庭の夏が咲く。
五月笑良(ごがつえら)
庭の夏が咲く。
求められるなら、なんだって良かった。
仕事でもいい。相談でもいい。愚痴の捌け口でもいい。駅前のアンケートでもいい。軟派なキャッチだっていい。
私が必要なら、なんだって、誰だって良い。
たとえそれが、煙草を吸わないってことしか知らない程度の体を重ねるだけの、同性だって。
アスファルトが焼けて、向こうの景色も人間も揺らいで見え始めた頃、その女は私の家の戸口に真昼間から座り込んでいた。蝉と鈴虫とジージー鳴く虫しかいないような静かで騒がしい田舎で、耳慣れしないほど凪いだ声で「一週間だけ泊めて欲しい。」と言った。
怪しいと思った。厚かましいと思った。得体がしれなくて、関わるのも面倒だと思ったけど私は頷いた。無駄に広い土地の、無駄に部屋のある一軒家にそうしてもう一人女が増えた。
名乗りさえしなかった。
だから、私も名乗らなかった。
家にあるものは好きに使えと伝えて、煙草を吸うなら無駄に草花の生えた庭で吸ってくれと伝えたら「煙草は吸わないから。」と返された。
その夜は、女が庭に生えていたらしい胡瓜と茄子と冷蔵庫の中の物で料理を作っていた。萎びていた。野菜が生えていたなんてと少し驚いた。人の作った料理はとても久し振りで、好みに偏りがある私でもその品々は、口に合った。
女は、仏間で寝かせて欲しいと言った。私さえ合わせない、知らない人間相手に女は神妙に手を合わせて、その横顔は私より歳上に伺えた。
布団を運んだ私はじっと女を見ていた。そうしたら、女は正座のまま私に「一緒に寝て欲しい。」と言った。
私達は肌を重ねた。柔らかで、ふくよかな女の体だった。私がこの世で嫌いなものの一つだ。
自分のものではない温もりが、不思議でならなかった。
女は一週間と言った。理由は言わなかったし、聞きもしなかったし、なんなら名前だって知らない。
今日で四日目だ。
変わらない日常。ただこの家に女が一人増えただけ。私は今日も居間の障子を開け放って、縁側に座って安酒を啜る。障子にもたれれば、家の横に流れる川からそよ風が来て、前髪を揺らして去っていく。良い天気で、真夏日だ。
「よく飽きないね。」
昨日から女は庭を整えていた。枯れた花を抜き、生命力溢れる草を切り揃え、のびのびと茂る木をどこから引っ張ってきたのか庭切り鋏と脚立で枝を落としていく。こんな炎天下で、好きにしろとは言ったが、よく飽きもせず他人の庭を触るものだと。
女を縁側から風景のように眺めていたら、目と鼻の下に汗をためた女に言われた。それ、と左手の缶ビールを指さされる。
「お酒好きなの?」
「嫌い。」
「嫌いなのに飲むんだ。分かんないね。」
女は汗を拭って笑った。
もう一口呷って、目を逸らした。
酒は嫌いだ。それは確かだ。酒は、弱い人間の言い訳だ。酒は良くないものなんだ。だから、成人して飲み会なんてものに誘われたって一滴も飲まなかった。飲んでたまるかと思った。
「たしかに、分かんないね。」
私の呟きは波立つ。
蝉の声に紛れてうっすらと消失した。
次の日も女は庭にいた。心做しか、楽しげに。
夜は仏間で二人、肌を重ねる。服を脱いで、下着を脱いで、薄い敷布団の上で汗ばむ裸で抱き締め合う。ただ、それだけ。時折、女は私の頭を撫でた。そして、言うんだ。
好きだよ。って。
虫が、今日ついに花壇の出来た庭で鳴いている。ジージーと鳴いている。幼い頃から聞き慣れたもの。ふと、呟く。
「これ、なにが鳴いているんだろう。」
「これはキリギリスだよ。」
女が答える。なんてことなく、私の問いに答える。ぎゅっと私の両腕に力がこもった。女の体が私に合わせて形を変える。
彼女は、私の頭を抱き締めて、一つ撫でた。
明日、彼女はどうするのだろう。
彼女は何も言わない。彼女は何も聞かない。
私がずっと家にいる理由を。私が仏壇に手を合わせない理由を。私が嫌いな酒を毎日浴びるほど飲む理由を。私が一人でこの広い家に住む理由を。私が掃除をしない理由を、料理をしない理由を、庭の草花を見ない理由を、何も断らない理由を、何も聞かない。
今日、庭の花壇に種を撒いていた。花の種だと言った。とても綺麗な花をつけると嬉しそうに言いながら夕飯を作っている。その花を彼女は見ることはあるか、と口を衝く前に飲む量の減った酒と一緒に飲み込んだ。
今日の献立は、私の好きだった筑前煮だ。
風呂から上がると珍しく彼女は縁側にいた。
隣に座る。彼女は庭を見ている。自分が変えた庭を愛おしげに見渡していた。私は不安になる。
肩をつつく。擦り寄る。手を重ねる。声を掛ける。彼女はこちらを見ない。親のように。
「ごめんなさい。」
口を衝いた。涙が溢れた。この世で嫌いなもの二つを並べた私を見た、彼女は微笑んだ。
「何も謝らないでいい。あなたは悪くないから。
お父さんも、お母さんも、もういないからね。」
紛れてしまえないぐちゃぐちゃの嗚咽で彼女の言葉は途切れ途切れでしか聞えなくて、混じって聞こえた虫の声がはっきり聞こえて、思ったんだ。
これは、キリギリスの声なんだ。って。
起きたら、服を着た彼女と縁側で抱き合って倒れていた。早朝だと蝉の声もしない。ひんやりとした静かな朝は、とても懐かし気がした。
庭は、夏の朝霧に煙っている。
「おはよう。」
彼女がゆったりと笑んで起き上がる。のびをして、寝違えたかもと顔を顰めている。
私は柔らかで、ふくよかな彼女の体を抱き締めた。彼女も、私の柔らかい体を抱き締めた。
「ねえ、名前教えて。」
彼女は答えた。
「知らない方がいい。」
私は、初めて食い下がった。
「お願い。教えて。お願いだから。」
はっきりと自分の嗚咽が、荒い息遣いが脳に響く。彼女の服を濡らし、しゃくり上げて、しがみついていた。
優しく頭を撫でられた。
おとぎ話の母親のような撫で方だ。
「もし私があなたの生き別れた姉だと言ったら。」
「うそ。」
「もし、私がお母さんの若い頃だとしたら。」
「うそだ。」
「もし、」
私が、あなただと言ったら。
彼女は、歳上に伺える笑顔で言った。
「出来なかったこと、思う存分していい。
あなたの思う通りに生きたらいい。
仕返ししたいなら、とことん仕返ししたらいい。
でもやり切ったら、もう忘れたらいいよ。」
彼女は涙を流さずに泣いていた。
朝霧が開け放った居間に音も無く入ってくる。
あなたが好きだよ。って。
たしかに言って欲しかった言葉を。
誰かに言いたかった言葉を。
彼女は、朝霧に紛れてしまう前に残して消えた。
本当は、気が付いていたのかもしれない。私は花壇に水やりをしながら思う。
思えば、温もりを知らない人生だった。
早く自立して、家を出て、自由になりたかった。
しかし、両親はこの家を残して死んだ。
最初は、しめた、と思った。この家にいながら、今まで出来なかったこと、駄目だと言われたこと全てやってやろうと思った。
けれど、何をしても虚しいだけだった。
何も得られない、残らないばかりか、常に死んだ人間を思い出して眠れない日々を過ごした。
彼女は、私の出来ないことを全てやっていた。
彼女にどこにも行かないで欲しいと願った。
彼女に、私を愛していて欲しかった。
アルミ缶に汲んだ水が空になる。
明日ホームセンターにじょうろを買いに行こう。
彼女がこの花を見るのもきっとそう遠くはないだろう、と二○二○年の私は家の戸外に出た。
庭の夏が咲く。 五月笑良(ごがつえら) @nakanishiera69
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます