第5話 電波交信
「こちらパンフレットどうぞ。よろしければご記名お願いします」
机を挟んだ向かいに座るおしとやかなおばあさんからパンフレットを受け取ってそのまま展示室に向かおうとした僕は、その要望を聞き逃しかけた。
「えっと、あ、名前書けばいいんですか?」
僕はよくわからないまま目の前の用紙に名前を記入する。僕より前に記入した人たちはわざわざ住所まで記入しているが、僕はその用途がわからず名前だけにしておいた。住所を記載したら連絡の手紙でも届くのだろうか。それならやはり避けて良かったと思う。
受付を抜けて展示室に足を踏み入れると、目の前には僕の背丈よりも大きな額縁に飾られた風景画が僕を出迎えてくれた。これだけ大きいとやはり細かな表現も出来るからいいのだろうか。僕は引き込まれるように絵画へと近づいて行った。目の前まで絵画が迫った時、絵の表面に小さな
硬化した絵の具で描かれるそんな二種類の風景に僕ははやくも絵画の奥深さというものを感ぜぬにはいられなかった。
僕は絵に直接息がかかるほど顔を近づけてしまっていた。それを
互いに互いを見合っているとおばあさんのほうが先に
「こういった場所ははじめてですか?」
と尋ねた。
「あ、はい。ほとんど初めてじゃないかな、と思います。えっと、なんかすいません。じろじろ見ちゃって」
何か悪いことをしたのではないかと不安になりそんな言葉が出てきた。僕が恥ずかしさから手を頭に持っていこうとすると、おばあさんは大きな声で「動かないで」と僕を注意した。腕が腰のあたりで止まったのを見て、おばあさんはため息をついて僕にこちらへ近づくよう指示した。僕もその後気が付いたのだが、あのまま手を挙げていたら絵画にぶつかって最悪破れていたかもしれないという。
僕はその瞬間事の重大さに気づき、それはもう腹の冷える思いをした。おばあさんは「何事もなくてよかった。見るときには気を付けて、ゆっくり楽しんでね」と言い残すとまた受付のほうへと戻っていった。
僕は今一度その油絵の表面に注目してみた。そのほとんどが硬化した絵の具で覆われて岩のようにどっしりと構えているように見える。しかし中には波のしぶきのように、まとまりからほんの少し顔を見せているだけのものもあった。それらはそこに掴まっているのがやっとだといわんばかりに弱々しかった。きっと自分の腕が当たっただけでも折れてしまうだろう。僕は改めて絵を見るときには距離をとろうと頭の中に書き込んだ。
その一枚の後にも油絵、水彩画による風景の数々が並んでいた。
ここは町の市民ホールで開催されている絵画展の展示場で、僕は一人そこを訪れていた。
あの山での出来事を僕は彼の「電波塔」からとって、でんぱ山の思い出としてずっと忘れられずにいた。あれからもう三ヶ月ほど経っただろうか。あの日を皮切りに僕は両親との会話を積極的に行うようになり、まだやりたいことを見つけるまでには至っていないが、昔に比べて家以外の場所で沢山の刺激を感じる生活を送っている。そんな僕の内外の変化を実感したことで母も大分落ち着きを取り戻しつつある。父は母さんのことは父さんが見れるから、今は自分の好きなようにやってみるといいと言ってくれたが、僕は母の安心のためになるかと、母と一緒に料理に挑戦したり、趣味の園芸の話を聞かせてもらったりしている。今度の週末に母と作ったご飯をあの公園の広場で三人で一緒に食べる計画も立てているところだ。
そして今、僕は彼との思い出に引かれるように絵画展の展示場へと足を運んだわけだ。
展示場内は即席の壁で区切られて決められた道順に沿って絵画が左右一面に飾られていた。少し薄暗いくらいの照明に照らされた会場には僕以外にもそれなりにお客さんは来ているようだが、そのほとんどが父と同じかそれよりも年上の人ばかりで僕のような若者はほとんどいなかった。きっと受付の女性も珍しいと思って見ていたから僕に声をかけたんだろう。
僕はそんな彼らに交じって描かれた絵画に目を通す。
あのでんぱ山での出来事がなければ、僕がここに来ることはまずなかっただろう。もし来たとしてもこの絵に対して何の感情を抱いただろうか。
彼の話が全ての作者の、全ての作品に当てはまるかどうかはわからない。僕のようにただ目の前の風景をそのままに描写している人だっているだろう。だから、この絵に作者はどんな自己を描いたのか、なんてことは本人のみが知ることだ。
それでも僕は、自分ならこの風景にどんな自己を描きたいと思うのか想像しながら作品を見ていた。するとその描かれた風景を前にした作者の心境が手に取るように想像できてしまった。そしてそこには吹き抜ける風も揺れる影も、葉っぱや生き物の出す音も肌で感じたような感覚を覚えた。
驚いた。そしてそれ以上に感動した。
僕はそのまま時間が経つのも忘れて、一枚一枚の絵の作者に焦点を当てて描かれた風景の更に外側まで想像を巡らせた。それから何枚目かの絵を目の前にした時、ふとその風景に既視感を覚えた。
一年を通して変化していく森の風景が色移りしていくように描かれている。その中心には互いに優しく手を取り合う家族の姿が描かれていた。これまで見てきた作品にはほとんどなかった人の存在と抽象的な表現に目が留まったが、それ以上にその風景から感じる雰囲気を僕は確かに一度経験していると感じた。
僕は作品よりも先に右下に貼られたタイトルと作者名に目を走らせた。
『 電波交信 』
たかつき・・、しんじ・・・。
これは彼の作品・・・?
僕は半分こうなることを期待していたのかもしれない。直接ではないにしろ、こうしてまた出会える可能性が見えたことが何よりも嬉しかった。
僕は改めて作品を見る。いたるところに春の青色、夏の緑色、秋の赤色、冬の白とが重なり合い隣り合う色同士は互いの主張が強すぎて殺しあいかねない様相だ。しかし、全体的に見るとそれらをすべて包括するより大きな何かによって調和が取れている。きっとそれは自然全体を統べる何かなのだろう。人一人の意思ではとても小さすぎる。
これが本当に彼の作品なのか定かではないが、僕はきっとまたどこかで会えると信じていた。
彼の電波塔に届くようこれから僕の電波を送るからだ。発信された電波は他の電波塔を経由しながらいずれは彼のもとにも届くだろう。
そうして僕たちは、電波交信をはじめるのだ。
でんぱ山にて ネコイル (猫頭鷹と海豚🦉&🐬) @Stupid_my_Life
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