第8話 白の黒星

「ふっ、私ですよ。忘れたというのですか?」

(いや…マジで誰やねんお前)

 目の前にいるのはウェーブがかかった黒髪短髪の、やや不健康な印象の男。キザったらしく壁に背中を預けて、イグジスタに視線を送りながら拍手をしている。

 貴族階級を表すブローチをつけているから身分は高そうだが、基本的に教会所属で貴族と付き合ってこなかったイグジスタに、貴族の知り合いはほぼいない。

(や、マジで人の名前と顔を覚えんの苦手なんだって!

 覚えられる人凄いよな?!

 脳にどんな顔認証システムいれてんの!認証率いくつ?!99%か?!

 ベンチマーク性能がちがうわぁ…)

 探るような視線を投げてくる胡散臭い男に対して、

(さて、どうしてくれようぞ。素直に誰おま、つってゲロるか、覚えてるふりして誤魔化すか…)

 思案して、無言の回答を返しすイグジスタに、その卑屈そうな笑顔を若干強張らせながら、男が近づいてきた。

「私ですよ、貴女と昨日戦ったモーティマー・ヴォロンテ。ほら、覚えているでしょう」

 何故か髪をかき揚げる仕草を行いながら、自ら自己紹介をしてくれた男にようやく合点がいったイグジスタは、

(あぁ、あんときの人か。スマンスマン。忘れとったサーセンフヒヒ)

 という、正直な感想を封印して、

「なにかご用ですか?」

 あくまでクールに尋ねた。するとやっと相手の反応を得て満足したのか、男は多少機嫌良さそうにイグジスタと距離を縮めてくる。

(え、何?昨日のお礼参り?…マージーで~勘弁してくれよ。ノーサイド!ノーサイド!

 しゃーないじゃん、対戦なんだし)

 無表情なまま、人見知り注意報をガンガンに鳴らしていたイグジスタだったが、モーティマーがニヤニヤ笑いを湛えながら長身を揺らし、小柄なイグジスタとの距離を後5cmのところまでに急激に迫って来たため慌てて後ずさった。数十cm下がったというのに、迫る男が追うようにさらに距離を詰めてきたせいで、遂には背中が壁にぶつかってしまう。

 反射的に腕を胸の前で自分を守るように持ち上げるが、ぼぼゼロ距離で壁に手をついて見下ろす男の前に、少女の抵抗は全く無意味だ。

(な、なな、なんや!!?

 めっちゃ怖!

 これが噂の壁ドン?!(古)

 イヤイヤイヤ、つり橋効果ってあるけど俺に言わせたら、ドキドキ以上に怒りが湧くね!サイズ差あるから本能的に恐怖感あるわ!誰だって巨大な羆に壁ドンされたらコエーッてなんない?!なんないの!!?

 好意がない相手が迫ってきたら怖!三枚におろすぞこの顔面不健康男!)

 闘技場に満ちる喧騒から離れたこの広い廊下には、人通りが少ない。何故ならここは寮と闘技場を繋ぐ渡り廊下。

 一歩離れれば人の気配があるのに、次の試合が始まる今この時間は、暗幕に遮られたように世界から切り取られている。

 粘着質で淀み、居心地の悪い男の瞳に映る自分の姿は、今朝の身支度の時とからコピー&ペーストしたかのように変わりないのに、心の中は恐怖と怒りが生み出す極度の緊張からビープ音が耳鳴りのように響いている。

「二連勝してさぞかし気分がよろしいでしょうが…。

 たかだか教会所属の御子風情が…あまり、調子に乗らないほうがいい。

 貴様が貪っている『時霆塔』の利権など、大陸キミアの先進的な技術力に比べれば児戯に等しい」

 大陸のキミアといえば、この水晶島の東側の海を渡った所にある大陸の一大帝国グリモアキミアのことだ。

(あ?

 なんで大陸のグリモアキミア帝国の話がでてくんだよ。

 つかよ、おめーが負けたのは技術力うんぬんではなく俺にべらべら自分の手の内くっちゃべってくれたあげく、俺のスピードについてこれなかったからだよなぁ??おおん?

 つまり、速さが足りない、ってことだよ)

 いまだ無言を貫くイグジスタに弱者の姿を見てとったのか、男の下らない雄弁は止まらない。薄気味の悪い視線が少女の太腿を這い上がり、毒蛇の舌の様相で睨め回す。イグジスタの制服は、昨日と変わらず、白い太腿の絶対領域が美しいオーバーニーソックスだ。

 嫌らしい蛇行を繰り返す瞳が、半円に笑みを形作り、唇がしなる。

「それに…そのだらしない服…

 まるで男を誘う売女ではないか!」

 男が笑った。まるで嘲笑うように。思わず目が点になったイグジスタは、

(は?なに言っとるんこいつ?

 俺は俺のためにウキウキショートパンツニーソックスを履き、うはうは絶対領域を楽しんでるだけで、お前にごちゃごちゃ言われるためじゃねーぞ)

 と、全力否定するものの、目を見開いて目の前の奇妙なものをマジマジと観察してしまう。そこには醜悪な面を被った男がいる。

 見たものが信じられず、脳内で水晶が砕けるような音がする。誰かの金切声が響いている気がするのに、全てが噛み合わない感覚。骨のなかにある髄液が震え、くるめいている。

 不意に、蛇目の男が腕を伸ばした。イグジスタは身構え、体を捩ろうとするが、恐怖と嫌悪と緊張が最高潮に達した心身は、意図した通りに動かない。出来た反応と言えば、ビクリと壁に背中を張り付けることぐらいだった。

「いやらしい…」

 する…と、かさついた指先が、柔らかく滑らかな少女の太腿の隙間をなぞる。

 イグジスタの全身が総毛立ち、現実逃避を始めた脳が突然実況放送を開始した。

(ああっとここでモーティマー選手お触りと言う悪質違反行為!!イエローカードとか生ぬるいことは言わねぇぜ!

 俺の脳内の審判がレッドカードを掲げます!一発退場!!レッド・レッド・レッド!全力でホイッスルを鳴らすぜ!ブブゼラぐらいの勢いで鳴らすぜ!

 貴様ぁ!!人生から退場させたろかこのスカポンタンンンン!!)

 目の前の男…の皮を被ったナニカ…得体の知れない、自分の理解を外れたものに文句を言おうとするが、陸に上げられた魚同然のイグジスタがぽかりと口を開けても声が前に出ない。

 男はそれを良いことに、無遠慮な手つきで肌を弄っている。

(世の男性諸氏…俺はひとつ知見を得た。

 全然知らねぇワケわからん奴にいきなり肌に触れられると、抵抗する以前に脳が状況の処理を拒んでCPU使用率が急激に上昇、メモリがパンクしてブルースクリーンになる。

 だから、「抵抗しないから同意を得ていると思った」は痴漢の言い訳にはならんぞ!)

 襲いくる憤怒と興奮に急激に呼吸が苦しくなるのに、硬直化した筋肉は化石状態から復帰しない。

 一瞬で別世界に飛びそうな感覚を必死に押し留め、なんとか自分のペースを取り戻そうと息を吸い込んだ。

「パンデュール嬢、ヴォロンテ殿…どうしたのですか?このようなところで」

 沈澱の中に息吹きを吹き込むような涼しい声が空間に響く。なんの感情も含んでいない様子で、ただただ、疑問を口にした…そういう声だった。

 虚を突かれたモーティマーが慌てて壁から、イグジスタから離れる。

 それを細めた眼で蚊を追うように流し見ながら、ようやく、少女は肺に溜まった呼吸を、すーっと吐き出すことができた。

 横目でちらりと見れば、およそ、感情らしいものが浮かんでいない黒髪の少年、エリタージュが静かにたたずんでいる。

「で、殿下…?!ぃや、特に…ははだ、毒にも薬にもならない話をしていただけですよ、はっはっは。

 …それでは失礼」

 モーティマーは誤魔化し笑いをした。そしてばつが悪そうにイグジスタの方を向くと、エリタージュには聞こえないよう小声で、しゃべるなよ…と呟いてそそくさと黒髪の少年がいる方とは反対方向に立ち去っていく。その背中を漠然と追いかけながら、

(お~…小物小物。うるせーよ…こちとら従ってやる義理はねぇぞ…)

 そう、イグジスタは毒づいた。脳内で相手に泥団子を相手にぶつけていると、すたすたと足音が近づいてくる。顔を向ければ、赤い瞳の少年が側に来ていた。遠慮がちな表情は、先ほど硬質さからは遠く、どこか暖かみのあるものだ。

(へへっ…サンキューブラザー…助かったよ…。

 燃え尽きたよ…真っ白にな…)

 イグジスタは脳内で、サムズアップしながら溶鉱炉に沈むアンドロイドよろしく、凍えた唇の端を持ち上げようとした。

 しかし、気がつけば、もたれ掛かっていた壁と背中が擦れる痛みを感じながら、視界が上昇しているではないか。

「イグジスタさん?!

 大丈夫ですか?」

 自分が床にずり落ちたと理解したのは、膝を床に落として、手足の先からひんやりとした感覚が登ってきた時である。

(はあ?)

 自分でもなにがなんだかわからないまま、立ち上がろうとすれば、八の字に眉を下げた顔が覗きこんでいる。

「エリタージュ…様…」

 そっと気遣うように手を伸ばしてくれた少年の優しさに感謝しながら、やっと開いた口は、

「…大丈夫ですわ」

 ほとんどテンプレートで描いた言葉で返す。ふっ、と目の前のエリタージュから呼気が零れる音がした。疲労にとり憑かれながらぼんやり顔を持ち上げると、

「…大丈夫か、なんて聞くべきではありませんでしたね」

(ほい?)

 エリタージュが思いもよらない返答を贈ってくる。

「…?」

「貴女は、どう感じているのですか?」

「どうって…」

 喉の奥がカサついている、改めて自分の中を鑑みれば…体が震えて止まらない。崩折れたまま、自分で自分を抱き締めると、食い込む指先から理解できることは、驚くほど体が冷えていることだ。汗が背中の筋を伝って、滑り落ちていく感触が不快で仕方ない。

(俺…すげーびびってたわ…

 それから…)

 目の前には、子猫を見るように和やかな瞳をした彼がいる。柔らかい日光の照射の中で、赤い眼は薄明かりを捉え、きらきらと輝いていた。

(この人…俺にヘドロをゲロさせようとしてくれてるんだ)

 それを理解した時、すとんと重石が取れ、発した声は自分でも意外なほど掠れていた。

「怖かった…嫌でした…吐き気がするほど…」

 傷ついたと訴えれば、屈んで視線を合わせてくる彼は静かに頷き、

「怖い思いされましたね」

 そう、確かな共感をもって見つめ返してくれる。

 イグジスタは、こくんと頷き、吐き出して、それでようやく、自分の体から喪われかけたものが蘇った、そう感じた。

 全身に力が漲ると、しっかりと大地に手をついて、立ち上がる。最早、手助けは必要なかった。

 差し出した手が役割を失ったのを、エリタージュは少し残念そうにしたが、イグジスタの蒼い瞳に稲光が走っているのに気がつくと、彼は満足げに微笑む。

 イグジスタは何だか、ちょっぴり気恥ずかしくて、擽ったかったが、気を取り直して、毅然とエリタージュを見た。

(くっそ!思い出したらめちゃめちゃ腹立ってきたぞ!)

 思い返したとき、恐怖を乗り越えた思考が、本格的に苛立ち沸々とマグマになって湧き上がってくる。

「殿下、お願いがあるのですが…」

「…なんでしょう?」

「妹に…フロールに、この事は話さないで欲しいのです。心配をかけたくありません。…けじめは自分でつけます」

 次から次へと沸きだしてくる怒りのマグマを、潤む瞳の泉に深く深く沈めながら奥歯を噛み締めるイグジスタに、彼は、その憂いと気遣いに溢れた眼をふっと優しげに細め、見つめ返してきた。

「そうですか。あなたが、そう望むならそうしましょう。

 …でも、少しフロール嬢は寂しがるかもしれませんね」

(?)

 イグジスタがその言葉の意味を理解するのは、もう少し後になってからであった。

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