第9話 輝く水晶の水辺
「ええと…どこに向かっているのですか?」
「ヴェール・マラン湖ですよ」
先導して歩くエリタージュが挙げたのは、モンクリスタの北側にある半月型の湖だ。
(ん?王国最大の湖に何の用だ?
今の時期に行っても泳げないんじゃなないか?氷が溶けたばっかで、しかも雪解け水が流れ込んでくるから、水温めっちゃ低いらしいじゃん。水に浸かると凍える~)
あの廊下での出来事の後、エリタージュに、「もしよければ…一緒に来てほしい」と、慎ましげに誘われて辿り着いたのは、小型高速飛行挺乗り場である。
基本的に学生の学園への出入りは自由だ。校則で門限はあるものの、外出の手続きをすれば理由は特別問われない。
彼は手早く手続きを済ませると、侍従に用意させたバスケットボックスをイグジスタに持たせて飛行挺に連れ込んだ。
どうやら一人乗りの飛行挺らしいが、身長体重ともに、ミニマムなイグジスタは座席の後ろにあるちょっとした場所に問題なく収まった。
因みに、この飛行挺自体は学園の備品ではなく、殿下の私物らしい。
(職権濫用?…いや、職権て。なんやねん。別に王子がなに持っててもかまわないよな。
…というか、これ…)
「…エリタージュ様…」
柔らかいクッションが敷かれている座席の後ろの空間に、小さな体をすっぽり収め、バスケットボックスを抱えたまま、機内を見渡して気がついたことを尋ねる。
「何かな?」
「この飛行挺…『自作』…ですか?」
「あれ、分かるんですか?」
言外に肯定を含んだエリタージュの回答に、イグジスタは思わず顔をひきつらせながら、
「ええ…飛行挺は『華庭園』の製品がほとんどのはずですけど、機体に入っているはずの紋章が見当たりませんでしたから…」
「あはは、流石はパンデュール家の方だ。鋭いなぁ」
「ええ…それはまぁ…言ってしまえばうちの…製品ですから」
(説明しよう!
前に水晶錬金術の開発機関が『時霆塔』だって話をしたけど、それを実用化するために安全確認する管理機関に『天秤館』というものがあり、加えて、開発した水晶錬金術から実用的な商品の製造・販売を行う商業組織『華庭園』があるんです!
そして、この三つを統括するのが何を隠そう、パンデュール家なんですよ!
なんで領地は狭いけど、パンデュール家が辺境伯として重要な地位についているのも、この三つの機関の管理を担っているからなんです!
実際は国と共同経営だから7割は国に納めないといけないらしいけどね!
独禁法!?知らない子ですね)
少女が驚きをもって脳内で捲し立てていると、操縦席で手際よく離陸準備をととのえていた王子が照れくさそうに振り向いて、頬を掻いた。
「私は『飛行』に関する水晶錬金術が専門なんです。だからこれは研究の一環ですね」
「…素晴らしい飛行挺ですわ」
(ひええ~っ!流石はこの国を背負って立つことになる男!!
この歳でこのレベルのものを作るか!スケールがでけぇよ!
これってさ、『自動車作りました、鉄を溶かすところから』ってレベルなんだよ!T●KI●かぁ?正直ドン引きのレベルの高さだよ!
だいたい飛行挺とかって壊れるとあぶねぇもんだから、ほとんどが『華庭園』製品なんよ。『自作』する錬金術師、多くない!)
水晶錬金術を少しでも齧っていれば、この『実用レベルで人を乗せて動ける飛行挺』を自作出来るということが、どれだけ高い技術を持っているか分かろうというものだ。
イグジスタは些か自分が小さく感じた。実際サイズが小さいという事実は取り敢えずおいておく。
そうこうしているうちに、離陸準備が整ったようだ。
「イグジスタさん、飛びますから。ゆっくり動きますけど、揺れるかもしれないのでそこの取手に掴まっていてください」
「え、ええ」
その言葉に従い、バスケットを膝の上に置いて、座席についた取手のような部分を掴む。
エレベーターのようにゆっくりとした浮遊感に包まれると、窓の外の景色が空に近づいて走り始めた。
加速が終わり、速度が安定したところで、
「もう手を離しても大丈夫ですよ」
と声がかかり、イグジスタは大人しくそれに従った。前を覗き込めば、午後の明るい青空が光り、流れる白い雲が飛んで流れていく。
「ところで、殿下…どうして ヴェール・マラン湖に行くんですの?」
ショック状態から、命の恩人とも言うべき人に連れられて、何も考えずついてきたが、結局、何をしに行くかは謎の状態だ。
「ふふ、イグジスタさんはヴェール・マランは行ったことありますか?」
「いえ…ありませんけど」
「じゃあ、きっと行ったら分かりますよ」
(いやあの、質問に質問でかえさないで、答えて欲しいんだが…)
多少不服をおぼえつつも、これから特に用事はないし、なんとなく学園で過ごす気分でもないので、結局、
(ま、いっか)
という能天気思考に収まった。そうこうしているうちに、飛行挺がゆっくりと速度を落として下降を始め、少し開けた大地に降り立つ。
座席にいた彼が扉を開いて外に出る。イグジスタは体を起こし、後ろから抜け出して、持っていたバスケットを外にいるエリタージュに渡した。
「さ、掴まってください」
優しい掛声とともに、下から差し伸ばされたバスケットを持たない方の手にちょっと迷ったが、
(ここはせっかくの好意を無下にすべきではないか)
と、考えを改め、大人しく彼の手に自分の手を置いて、支えてもらいながら降りる。
そこは、例えるなら、天国のような光の森だった。
驚くほど高く伸びた木々は、新緑の生命力に満ち、降り注ぐ光線はペリトッドの輝きを持って、大地に絵画を描く。
隙間から覗く、午後に広がる空の蒼さは眩しく、流れていく白い雲が、ひんやりと影をおとして風の中を進んでいた。
「さっ、こっちに」
物珍しさに視線を捕らわれ、小鳥の鳴き声に耳を傾けながら、一度繋いだ手を離されることなく、ゆっくり誘われるまま小道を行む。
そして二人が、木立を抜けて開いた空間で見たものは、眩い光とどこまでも広がる美しい青を湛えた水面だ。そして、優大な山、モンクリスタが何の悪意も感じさせず、そこにただ佇んでいる。
イグジスタが感嘆に息を飲むと、隣から、ほんのすこし嬉しげな微笑みの吐息が聞こえた。
「…どうですか?良い所でしょう」
「ええ、とても…」
少女は応えて首を上げる。見上げたその先、そこには、見たことのないほど慈愛に満ちた優しい瞳で、イグジスタを見つめている人間がいた。
親が子供を見るような、暖かい微笑みは、普段なら羞恥心に駆られそうなほどだ。しかし、なぜかその時、イグジスタは不思議なほど、穏やかに彼の瞳を見て、そしてもう一度、湖に意識を向ける。
水面は悠然と揺蕩い、銀の光線で複雑な輝きを増ながら、何処までも青く清らかにそこにある。気がつけば、繋がれた手は、そっと解放されていた。
(殿下…俺の気分転換に連れてきてくれたんかいな…。
あんた、若いのによう気を使ってくれるなぁ…。気を使えなさすぎて人を不快にさせるマンの俺とは凄い違いだ…兄貴、いや、師匠と呼ばせてくだせぇ…)
涙が零れそうになる。おそらく、ただショックを受けているイグジスタを気遣ってくれたのは想像に難くない。思わぬ優しさに心を打たれて、少しだけ顔を逸らして目尻を引っ張って、大きく息を吸った。
「そうだ、イグジスタさん、こっちに」
少年は手招きして、水辺の道を歩いていく。慌ててついていくと、小さな小屋と手漕ぎのボートが着けられた舟着場があった。
歩いた道がそうであったように、小屋もボートも丁寧に整備されているのだろう。使い込まれている様子だが、朽ちた印象はない。
「イグジスタさんは船酔いになりやすい?」
「え?いいえ…平気、ですわ」
「じゃあ、乗ってみませんか?」
ボートを指差しながら笑う少年に、首肯で返すと、彼はバスケットをイグジスタに渡し、慣れた様子でさっと、ポールとボートを繋いでいる紐を引き寄せ、ボートを足を使って湖岸に固定し、揺れにくいようにした。
そして、飛行挺から降りる時と同じように、手を差し出して、
「はい、どうぞ」
と、呼び掛けてくる。なので今度は悩まずに手を取り、ぽんと乗った。
「少し固いけど、どうぞそこに掛けて下さい」
僅かに揺れる舟の上で、そう教えてくれるエリタージュの声に従い、板の上に腰を落として、膝の上にバスケットを置いて大人しく周りを眺める。
周囲にエリタージュとイグジスタ以外の人の気配はなく、蒼い空と水面の狭間を白い鳥が舞い、涼やかな風がどこまでも遠く、森や湖を渡っていく…そんな、静かな時間だ。
頂点から嫋やかに下りつつある陽の光の中で、どこまでも果てなくつづく細波の水面は、いっそ非現実的で…何もかも忘れさせてくれる。
側にいるエリタージュがボートを繋ぎ止めていたロープから舟を解き放ち、オール使って湖に漕ぎ出した。静黙の中に、波を立てる水音が響き、景色が動き始める。オールの軋む音、鳥の囀り、波音…全てが清らかな音色となって、歌った。
「イグジスタさん、あちらで少し休みましょうか?」
エリタージュが示したのは、湖にぽつんと浮かぶ白い岩でできた岩場で、氷山のように突き出た岩や、テーブルのように平たい岩がいくつか並んでいる。
エリタージュは事も無げに舟を岩場に付け、ロープを突き出た岩に括り付けると、何の迷いもなく、平らな岩に飛び乗った。
「あのっ、このバスケットはどうしたらいいのでしょう?」
「それはこっちに下さい」
そういうので、イグジスタはエリタージュにバスケットを渡す。荷物を受け取った彼は、さっと足元に下ろして、舟に乗るときと同じように、
「さぁ、どうぞ」
そう腕を伸ばしてくれた。
(いやぁ…俺ってば、すっかり慣らされておるなぁ)
僅な反発心はあるものの、丁度困っている所を助けてもらった恩がある。素直に言うことを聞いて手を取り、イグジスタは岩場に飛び乗った。
「イグジスタさん、どうぞ。こちらに」
「…ありがとうございます」
いつの間に用意したのだろう、少女がぼんやりと夢のような心地で景色に心を奪われている時に、彼はバスケットからベンチシートを取り出し、下にひいてはくれている。
そして、そこに腰を下ろして、今度は空いたスペースに座るように、ポンポンと叩いて促してくる。ここまでくるも抵抗する理由も特にないので、迷いなく、すとんと座った。
すると少年はバスケットから水筒とコップを取り出し、中身を注ぐ。そしてそれを迷いなくイグジスタに勧めてくれた。感謝してそのまま受け取り口をつけると、自分の喉が意外に乾いていたという事実に気がついた。
(うわ、水うめーっ!それにしても用意周到やな…至れり尽くせりとは。
ここまでくると、最早神様か…と言いたくなるぜ。ありがたや~、俺の中で殿下の好感度ストップ高だよ~。君になら妹を任せられる的な~)
それからは、持ってきたサンドイッチを二人で分け合い、他愛も無い話をする。
「とってもいい所ですわね…静かで」
「うん、いい場所でしょう?私も気に入ってるんです」
嬉しげに笑う少年の姿は子供のようで、裏表がなく、自然で、この澄んだ空気と同じだけ幸福感のある光景だ。
(それにしても…)
イグジスタは相手の顔を見て、先ほどから疑問に思っていたことを口にする。
「殿下…ここにはよくこられるのですか?」
「ええ、時々は」
「護衛もなしに?お一人だけでですの?」
(しらっと着いて来ちゃったけど、すんごい疑問だったんだよね。
いや、フツーに考えて第一王位継承者だし…ちょい自由人過ぎねぇか?この人)
きょとんとした顔で質問を聞き終わったエリタージュは、少しばつが悪そうな顔をして、
「ここは、なんていうか…私にとっては庭のような場所ですから」
(でけー庭だなオイ)
思わず脳内で突っ込んでから、イグジスタは質問を続けた。
「王家の…敷地ですの?」
「ええ、そうです」
「…妙なことを聞いてしまいましたわ。ごめんなさい、田舎者なもので…」
「あはは、そんなことありませんよ。
イグジスタさんはこれまでサンクシオン教会で過ごしてこられたのでしょう?
南のサンクシオン教会はいままで行ったことがないのですが、どのようなところですか?」
「そうですわね…いろいろと素朴で…静かな所ですわ。私にとっては『時霆塔』の方が面白いかったことは確かですけど」
「なるほど…いいな、『時霆塔』で研究かぁ…水晶錬金術師なら誰でも憧れますよね。
…父と一緒に視察で一部は見せていただいたことがありますけど…」
「殿下に憧れていただけるほど、素敵なところでもありませんわよ?
基本的に変人と奇人の巣窟でしたもの…」
「ははは。そっか、イグジスタさんは、その…ルー博士と一緒に研究をされていたんですよね?」
「ええ。一緒に研究というより、私がルー博士にいろいろ教わっていたというのが、正確なところですわ」
「へぇ、それで今持っている珍しい武器はその時に?」
「そうですわね、私のアイディアを形にして貰ったのです」
「どんな仕組みなんです?」
「…教えませんわよ?まだ『水晶盤闘技式』の『対戦』が終わってませんもの」
「あはは、やだな。私達が対戦するかは分からないですし、別にイグジスタさんの研究成果を盗もうってわけでないんですよ?」
「そうでしょうね。
…『対戦』が終わったら、また教えますわ」
「良かった!」
「その時は、殿下の飛行艇についても教えて下さいませ」
「はい、喜んで!」
興味津々といった顔で、少年は少女の顔をのぞきこんでくる。そして、学園に居た時とは違う、きらきらとした瞳で無邪気に笑った。
(元気だな~この人)
うきうきとした笑顔でいる少年の姿は、自分の学生の時を思い出す。遥か過去の記憶だが。
(もちろん、自分はそんなきらきらした時間を生きたわけじゃないけど、周りにはそんな奴も沢山いたなぁ。
羨ましいといえば羨ましかったけど、自分はそんなキャラでもなかったし…
でもまぁ…)
くるくると表情を変える少年の瞳を見つめてみる。醜い人の中身を見るようで、眼を見るのは好きではない行為なのだが…今はいい気がした。
エリタージュの瞳は澄んでいる。柔らかく、赤いベロア生地のように滑らかで、見ているこっちが恥ずかしくなりそうだ。
(今日は、不幸そうな人を見るより、楽しそうな人間を見るほうが気分がいいや)
少女は、そうぼんやりと考え、また空を見上げる。高々と上がった日は清々しく、しかし、ゆっくりと降りていく。風がそよそよと湖面を撫で、静かにイグジスタの頬を擽った。それを感じながらイグジスタは瞳を閉じ…目を開けると、世界は一変していた。
「はっ?」
体が幽かにゆらゆらと揺れている。自分で勝手に自分の体を振動させているわけもなく、どうやら揺れる乗り物に乗っているのだ。
開いた目に飛び込む世界は薄暗く、ひんやりとした空気が肌に触れる。
自分が乗り物に横たわっていると、理解してゆっくりと体を横から起こすと、体が冷えないように掛けられていた毛布がするすると落ちていった。丁度、昼寝から起きたときのダルさが、ずしりと砂袋のようにのし掛かってくるので、頭を振って目を擦り、眠気を覚まそうとする。
乗り物は間違いなく乗ってきた舟だ。いつの間にか船底に敷かれた、暖かい毛布の上に寝かされていたらしい。そしてこれまた、いつの間にか取り出されたクッションに背中を預けていた少年が、読んでいた本から顔を上げて声をかけてくる。
「あっ、起きられましたか?」
ぐるりと辺りを見回せば、空は夕焼けの彩に染まっていた。散り散りに空を覆う雲も、オレンジから赤、ピンク、紫、薄い青…色とりどりに清く柔らかに輝き、湖面に反射して、世界を包み込んでいる。
「はい、どうぞ」
「…ぁりぃがとう」
随分、長い時間眠っていたのだろうか?掠れるほど喉が乾いている。エリタージュがタイミングを見計らって、またコップに注いだ水を渡してくれるのを受け取り、一気に飲み干した。
「こほん、…殿下、私、いったいどのくらい寝ていましたの」
「…何時間だろ?えっと…二時間くらいかな」
「それは随分と…ご迷惑おかけして申し訳ございません。
…殿下も起こして下されば良かったのに」
「ふふ、ごめんなさい。
気持ち良さそうだったから、つい」
懐から時計取り出した少年が、時間を確認して告げた無慈悲な宣告に、
(ほ、ほげぇ~なんつうご迷惑を!
そりゃそうだなぁ!?こんだけ日が落ちてるんだもんなぁ?!時間結構たってよなぁ?!)
そう、頭を抱えたくなる。そんなイグジスタの気持ちを知らずにいるのか、幼児向け番組のうたのお兄さんくらいニコニコ笑顔の少年は、空になったコップをイグジスタから返してもらうと、
「楽しかったですか?」
そう、揺れる夕陽を受けて、きらきら光る少年の夕陽色の瞳煌めきを増した。それは、サンストーンで創られた細工のパーツのようで大層美しい。
(何だか随分丁重に扱ってもらってるの~。
ありがたいやら、申し訳ないやら、気恥ずかしいやら…色々と複雑に絡む感情で脳が渋滞しているが…。
ムムム…。ちょいとばかしオジさん気になる所があるぞ、少年)
「ええ、大分と血の気が戻った気がします」
茫洋とした意識を振り払い、落ち着いて肝の入った声を上げながら、永く圧し固められた氷の眼で、ひたと少女は少年を見据えた。
「殿下…この度のこと、誠に感謝しております。その上で、私、殿下を信じて申したいことがございます。
私一人のことであればよかったですが…きっとこの時であればと、思いますので」
「え?…な、何かな?改まって…」
へにゃへにゃと楽しそうだった、エリタージュの顔が急に引き締まる。明らかに硬質で透明な青の視線は、研磨された滲む赤の瞳をぐっと掴んで、世界が縮んだ気すらした。
「…助けてくださったこと、お誘いいただいたこと、なんとお礼を言えばよいのかわからないほどです。
ですが、二人きりでここに連れてくるというのは、感心できないことです。せめて、二人きりでなく、女性の従者の方も連れてきてくださったらよかったのに…。
それがどれだけ怖いかお分かりになりますか?
殿下のように身分がある方に、二人きりで来いと言われて、誰が逆らえますか?
嫌だと言って不興を買ってしまったら…何が起こるか恐ろしい…そう考える人の心が分かりますか?
ましてや、先ほどまで、恐ろしい化け物のような男を目にしていたただの一人の娘が、また男と二人きりにならねばということは、腹を空かせた人食い熊の檻に入れられるようなものだと。
弱い立場の人間は、なぜ弱いか…それを想像することは、不可能なことでしょうか?」
「…え」
ピジョンブラッドの瞳の中で、濡れた光線がくるりと揺れた。良心の呵責が槍となって胸を刺すが、それでも、イグジスタは止まらない。
「殿下、貴方様が良かれと思ってやってくださったこと、誠にありがたいと感じておりますの。
でも、だからこそ、それを行うときに、どれだけ影響があるか…慮ってほしいのです」
「…そう」
少年は少し肩を落とし、落ち込んだような、考え込んだ素振りで胸を押える。勢いで言うだけ言ったイグジスタは、興奮を冷まそうと、夜の近づく湖面の冷たい風を精一杯吸い込んだ。
エリタージュが顔を上げる。決然と上げた少年の顔には、静かに深々と悔恨の念が浮かんでいる。
「そっか…。そうなんだ…。そうだよね…。僕は…その…。
…ごめんなさい。僕が言うのであれば…それはほとんど命令になってしまうし、怖い思いをしたばかりの女性と二人きりになるというのは、配慮が足りなかったよ…。
嫌、だったかな…?」
「いいえ。嫌ではありませんでした。殿下に善意しかないことを、私も理解しています。
…エリタージュ殿下は、急に体を触ってきたりなさらなかったですしね」
「良かった…」
ほっとした安堵に、少し泣きそうな幼子が混じる笑みを浮かべる少年の顔は年相応で、思わず同じように笑う。
「ふふ…ごめんなさい、せっかく助けて下さったのに、お小言なんて…。
ただ、出来れば今度からでも、ご配慮いただきたいと…そう思いまして…」
(すまんのぉ殿下、俺はどうも性格悪いんじゃ。つい言ってしまったわ)
「あ、いや…こちらこそ…。ちょっと考えが足りていませんでした。どうか許してください」
少年の態度は実に謙虚で、素直だった。イグジスタはほっと肩を撫でおろし、
(うーむ、やっぱり器のでかい男じゃのう。
なんというかさ、善かれと思ってやったことにダメ出しされて気分がいい人間はそういないと思うんだ。
…これは、正直落としどころの難しい問題だとは思うんだが…
最終的には、能動側と受動側の信頼関係がモノをいうと思うんだよね。
ほら、「何を言うか」より「誰が言うか」。
であるとか、「ヤンキーがいいことをすると、普通の人が同じことをした時より褒められる」とか。「狼少年は本当のことを言ったとき信じてもらえない」とかとか…。あれ、ちょっと違うかな?
んーと、つまり、常日頃の行動や言動の違いということ。人はそれを自分の基準において、相対的に判断しているというか…。信頼大事。
いかんいかん、とりとめのないことを…)
「いえ。
…私、本当に殿下にお礼をしないといけませんね」
「いや、そんな、いいです。お礼なんて」
子供じみた動作で、慌てたようにばたばたと手を動かすエリタージュの様子がなんだか可笑しく、イグジスタが思わずくすりと笑い声を綻ばせると、エリタージュの顔もぱっと華やぎ、いつもの…いや、いつもより屈託なく笑って、
「それに、お礼ならもう貰いました」
そう言った。これまた訳が分からずに、少女が小首をかしげると、
「い、いや、はは、なんでもありません!」
「?そうですの?」
(ん?何?何言おうとしたの君?)
いつも余裕綽綽としたイメージのあるエリタージュが、目を少し逸らしてほんの少し赤い顔をパタパタと扇いでいる。最後の輝きを放つ太陽の力が、沈む前の一瞬にその爆発的な光線を拡散しているからなのか、冷たい風が吹くはずの湖面であるのに、寒さは感じなかった。
(どうしたよ?ちょっと暑いか?
西日って結構強いからな…そろそろ帰るかい?)
と、そんなことを考えて口に出そうとした時、小さな羽ばたきがいくつか重なって聞こえた。
音を探して首を回してみると、小さくて羽毛の柔らかな白い鳥が何匹か小舟に飛んできている。
「わぁ、珍しい!小エナ鳥だよ!普通は人に近づいてこないのに!」
「あら、そうですの?
教会にいたときにはよく見ましたわ…学園に来てから見かけないと思ったら、こちらでは珍しいのですね」
昔からそうしていたように、左手の指を伸ばしてみると、勝手知ったるという風に小エナ鳥が一匹、イグジスタの指に止まった。
(かわいい)
そんな感想を抱きながら、右手の指で鳥の顔の周りや、背中のあたりを撫でつけてやれば、大人しく身を任せてくれてるので、
「殿下も撫でてみますか?」
そう、興奮した様子で身を乗り出して見ているエリタージュに声を掛けた。
「いいんですか?」
「ええ。羽根の端のほうはダメですけど、優しくそっと、背中のほうを撫でれば嫌がりませんわ」
「わぁ…初めて触るや。…ふわふわしてる」
(サンクスエナ鳥ちゃん!なんか知らんが君らの介入によって空気が和んだぜ!)
いい意味で空気を読まない動物の登場に感謝しつつ、手触りのいい毛並みを二人で楽しむと、満足そうな表情の少年が声をかけてくる。
「…イグジスタさん。そろそろ学園に戻りましょうか、日が落ちる前に」
「そうですわね」
オレンジ色の空は、次第に藍色の濃さを増していく。月の出が近い。弱くなった明かりを頼りに舟は進み、岸に着く。
白い小鳥が飛び立ち、寝床に帰っていくのを背に、二人は飛行挺に向かって影の落ちた森を歩いた。静かに響く足音を、森が穏やかに見守っている。優しい空気の中、夜が訪れようとしていた。
そして、夜が開けた次の日。
(いやぁ…昨日は酷い目にあった…。
ヴェール・マランに行って気分が良くなったまでは良かったんだが…。
まぁ~、何が大変かって、愛しのフロールちゃんを誤魔化すのが!なんも言わんと殿下と気分転換行っちゃった俺が悪りぃんだけども!
そりゃそうだよね!?対戦終わったと思って姉探していなかったら心配するよね?!俺なら妹いなかったらめっちゃ心配するわ!
用意周到マンのエリタージュ兄貴、略して兄貴が先手を打って御付きの人に伝言頼んでたから、どこに行ってたかは伝わってたみたいだけど、今度はそうすっと、なんで兄貴と出掛けたん?ってことになるんすよ!
まさかクソヤロウに痴漢されて、助けてもらって、気分転換に連れてってもらったとか…言えんじゃん?!兄の…いや姉の沽券に関わるし!
いい言い訳が思い付かなくて、結局、痴漢の件は抜いて因縁つけられてたの助けてもらったって話にしたよ!
なんか、フロールちゃんが見たことのないような邪悪な笑みを浮かべてたような気がするけど…キノセイ!
…もう考えんのやめやめ!今は目の前の試合に集中集中!大切なことなので二回言いました!)
『水晶盤闘技式』の最終日である本日、メイン会場である闘技場は満員御礼状態だ。朝のくじ引きを終えて、昨日と同じように準備万端でポジションにつきながら、昨日の回想をしていると…
《それでは!!これより「水晶盤闘技式」、「闘技」の式を行います!!》
実況席からこの三日間で聞きなれた声が飛んできた。所定の位置に相手より先につくと、
《右は天空を舞う一撃必殺の水晶姫!
イグジスタ・パンデュール様!
昨日は相手の手の内を読み、空からの一撃で相手を降参させたその手腕は見事!今回はどのような戦いを見せてくれるのでしょうか!》
会場の空気が沸騰し、色めき立つ観客を尻目に、イグジスタは一昨日と昨日とは違う冷静な緊張感で、対戦相手の登場を待つ。
《そして左は…》
実況が言葉を止めた。観客が静まり、噤まれた口とは反対に、興奮からか、眼が爛々と輝いていくのを感じ取ると、少女は思わず観客を見まわした。
(んあ?なんぞ?)
イグジスタの疑問は、すぐに解消されることになる。対戦者が現れる登場ゲートに、見知った人影が姿を現したからだ。
《我が王国の誇るドラゴンライダーにして第一王位継承者!
エリタージュ・クワルツ様!》
一瞬の無言の後、爆発的とも言える歓声が大きな渦となって降り注ぐ。黒い髪に赤い瞳、昨日ぶりにみるその姿。
そこには少年エリタージュが、困ったように瞳をしばたたかせ、そこに立っていた。
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