」
『いや、こうなるまでに三年かかった。まだぎこちなさはあるが、平和に暮らせてる』
黙り込んでしまったシェーラの手を見て、黒狼の悪魔は息をのんだ。ゆっくりと息を吐き出して少し間を置いてから、彼は口を開いた。
『そうか。君は献上品として選ばれたのか。すまない。だが、なにもしてやれない。俺たちは少数派だ。魔王様に反旗を翻すほどの力はない』
「い、いえ……。あなたたちのせいではない、ですから……」
『すまない』
黒狼の悪魔は頭を下げた。
シェーラはますます戸惑ったようで、あたふたしている。
一先ずは買い物を諦めて宿へ向かおうと口を開いたところで、慌ただしい足音が近づいてきた。
「グローゼア、どうしよう!」
息を荒らげて駆けてきたのは、人間の青年だった。
『セッタか』
黒狼の悪魔が応える。やはりこの光景には慣れなかった。
「いいや、今日も戻ってこない。もう二日経つんだ。父さんになにかあったんだよ!」
『落ち着け。捜索隊は?』
セッタは力なく首を横に振った。
「ウィース山の麓までしか探せてない。そこから先は有害なガスのせいで、人間じゃなきゃ進めないって」
『そんなガス、聞いたことがない』
「捜索隊の連中も言ってた。前はこんなガスなかったのにって。どうしよう……」
セッタは地面に膝を突き、頭を抱え込んだ。
話の展開について行けていないアリスたちに気を遣ってか、グローゼアが説明をしてくれる。
『セッタの父は薬師だ。薬草を採るためにウィース山へ行くことが許されてる。何度も行ってるから遭難したとは考えにくい。もしかすると……』
グローゼアはその先を続けなかった。セッタの前で言うのは憚られたのだろう。
「助けに行ける人はいないのですか?」
『ただでさえ外に出られる人間は限られてる。ここの運び屋はもう出発した後だ。ウィース山は魔物が出るから行ける人間がいない』
「くそっ! 父さんの薬を待ってる人たちがいるのに……」
セッタの父は死んでいる可能性が高いとアリスは考えていた。
悪魔に有害なガスには聞き覚えがある。悪魔や他の魔物を近づかせないために、そういったガスをまき散らす魔物がいるらしい。それは獲物を独り占めするためで、ガスは人間や普通の生き物には無害なのだ。
そのガスが突然発生したということは、別の場所から流れてきた魔物がウィース山に棲み着いたのだろう。セッタの父はその魔物に殺されたと考えるのが自然だ。いくら慣れているとはいえ、想定外の魔物がいれば話は別。だから彼は戻ってこない。
シェーラの視線に顔を上げる。先ほどまでの狼狽した様子はどこへやら。芯の強い眼差しがアリスを捉えて放さない。彼女が己の信念を決して曲げないことはよくわかっている。
「シェーラが望むなら」
彼女の願いはできるだけ叶える。それがこの旅のルールだ。
「ただし、危なくなったらすぐに引き返す。絶対に無理はしない。いいね?」
「もちろんよ!」
シェーラが力強く頷いて、グローゼアたちに宣言する。
「私たちが助けに行きます」
助けに、というのがなんとも彼女らしかった。この場でセッタの父の生存を信じているのはシェーラだけだろう。グローゼアは察しているし、セッタも心のどこかではそう思っているように見える。だが、実際に父が死んでいるという証拠がない限り、認めることもできないでいるのだ。
すぐに支度を済ませて出発した。
「おいひい」
グローゼアが好意で持たせてくれた干し肉を囓りながら歩くシェーラはご機嫌だ。先ほどお腹いっぱいになるまで食べたはずなのに、その食欲はどこから来ているのだろう。
「ウォーレンハックに来る途中で食べた赤ムカデに似た味だね」
「……もういらないわ」
「嘘だよ、ごめん」
シェーラはキッとこちらを睨みつけて、干し肉を大事そうに口へ入れる。
本当に味が似ていたので思わず口走ってしまった。危うく自殺するところだったと額に浮いた冷や汗を拭う。
腹ごしらえをしつつ山道を進んでいると、気配が近づいてきた。音や存在感はうなく消せているものの、溢れ出る殺気までは隠しきれていない。
「シェーラは僕の後ろに。魔物がいる」
彼女は大事そうに抱えている干し肉を手の中に隠して、すぐにアリスの背中に回った。
「これを狙ってきたのね?」
「……それはシェーラだけだよ。もっと大きな肉が二つもあるじゃないか」
「え? それって――」
茂みから影が飛びかかってきた。それはよだれを口端から垂れ流し、大きな手の太い爪を振り下ろす。
「うん、僕たちのことだよ」
アリスはシェーラを抱えて飛び退いた。
大きな身体が地面を響かせ、こちらを振り返る。
狂った灰色熊と呼ばれる大きな魔物だ。人間を好んで襲う肉食。腹が満たされているときは大人しいが、空腹の獰猛さは丈狂っている。まさに今のように。
「相当に腹を空かせてるみたいだ。目が完全に逝ってる」
「まさか、セッタのお父様も……」
「いや、一週間くらいはなにも食べてないんじゃないかな。最近やってきた魔物に縄張りを奪われて食い物に苦労してるのかもね」
「どうするのよ」
「今日は熊肉を狂ったように食べられるよ。魔物の肉は筋ばかりで硬くてマズいけどね」
「そう。なら虫よりはマシね」
魔物は魔力があるせいで肉が硬く、食糧に困ったときにしか食べない。市場ではかなり安価で取り引きされるため、魔物の肉は持ち帰らないのが普通だ。
アリスとしては虫の方が断然マシだった。
狂った灰色熊が咆哮し、真っ直ぐに突っ込んでくる。
それに呼応するようにアリスも一直線に駆けた。両者の距離が一気に詰まる。
狂った灰色熊はその剛牙でアリスを噛み砕こうと大きな口を開く。
アリスは横に飛んで避けると同時、狂った灰色熊の懐へ飛び込んだ。一閃。剛毛がハラハラと舞う。肉を断つまでには至らず、傷はかなり浅い。剛毛にかなりの魔力が込められているせいで簡単に刃が通らない。
「ここまで硬いのは初めてだ」
魔物にも魔力量の個体差がある。魔力が多ければ多いだけ、目の前の狂った灰色熊のように能力値が向上する。
剛爪による横薙ぎを後ろに飛んで避ける。すぐに次の攻撃が来て、アリスは着地と同時に地面を蹴った。この狂った灰色熊は身体能力も恐ろしく向上しているようで、素早い連撃がアリスを捉えようと繰り出される。
アリスも反撃を試みるが、硬質な剛毛を前に決定打に欠けた。
「まともに戦っても無駄みたいだ」
唐突に刀を降ろしたアリスは納刀し、棒立ちになって狂った灰色熊と対峙する。構えすら取らず、無防備な状態。端から見れば戦意喪失したように映る。
これを好機と思ったか、狂った灰色熊がぐんぐん速度を上げて向かってくる。体当たりされただけでも身体がバラバラになりそうな気迫を受けてなお、アリスは微動だにしない。頭部を噛み砕こうと狂った灰色熊が凶暴な牙をむいた。
そのタイミングに合わせてアリスは相手と同じ速度で後ろへ飛ぶ。同時、目にもとまらぬ速さで抜刀した刀を狂った灰色熊の目に突き入れた。
狂った灰色熊が地面をのたうち回る。その隙を狙って頭部へ一突き入れようとするも避けられてしまう。さらなる追撃で鼻を切り落としたものの、トドメを刺すには至らない。
狂った灰色熊は身体を翻して駆け出した。足音がどんどん遠ざかっていく。
「狂っていても死線は越えないか。さすがは野生の本性ってところかな」
「逃がして大丈夫なの?」
「うん。今は先に進むことが先決だからね」
今ので実力差がはっきりしだ。こちらが強者だと思い知らせたので、もう襲ってはこないだろう。それにシェーラを置いて追いかけるわけにもいかない。最優先すべきは彼女の命なのだから。
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