第11話 かつての仲間との思い出
生い茂る木々を抜け、視界が拓ける。シェーラが息をのむ音が聞こえた。
深い青の水面に、白濁した水が流れ落ちる。新緑の苔がむした焦げ茶色の岩。澄んだ空気に混じる青々とした緑の匂い。三段で構成された高さの異なる滝は、見る者に神秘的な印象を与える。
世界の残酷さを忘れさせるほどの絶景に、シェーラは釘付けだった。
「凄いわ……」
「ここの水は街のとは比べものにならないほど美味しいよ」
上段の滝の下へ移動して降ろしてやると、シェーラは透き通る水面を両手ですくい上げ、口へ運んだ。
「んっ! こんな美味しいお水、初めて……」
ぴょんと立ったアホ毛が感動を見事に表現していた。
興奮冷めやらぬ様子のシェーラ。周囲を見て回りたいと言うので、上段から下段にかけてゆっくりと歩いた。背中越しに彼女の感嘆が伝わってきて、アリスは口元を緩めた。
水際の岩にシェーラを降ろして座らせる。彼女はさっそく靴を脱いで、白く細い足を水の中へ差し入れた。
「冷たくて気持ちいいわ」
ぱしゃぱしゃと足で水面を叩く姿は年相応の少女。少しは元気が戻ったようだ。
「ねえ、アリスも一緒に入りましょうよ」
「僕はいいよ」
「いいから! 早く隣に来て!」
シェーラは有無を言わせぬ表情で自分の隣をペチペチと叩く。
行くまで永遠と待っていそうな執念を感じたので、アリスは渋々と腰を下ろした。水に足を入れると、記憶していたのよりも冷たくて驚いた。それをシェーラに笑われたので、抗議の目を向ける。
悪戯めいた笑みを浮かべていた彼女が急にしおらしくなった。
「……ありがと」
「え?」
「私を励ますために連れてきてくれたのよね」
「別に。僕が来たかっただけだよ」
「ふふふ。なら、そういうことにしておいてあげるわ」
微笑む彼女の表情に、アリスは少しだけドキリとした。それを悟られたくなくて顔を背ける。
「アリスは優しいのね」
「だから違うって。それに、大事な献上品の体調管理も仕事のうち――」
シェーラが身を乗り出してこちらを覗き込んできた。急接近した彼女の整った顔に、アリスは呻き声を上げる。顔が熱い。それを見られたくなくて腕で顔を隠した。
「あ、照れてる!」
「照れてない!」
まるで世界から切り離されたかのような穏やかな時間が過ぎていく。あのとき魔王を倒せていたなら、きっとこれが日常となっていたのだろう。
だが、それができなかった。魔王は倒せなかった。勇者は死に、人間は敗北した。それが現実だ。
かつて勇者パーティーのみんなと訪れたときには、こんな未来なんて想像すらしていなかった。無邪気にはしゃいでいた自分たちを思い出す。彼らの笑顔を見ることはもう二度とない。彼らは死んだ。
――僕が殺したようなものだ。
途端にこの場にいることに罪悪感を覚えた。幸福な日常に自分の居場所はない。いや、あってはならない。罪人が幸せを享受することなど許されるはずがない。
だから、さっさと用事を済ませてしまおうと思った。
「シェーラのせいじゃない」
「え?」
「あの子が攫われたのは、シェーラのせいじゃない。シェーラが助けに入っていなければ、あの子は殴られて死んでいたかもしれない。シェーラが受け止めなかったら、あの子は落ちて死んでいたかもしれない。シェーラは二度もあの子を助けたんだ」
できるだけゆっくりと喋る。シェーラの心にしみいるように。彼女の心から苦しみが消えるように。
「僕たちは選んだ方の結果しか知ることができない。だから、選ばなかった方のことを考えても無駄だよ。シェーラの行動で一人の女の子が助かった。それだけが唯一、揺るぎない事実だから」
時間を巻き戻すことはできない。選択肢を選び直すことはできない。未来に生かすことはできても、過去に生かすことはできない。だから生者はすべてを背負って生きていくしかないのだ。
今回は誰も死ななかった。それだけで十分だ。いつまでも気に病むことではない。
「アリス……」
シェーラの頬から涙がこぼれ落ちる。それが悲しみから来るものでないことは彼女の表情から窺い知れた。
「それにシェーラが反省すべきはそこじゃない。僕の指示を聞かなかったことを反省してほしい。迷惑だから、もう勝手に行動しないでね」
「もう! 私の感動を返して!」
ぽかぽかと叩いてくる拳を手のひらで受け止める。アリスは痛くも痒くもないが、シェーラの白い手は徐々に赤みが差していく。
「痛い……」
「すぐ暴力に走るからだよ。自業自得」
涙目で睨み上げてくるシェーラから顔を背ける。これ以上ぬるま湯につかっていたら駄目になってしまいそうだ。
「運び屋がアリスでよかったわ」
「どうだろうね」
彼女は波紋の広がる水面に視線を落とし、笑みを漏らした。
「正直言うとね、怖い人を想像していたの。だって悪魔と戦える強い人が来るって聞いていたから。絶対に逆らっちゃ駄目だってお父様から注意も受けていたわ」
「シェーラのお父さんの言うことは正しい。僕に逆らわないで」
「でも、アリスは違ったわ」
「違わないよ?」
「私の意思を尊重してくれるもの」
「いや、一度もしてないからね? シェーラが勝手に動くから、仕方なく尻拭いをしてるだけだからね?」
会話がまったく成立していない。念押ししようと口を開くが、それを遮るように彼女が立ち上がった。
「ねえ、アリス。もっと私に世界を見せて」
差しのばされた手。希望に満ちた瞳が強い輝きを放っている。
――ねえ、アリス。僕たちと一緒に世界を救おう。
記憶の奥に眠っていた、始まりの日を思い出す。あの頃は世界の過酷さなど知らなかった。無知で無垢な子供のように理想だけを抱いていた。ただ希望だけを胸に前に進んでいた。
アレックスとなら成し遂げることができるのではないかと思っていた。
こんな自分でも彼の役に立つことができるのではないかと思っていた。
だが、今は知っている。世界はそんなに甘くない。理想は遙か彼方に遠く、希望なんてどこにありはしない。あるのは悪魔によってもたらされた絶望だけだ。
それなのに。
そんな世界でも君は希望を抱くのか。
気がつけばアリスは彼女の手を取っていた。
「改めてよろしくね。私の運び屋さん」
アリスはうつむいて自嘲の笑みを浮かべた。なにかを期待している自分に反吐が出た。もうアレックスはいない。仲間もいない。この先に待つのは彼女の死だというのに。
それを覆したいと思ってしまった。
そんな力が自分にないことは百も承知。
だから今、決めたのだ。
この旅の間は、シェーラがシェーラのままでいられるようにしようと。終わりのときまで彼女の輝きを保つために戦おうと。
アリスは顔を上げる。
「うん、よろしくね。わがままなお姫様」
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