第4話 新設

 『僕たちは省吾に自分の選んだ道を歩んでほしいんだ。父さんたちはどんな道だって応援しているよ』

 『えぇ、そうよ。お母さんもお父さんと一緒に省吾のことを応援しているからね』



 両親を振り払ってここまで来たということをすっかり忘れていた。僕は門限を破った子供みたいに恐る恐る声のした方へ視線を送る。そこには血相を変えた母親と怒りを何とか抑え込もうとして顔が真っ赤な父親の姿があった。

 腹の中が底冷えする。 

 いつもは母親をなだめる父親が今回ばかりはそれどころではない顔をしている。ずんずんと近づいてくる父親に引っ張られる形で母親もよろよろとおぼつかない足取りでやって来る。二人はあんな状態でも何事もなくここまで降りてこられたのだろうか。僕のように足を滑らせてしまったりしなかったのだろうか。願わくば、この瞬間にも二人のどちらかが、どちらでもいいから転ぶなりして少しでも先延ばしにならないかと頭の中で思ってしまった。

 両親はそんな願いとは裏腹に危なげもなく僕のもとへとやってきた。


 「省吾!?大丈夫?どうしたの、怪我したの?この人は?一体何があったの?

ねぇ、ちゃんとこっちを見て答えて!?ねぇ!」

 「いい加減にしてくれ!どうしてそんな危ないことばかりするんだ。母さんだってお前のことを見つけるまで、本当に今にも倒れそうな状態だったんだ。心配していたんだぞ。ちゃんと説明してくれ!」


 頭の中は石でも詰め込んだみたいに重くて二人の声が響くたびに痛くなる。僕は二人の顔を見ることができず、ただただうつむいていることしかできなかった。そんな僕の反応を見て母は余計に何かあったのではないかと必死に呼びかける。

 誰か、誰でもいいから。こんな僕をどうにかしてくれ。心配する気持ちにもまともに応えられないこんな僕を。

 


 『久々にどこか出かけないか?最近学校以外で外出ていないだろう?またお前とキャッチボールとかしたいなぁ、父さんは』

 『省吾?無理に出かけろとは言わないけど、家にばっかりいるのも体に良くないわよ。お父さんと一緒に少し体を動かしてきたら?』



 「すいません、この子のご両親でしょうか?」


 一粒の雫が真夏の雨を知らせるように、その声は静かにこの場の空気を変えた。両親の意識もそちらに向いたことで、気持ちが少し落ち着いたようだ。


 「あぁ、すいません。そうですが、そちらは?」

 「僕はたかつきしんじといいます。息子さんが転んでしまったところにちょうど出くわしたので一緒に少し休憩していました。申し訳ないです、ご両親と来ていたと知っていたら、まず連絡を取るべきでした。ご両親には余計なご心配をおかけしてしまい申し訳ありませんでした」


 父の無愛想な声にも彼は礼儀を重んじた態度をとった。これには父の方が面食らったようで、こちらこそ息子がお世話になりましたと急いで頭を下げ返した。

 二人のことを黙っていたのも、その原因を作ったのも全ては自分にあるというのに高月さんに謝罪をさせてしまったことが恥ずかしくて僕は何とか彼の面目を保とうとするが、それは彼によってではなく両親の手によって阻まれようとしていた。


 「ほら、省吾!ちゃんと高月さんにお礼をしたのか!?お礼したらもう下山するぞ。これ以上ご迷惑をお掛けするんじゃない!」


 そう言って父は母を一旦僕から離すと落ち着かせるようと、よかったよかったと言い聞かせはじめた。僕に残された時間はもうほんの僅かしかない。僕はまだ少し残る痛みも無視して、高月さんを真正面から見つめる。ちゃんとお礼ができるように。


 「高月さん、ありがとうございました。それと、すいませんでした!!怪我のことだけでなく、絵画の話まで聞かせてもらっちゃって」


 僕は自分の体をまんべんなく感謝と謝意が巡るのを待つように深々と頭を下げ続けた。


 「いやいや君がそんなにしてまで謝ることじゃないよ。僕も君とお話ができて楽しかったよ。ほら、無理すると後が怖いよ?」


 高月さんはそれでも僕をいたわるようにゆっくりと体を上げさせ、僕を見つめ返す。そのまま彼の優しさを感じていたかった。何も喋らずにそのままでいられたなら僕もきっと満たされただろう。

 でも最後どうしても聞かなければならないことがあった。


 「高月さんにとって、あのイーゼルってどうして電波塔なんですか?」


 彼の後ろに佇むイーゼルを見つめて僕は最後の質問をした。


 「そういえば、一番肝心なことを言っていなかったね。僕はあれを現実と自分とのコミュニケーション起点にしているんだよ。お互いの主張したいことをあれを通して伝えあうのさ。ゆっくり時間をかけて、相手の見てほしいものを感じて、僕のやりたいことを相手に伝える。ちょうどイーゼルを起点に電波交信をするみたいに。僕はね、魅力的な人間と絵画ってのはこういう意味で似ていると思うんだ」

 「魅力的な人間?」


 また彼お得意の人生観が垣間見えたとき、後ろから「省吾。ご挨拶はもう済んだだろう。そろそろ帰るぞ」という父の有無を言わせない声が届いた。

 彼は察して、最後にこう告げた。


 「その二つは、周りに流されることも周りを蔑ろにすることもない。自己と他者との調和が取れた存在なんだと思う。僕もうまくいかないときにはこうして電波塔を立ててバランスをとるんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中で十何年という短い人生において、主張の乏しい自分とそれを心配する主張激しい両親の関係性が違った視点から客観視することができた気がした。そして、時折激しく反発する自分の姿もありありと目に浮かんだ。それは納得がいかず絵の具で絵画を塗りつぶす画家のようだった。


 「あ、ありがとうございました」

 「うん。こんな話でも楽しんでもらえたのなら良かった。いや、寧ろ僕の方ばかり楽しみすぎたかもね」


 僕の言葉をそのままの意味で受け取った彼はにかっと笑みをこぼす。

 僕はさっき以上の気持ちを込めて感謝の気持ちを口にしようとした時、僕の頭は僕の意思とは無関係に深々と下げられた。

 驚いていると横から改めて感謝と謝罪をする父の声が聞こえる。僕は急に頭を押さえられたことに驚いてばかりでうまく言葉が出てこなかった。父は挨拶が済むとそのまま僕を引っぱっていく形で山を下り始めた。

 僕は掴まれた首をなんとか後ろに向かせながら、最後に、何度も何度もありがとうと彼に伝えた。それは彼の姿が見えなくなっても続いたが、呼び止めては失礼だと父に止められてしまった。それでも僕は心の中で彼に向けて、ありがとうと声をあげ続けた。


 その日はそれから二人の気持ちを静めるのに苦労した。それでもこれは僕がしでかしたことなので、二人が求めることにはすべて答えた。彼との会話の内容も聞かれたが絵に関することと聞いた瞬間に父の興味はそれてしまい、彼の話を教えることはなかった。

 しかし、彼から学んだことは確かに僕に変化を与えてくれていた。

 それから僕は二人に対して心配をかけたこと、その原因に僕自身の行動も関係していること、その上で自身の心境を詳らかに語った。はじめは反抗的な態度の理由付けだとあまり耳を貸さなかった父だったが、僕はそれでも言葉を与え続けた。父の言葉に侵食されぬよう、父の気持ちを蔑ろにしないよう。そのバランスを意識しながら。

 二人との会話を通して、僕は二人がどれほど僕の将来について期待と不安を抱いていたのかを知った。その気持ちは僕に対する純粋な優しさだった。これまでの僕にとってそれは自分を縛り付ける網でしかなかった。でも、今だからこそその気持ちを無下にはできないと思う。大切にしたいと心から思えた。

 

 僕は二人に言った


 「また一緒に公園でミルクティーが飲みたい」 


 と。

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