第26話 綺麗な景色には理由がある

 アリスはグローゼアが持たせてくれていた臭い袋を取り出した。


「うっ……」


 シェーラが鼻をぐっと押さえ、目尻に涙を浮かべる。


「酷い臭いだね」


「そう言う割に平気そうじゃない」


「慣れてるから」


 臭い袋は鼻が利く魔物や動物を遠ざけるのに有効だ。遭遇を避けられる代わりに、自らの鼻を犠牲にするという諸刃の剣ではあるのだが。


「口で息をした方がいいよ」


「それでも臭いわよ!」


「シェーラが持ってて」


「絶対に嫌!」


「僕は戦わないといけないから、シェーラが持つべきだと思わない? ほら、僕にだけ辛い思いをさせたくないって言ってたでしょ?」


「ぐっ……わ、わかったわよ……」


 臭い袋を摘まんだシェーラはできるだけ身体から遠ざけようと手をピンッと伸ばす。かなり強烈な臭いなのでその程度では変わらないが、気持ちの問題だろう。


 別に意地悪で持たせたわけではない。シェーラを狙われにくくすることが目的だ。前を歩くアリスが風上だから影響を受けにくいなどという理由では決してない。


 そこからは魔物に遭遇することがなくなった。付近に気配があってもすぐに遠ざかっていく。


 安全の代償はシェーラの心だ。進むにつれて彼女の表情が死んでいく。目が死んだ魚のようになった頃には、鼻を押さえていた手がダラリと垂れ下がっていた。


「だい、じょうぶ?」


「ええ……もう……慣れたわ……」


 声に覇気がない。まるで別人のようだ。


 さすがのアリスも罪悪感が胸を刺した。


「代わろうか?」


「駄目よ。私、これくらいしか役に立たないもの……」


「そんなことない! そんなことないから!」


 シェーラの手から臭い袋を引ったくる。風上にいたせいでまったく気がつかなかったが、臭い袋はすでに微臭しかせず、役立たずとなっていた。持っていても仕方がないので茂みの中へ放り捨てる。


 すると、骨を投げられた犬のようにシェーラがそちらへ走り出した。慌てて彼女の腕を取る。


「いや、もう要らないから」


「酷いわ。私のこと捨てるの?」


「違うって。ほら、行くよ」


「ああ、私の天職が……」


 戯言を呟く彼女の手を引いて強引に歩かせる。


 最初はこの世の終わりかと思わせられるほどの絶望を背負っていたシェーラだが、山に満ちる澄んだ空気に浄化され、徐々に正気へ戻っていく。


「私、なにをやっていたのかしら……」


「ごめんね、シェーラ。僕が悪かったよ」


 山道は決して険しくはない。それでもシェーラにとっては辛い道のりだった。休憩を挟みつつ進んでいく。


 しばらくして異変に気がついた。アリスたちを取り巻いていた魔物の視線が追いかけて来なくなったのだ。狂った灰色熊との戦いでこちらに対して警戒心を抱き、慎重になっていたのはわかる。だが、まるで境界線でも引かれているかのようにぱったりと追跡を止めている。


「この先には魔物の気配がまるでない」


「安全ってことね?」


「いや、むしろ逆だよ」


 動物の姿は見受けられるため、ガスを出している魔物の縄張りに入ったということだ。


「ここからはさらに気を引き締めて行こう。いつ襲ってきてもおかしくない」


 細心の注意を払いながら二人は足を進める。


 長時間の緊張状態はシェーラの精神をすり減らしていった。何事もなく過ぎていく時間こそが彼女を苦しめる。


 だが、無事に山頂にたどり着き、目の前に広がる光景にシェーラは感嘆を漏らす。


「すごいわ……」


 アリスですらも一瞬だけ敵の縄張りにいることを忘れてしまうほどの絶景がそこにはあった。一面の花畑は穢れのない白色が敷き詰められ、雲一つない青空を背にして美しさを惜しみなく放っている。風が白の花弁を攫い、まさしく花吹雪が舞った。澄んだ空気に混じって甘すぎない香りが鼻腔をくすぐる。ここが天国だと言われても信じられるような、綺麗な場所だった。


 未だ美しさに心を奪われているシェーラと異なり、アリスはすでに警戒モードを取り戻している。あの一瞬に仕掛けられていたら危なかったと肝を冷やした。幸い、周囲に異変はない。


 ここにはいないのかもしれない。誰かがいた痕跡も見当たらない。なにかしらが見つかればと思ったのだが、ここは空振りらしい。さすがに山中を当てずっぽうで探し回るわけにはいかない。危険性以前に時間が足りない。残りは一三日。あまり悠長にはしていられない日数だ。


 せめて死んだと判断できるような証拠でもあったらよかったのにと、アリスの中の冷酷な部分が囁く。それさえ持ち帰れば探索は終わりだ。


「とりあえず戻ろうか」


 踵を返すアリスだが、返事がないことに違和感を覚えて振り返る。


「シェーラ? どうし――」


 言葉を切って、アリスは駆け出した。花を踏みつけるのも厭わず花畑の中を走る。そうして中心へと向かっていたシェーラの腕を掴んだ。


「なにやってるんだよ!」


「……アリ……ス……? あれ、私、どうして……」


 虚ろだった瞳に光が戻る。周りを見回して、彼女は軽くパニックに陥っていた。


「綺麗だと思って、それで……気がついたらここに……」


「大丈夫。大丈夫だから。戻ろう」


「……ええ」


 シェーラの身体を抱き上げ、走って引き返す。


「頭がクラクラするわ」


「花の香りのせいだろうね。植物系の魔物の常套手段だ。真ん中まで行ってたらマズかった」


 正直、生きた心地がしなかった。もしも花畑全体が魔物の罠だったなら、未だ攻撃範囲内にいるということだ。一刻も早く抜け出したい。


 そんな淡い希望を砕くように、大地が大きく揺れた。


 シェーラを抱いたまま花畑の外に飛び出る。同時、すぐ後ろをなにかが突き上がってきた。それは方向を変えてアリスたちに襲いかかってくる。


 すんでのところで回避して距離と取った。シェーラを後ろに下がらせて敵を睨みつける。


「蛇?」


「蛇に似た植物だね。こいつが例の悪魔だろう」


 幹のように太い緑色の茎。その先についた紫の蕾がぱっくりと割れ、中から赤い舌を覗かせた。身体から蔦や細い茎がいくつも生えていて、触手のようにうごめいている。


 這う紫花蛇は肉食の魔物だ。毒々しい紫の花弁に生えた無数の小さな棘には麻酔効果があり、食らいつかれれば一巻の終わり。飲み込まれれば体内の消化液によってジワジワと溶かされ、養分に変えられる。

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