第11話 寄り添う

 気が付いた時、そこは茜色の薄明かりが射す、見覚えのある部屋のベッドの上だった。ぼんやりと目を開けて首を動かしたとき、視界に飛び込んできたのは心配そうな顔をした可愛い妹である。

「イグジィ…?起きたの?」

「…フロール?私、…ここは私達の部屋?なんで…?」

「…怪我の治療が終わったから、医務室ではなくてここでゆっくり休むようにって」

「そう…今、何時なのかしら」

「17時よ」

「ありがとう…思ったより時間がたってるのね…」

 そう一人ごちるように言って、イグジスタは腕を動かそうとした。少し痺れているような感覚があるが、思い切って持ち上げれば痛みと呼べるようなものはない。指を伸ばし、握る。それを繰り返して、まったく動作に支障がないことを確認する。

(あ~…凄い。マジで痛くて死ぬかと思ったけど、治ってら)

 ほっとしてイグジスタは腕を下ろし、胸を撫でおろした。それを黙ってみていたフロールも、少し安心したように嘆息して微笑み、水差しからコップに一杯の水を注いで差し出してくれる。妹のこういうところは、あまり貴族らしくない。元々、「時霆塔」でピピから教育を受けた時に、妹と二人して「自分のことは、自分でやる」というのを叩き込まれているのだ。そういう意味でもピピは『師匠』と呼べる相手である。

 イグジスタは体をゆっくり起こし、慎重に両手でコップを受けとると、一気に水を飲み干した。水は良く冷やされており、清涼な香りと喉ごしで渇きが癒される。柑橘に似た香りが鼻を擽り、すっと抜けていくのを感じた。恐らく、バーベナだろう。イグジスタが昔、これが好きだと言ったことがあるのを覚えていてくれたんだろう。わざわざ選んで用意してくれた妹の心遣いがありがたかった。

(レモンとかのフレーバーウォーター…好きじゃない人もいるだろうが、俺は結構好きだったんよね)

 ちなみに、フロールには侍女と侍従がついているが、イグジスタに御付きはいない。学園の規則として一人につき二人まで侍女や侍従を連れてきてもよく、貴族用の寮には従者用の施設も整っている。大体の貴族達は規則通り二人のお付きがついているが、「水晶御子」は基本的に「清貧」を良しとするため、そのような贅沢はしないのが通例だ。

 空になったコップを枕元の棚に置いて、腕を動かしがてら、ベッドの西側にある窓を閉ざしているカーテンを引く。

 フロールの言う通り、夕焼けに暮れた太陽が地平線に腰を下ろそうという空があった。眩しさに目を細め、少しほっとしながら、

「良かった…手が動くわ。あんなやり方しちゃったから、しばらく動かないかと思ったけど…。この国の医療錬金術って本当に素晴らしいわ。

 ところで、私、ドラゴンから落ちたと思うんだけど、誰か助けてくれたのかしら?」

「もうっ!イグジィったら!

 すぐそばには殿下しかいなかったんだから、殿下に決まってるじゃない!」

 実に能天気な調子で訊ねるイグジスタに、心配を通り越してご立腹状態のフロールが殆ど泣きそうな顔で叱り飛ばした。

(あ、そっか)

「それはそうよね。ごめんなさい、寝ぼけちゃって」

「もうっ!そうじゃないでしょ?!」

「えっ?!」

 暢気にヘラヘラとした笑いを溢すと、突然思いもよらないお叱りが被弾した。イグジスタがびっくりとした顔で見上げれば、瞳に泪を浮かべた妹の顔が視界いっぱいに広がる。

(おおっとぉ?!俺なんらかやらかした?!)

 姉が焦って何か応えようとするより早く、重力に従って彼女の全身を圧迫するものが情け容赦なく覆い被さった。

(ぐはっ!!重っ!)

 身長174cmの、鍛えられて引き締まった筋肉をもつ体重○○のKgのボディプレスである。当然だがそれなりの威力だ。

(んほぉ…フロールちゃん、ギブギブ!!ぐっぬ!くるし…)

 可愛くて仕方ない妹であるが、こうなっては一溜りもない。両手を挙げて降参だ。何とか抜けだそうと両手足をじたばたさせた時、ノックの音が高々と部屋に響いた。

 こちらが誰何や許可を発するより早く、

「入るぞ」

 という声と共に、無遠慮に扉が開き男が入室してくる。

「あっ、レオ!せめていいと言われてから扉を…」

 叱責を含んだ声音が聞こえてくるが、その言葉を言い切る前に、部屋の中の惨状(犠牲者一人のみ)を理解したらしい彼らは目を見張って固まった。

 それは胸部圧迫による息の苦しさから、ベッドの上で頬を赤らめ浅く呼吸を繰り返す白髪の少女と、その上に覆い被さっている美貌の少女が、輝く紅蓮の髪の隙間から涙痕の光る瞳で、気怠げに視線を少年達に向ける光景である。

「えっと…お邪魔しちゃいましたか?」

(おいアホ!何を言っとるんだ何を!うそですごめんなさいはやくタスケテくださいアニキヘルプ!ヘールプ!!)

 心底困ったという顔をした少年達の一人、エリタージュが、何故か顔を紅梅色にして尋ねるのに思わず文句を飛ばしたイグジスタだったが、当然相手には届かない。

「殿下…どうしてここへ?」

 全体重をイグジスタにかけていたフロールが、質問を口にしながら物憂げにのっそりと体を起こした。大急ぎで空気を肺に送り込み、

(はぁ~!空気うめぇ~!)

 と、歓喜に震えているイグジスタを尻目に、やや困っている黒髪の少年と涙を拭った紅髪の少女が相対する。

「い、いや私はなにも二人の仲を邪魔しに来たわけでは…」

「殿下…何をおっしゃってるんですか?」

 妙に慌てているエリタージュを胡乱な目付きで見遣って、フロールが不機嫌そうに応じると、何故か驚いていたエリタージュもはたと冷静になったのか、軽く咳払いをして、

「突然伺って申し訳ございません。お許し下さい」

 そう非礼を詫びた。西日のせいか、少年はやや赤らんだ頬をしている。そして普段から意志の強い鮮紅色の瞳が、群青色の重怠げな瞳と交差した。

 しかし紅い瞳は、問い掛ける蒼い瞳には応えず、酸素に喜ぶ寝台上の少女に移った。

「イグジスタさんの様子を知りたくて来たのです…お加減はいかがですか?」

「…おかげさまで、健康そのものですわ」

 空気をすっかり吸いきって平静を取り戻したイグジスタは、

(フロールちゃんとのあれこれに突っ込まれたくないな~)

 などと思いながら、口角の端を無理矢理持ち上げた不自然な微笑を作る。

 それを悲しげな表情で見咎めると、エリタージュは守護神のように立つフロールの壁の横をすり抜けた。イグジスタが半身を起こした寝台の側にやって来ると、膝をついて目線を少女に合わせる。驚く少女を気遣うような優しげな表情で視線を投げかける、紫の滲む濃紅の瞳は、イグジスタに対する労りの中にも、憂いの色が濃く揺らいでいた。

(あれれ?兄貴なんかショックを受けているような…)

 彼の様子が気になり、小首を傾げて顔を覗きこむ。形のよい唇が微かに溜め息を溢す姿すら、絵になる少年が僅かな時間逡巡し、ようやくイグジスタと視線を交わして声を上げた。

「…怪我が治って、良かった」

 ホッとしたと、雄弁に語る瞳が笑う。目の端に、小皺が出来るようなふにゃっとした笑顔だ。

 その優しい労り言葉をありがたくウンウン、と聞いていたイグジスタの前で、ふ、と彼の唇から吐息が落ちる。

「…それから、本当に申し訳ない」

(あん?)

 開いた傷が乾いた瘡蓋のように赤黒い瞳が、少し細めた伏せた瞼の底で細波を打っている。

「殿下、どうして謝るのですか?」

 少女の天穹に似た空色の瞳に、剣気が宿った。思わず、むすりと目を細めて呆れた顔をする。

(つか、なんで落ち込むよ?)

 イグジスタにしてみれば不可解な事態だ。見つめた少年の顔がどんよりと曇っているとなれば、なおのことである。

「それは…」

 エリタージュは言い淀む。何か、相応しい言葉を探している、そうハッキリと分かるが、イグジスタはエスパーではないので、何を言いたいかまではわからなかった。

「あんな大怪我をさせてしまって…一歩間違えば命を落とすところだった」

「へぁ?」

「貴女を!私は…」

 ようやく口を開いて発せられた言葉の意味が意味がわからず、イグジスタは口をぽかんと開いた間抜けな顔を晒してしまう。

 その能面顔を非難と受け取ったのか、エリタージュがさらに言い募ろうとしたので、少女は怪我が治った腕を振り上げ少年に向かって突き出した。制止を促すその動作に、エリタージュがようやく口を噤むと、イグジスタはずきずきと痛むこめかみと、奇妙な罪悪感をおさえて口を開く。

(んおー…少年、なんかこっちこそすまねぇ…)

「殿下、私の命は『私』の命です」

 決然として、少女は宣言した。戸惑う少年に顔を向け、更に続ける。

「私が決断しました。あの時、ああしたのは、私の戦術で、殿下が私に怪我をさせたわけではありません。

 だから、貴方が責任を感じることは一つもありません」

 ふん、と、鼻息荒く、いかにも気位が高そうにいい放つ。

「だけど、僕はその…」

「殿下がどう思おうと、全て済んだことです」

「…」

 突き放すことで、気にするなと言いたかったのだが…思いは正しく伝わらず。少年はいよいよ言葉に詰まり、悲痛に顔を歪ませる。

(ダラッシエエエッ!!辛気くさいな~っもー。こういうの、苦手なんだよぉ~…)

 イグジスタは脳内で頭を掻き毟るものの、『少女に怪我をさせた』という事実は、どうしようもなく彼の心に傷となっているのだ。

(ウーン、いくら大人っぽいっても、兄貴はまだ14歳…言ってみれば中学二年生だぜ?

 その年齢で、『人を殺しかけた』っつったらよ~、やっぱショックだよな。

 ほれ、その年頃の俺とか…いや、止めよう…黒歴史ノートに刻まれた主人公の技名が、カッコいいからという理由でドイツ語だったりしたことは…思い出したくないことだ…)

 イグジスタは、色々と連鎖して思い出される様々なことを封印しつつ、エリタージュの手を、怪我が治ったばかりの腕を伸ばして掴む。

(申し訳ないことをした。ここは、おっさんがしっかりすべきだな)

 そう決意して、イグジスタはエリタージュの手を引き寄せてみせた。驚く少年の掌に、自分の指を差しこみ、しっかりと握る。緊張して握りしめていたのであろう彼の掌は、じんわりと汗が滲んでいた。夕日が落ちる湖に似て揺れる紅の瞳を、嵐が雲をすべて消した空色の瞳で、ぐっと力強くのぞき込み、

「殿下…」

 ぐっと体を起こしてベッドから乗り出して、顔を可能な限り近づけた。少年の驚愕が、少女の眼球に映し出される。距離の接近と同時に朱が差し込んでくる彼の頬にお構いなしに、詰め寄ったまま、イグジスタは口を開いた。

「私を、『許してください』」

 それだけを言う。沈黙が生まれ、二人の眼光がチカチカと明滅した。

「…なぜ、貴女が謝るのですか?」

 戸惑うように、静かに発せられたエリタージュの言葉に、イグジスタも静かに答える。

「すべては私の短慮軽率によるもの。すべては私の責任なのです。

 実力的に勝つのは難しいのは承知でした。だから、捨て身で一撃当てようとしたんです。戦ったのです。

 …私、殿下に勝ちたかったので」

(そう、俺はあんたに勝って周りの連中実力を証明したかったんだよ。実力差はわかってたんだけどね。なめとんなや、ワレ!ってね。

 まぁ、結果は「勇気は蛮勇とは異なる」という言葉を再現してみせたわけだけど...もちろん、蛮勇の方で、ですけど)

「だから、殿下の謝罪は受け入れられません。

 謝るべきは、私なので」

 凪ぎのように穏やかで、マグマを秘めた湖のように滾っている蒼い目が、僅かに狼狽える紅い目と、ひた、と見つめ合う。

「はは、あはは…」

 ようやく、エリタージュが呼吸を吐き出した。それは掠れいて、それでいて、どこか安心したような、困ったような笑い声として転げ落ちていく。

「参ったな…」

 小首を傾げながら、少年は少し顔を幼げに解き、あどけなさの残る笑みを浮かべて見せた。右手で頬を撫でる仕草は、猫のように気持ちを落ち着かせるためだろう。

「そんなに謝られるなんて、思ってなかったよ」

「申し訳ございません。生意気なことを言ってしまって…でも、分かって、…いえ、少なくとも私はそういう人間だと、知っていただけたら幸いです」

 彼からしたら本当に理解不能な事だろうに、彼はころころと笑って受け入れるのだ。

「うん。…貴女がそうおっしゃるなら、もう何も言いません。それでいいのでしょうか?」

「はい。そうしていただけると嬉しいです。

 …ありがとうございます」

(すまんな。本当にすまん。超身勝手だけど、兄貴に謝ってほしくも、責任感じてほしくもないんだよ)

 いたって自分勝手な理由で、少女は彼の謝罪を受け付けずに我を通す。それに、少年は柔らかく微笑んで、受け止めている。

 窓の外で穏やかに西日は落ち、夜が穏やかに始まろうとしていた。木々の間を渡る風も、優しげに木の葉を揺らし、森閑とした部屋に柔らかな音色を落とす。

「…イグジスタ・パンデュール」

 誰かの声が響いた。名を呼ばれた本人が、音の発生源を求めて首を動かすと、側に居たエリタージュが、そっと離れて少女の視界を広げてくれる。

「あれ、居たんですか?」

「…さっき部屋に入って来ただろう」

 思わずすっとんきょうな声で応えたイグジスタに、ドアの近くに立ったままで、憮然とした表情のレオが返した。

(そーいや、こいつ、前につっかかってきてたよな…。

 おうおう、あんちゃん、まだ俺になんか用かよ)

 内心、ごろつきのようなことを言っているが、表情は平静を保ったままのイグジスタに、強い警戒の色を見てとったのだろうか。レオはその、ムスっとした強面にほんの少し、居心地の悪そうな気配を纏わせると、巨躯に似合わぬほど静かにベッドの側に歩み寄った。

 物言わぬまま見下ろしてくる青年の視線に対して、少女も逸らすことなく視線を合わせる。

(うほっ。圧迫面接かな?闘気っちゅうか、迫力っちゅうか…迫ってくるんだよね。おっかねぇよ~)

 怖じ気づきそうな居心地の悪さを感じながらも、イグジスタが無言のまま瞳を見つめ続けると、すっと息を吸い込んで、その金色の目を細めた青年が、微かに頭を垂れて口を開いた。

「…先日はすまなかった。君の戦士としての素養を疑うようなことを言った。

 …謝罪する」

「…ぇ?」

 少女は瞠目して、言葉を亡くした。わずかに開いたままの唇から、驚嘆の形にならない気の抜けた音が掠れて吐き出されてしまう。

 レオは少し閥の悪そうに目線を外し、

「…だが、勇猛と蛮勇を履き違えるな。冷静な判断は『水晶戦士』にとって、最も必要な能力の一つだ」

 そう言いきると、ほんの少し上気した頬を隠すように、レオは「失礼する」の言葉と共に踵を返してベッドを離れ、足早に退室してしまった。

(おいおいおい、なんだよこれ!?

 デレか?デレなのか?これがムキデレなのか?)

 遠ざかる足音を聞きながら笑いが込み上げてくるが、笑っていいか分からずに、奇妙な形に変化した唇をひくつかせてしまうイグジスタに、呆れたような、それでいて案ずるような柔和な表情で、宥めるようにユーゴが声をかけてくる。

「申し訳ありません。あれでも、彼なりに貴方を気にかけてるんですよ」

「はぁ、そうですか…わかりました。なんとなく」

「それなら良かった」

 気もそぞろに返答をする。炭酸が抜けたジュースのように、甘く呆けた空気をかみしめ、イグジスタは大きく息を吐き出した。

(まぁ、いろいろすったもんだあったがよぉ、うまいことまとまってえがったえがった)

 胸のうちで破顔一笑しながら、イグジスタは満足感を味わう。陽が緩やかに落ちて、部屋には心地よい温もりが満ちている。

 明日からはようやく穏やかに過ごせるだろうという仄かな期待が、少女の心を軽やかなものに変え、夜は更けていった。

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