失恋

リスノー

失恋

 起きて飯を食い、歯を磨いて一階に降りると、姉の姿があった。いつもと同じように、真黒の大きな瞳を見せながら、のほほんとした笑みを浮かべている。状況が状況なので、朝の挨拶という奴をする気にもなれず、俺は自覚を持つほどの不機嫌さで、黙ったまま椅子にドカンと座った。姉に当たるのはお門違いと知っていながらも、今の俺にはそうするほか選択肢が無かった。


「なんだか不機嫌そうじゃない」


 俺の不機嫌を見透かしたように、姉はその笑みをこちらへと向けていた。


「彼女さんのところに、早く行った方が良いんじゃない?」


 それがどうしようもなく、俺の神経に触れて。不意に自分の口が、軽くなるのを感じた。それを安心感と言ってしまっていいのかわからないが、それでも俺は心臓の鼓動を抑えながら、口を開いて、姉に語った。


「……さよならって」


「え?」


「……さよならっていいやがった。あいつは。別れるってなった時、俺に何も言わせないで、さよならって」


 あの時、彼女は俺に、ただ一言だけ、そう告げた。


「そっか。……それは、悲しいね」


 悲しみ。――――それより、俺の心の中は、怒りで満ち溢れていた。

 真夏のアスファルトのような、灼けつく痛みに似た熱さ。それが今、身体の奥底で滾るのを感じていた。これが、孤独にされた男の怒りというやつだろうか。いや、それよりも。


 悔しさ。その言葉が正しい気がする。


「……泣いてるの?」


 自然と、涙が出ていた。決して悲しいわけではないのだ。この涙は、ただ悔しいだけで。それなのになぜか、あふれる涙を止めることも、止めようとする意思も無かった。

 無力感というものだろうか。満足に付き合ってやれなかった事実、別れを止められなかったという事実、そして何より、今どうすることもできないという事実が、深海に沈む碇のように俺を捉えて離さない。


「……違う」


 そうだ、違うのだ。俺は――――。


 思考を止め、紛らわせるためにスマホを起動する。たけど、一番先に映し出されたのは、笑顔でピースをする少女の顔だった。

 つい昨日まで、隣にいた少女。つい二週間前には、遊園地に一緒に行ったのに。


 ダメだ。そうわかっていても、記憶が奥底から生まれ出てくる。碇に繋がる鎖がちぎれ、つなぎ留められてきた物体が、深海の底から海面に、泡を伴って浮き出てくるのだ。


「違う、違うんだ」


 決して悲しいわけではないのだ。決して。決して。だけど涙がとめどなく流れている。彼女の顔が脳裏に焼き付いて離れない。決して悲しいわけではない。だけど。


 パスコードを入力して、次の画面に進む。購入時に設定したままの、デフォルトの壁紙が、目に飛び込んでくる。

 一匹のテントウムシがくっついているだけの、紫色のチューリップ。だけど、なぜかあの少女の顔が、どうしても思い出されてしまう。いつか彼女が花言葉に嵌っていた時、俺はこの画面で聞き流していた。


 そうだ、紫色のチューリップの花言葉は――――。


「私の記憶が正しければ、『不滅の愛』だったかな」


 姉の口元は、依然としてニヒルに微笑んでいる。


 ああ、なんてアイロニーか。

 記憶の欠片が一つにまとまる。まだ記憶に新しい、昨日の夜。深夜十時五十九分。歩行者信号の赤色は、人生いつまでも見慣れない。

 恋の終わりとしては余りにチープな街角だ。古い楽器店のシャッターが、落書きをされながら閉まっていたのが、なぜだかよく思い出された。店先の植え込みの緑はそれでも、生き生きと闇に溶け込んでいた。


「じゃあ、さよなら」


 って。彼女は名前も知らない木の下で、そう言ったんだった。




「――――でも、さ」


 『音』のした方を見る。


 そこには、沈黙する姉がいた。真上の壁かけ時計が、チクタクと、早朝の時間を進めている。しばらく、時計の音だけがこの空間を支配していた。


 水を打ったような静けさに、沈みゆく思考は完全に停止した。


 やがて、沈黙が破られる。


「彼女さんはね、別に約束を破ったわけではないよ。確かに、もう、不滅の愛を互いに確かめ合う事は出来ないし、チョコレイトのお返しももうできない。だけど、二人は互いが互いに認め合って昨日まで来たんだ。確かに最後は唐突だった。でも、彼女さんも幸せだったと思うよ」


 窓の外から、子供の声が聞こえた。ここの近くは小学生の通学路になっている。いつの間にか、時間は七時を三分も過ぎていた。まだ朝食すら食べていない。


「だから、あんまり自分を責めないで。誰も何も悪くはないんだ。将来はまだある、だから前を向いて――――」


「本当に」


 呟きは、姉にも聞こえているはずだった。


「本当に俺といてあいつは幸せだったのかな」


俺といて幸せじゃなかったから。だから、あいつは俺の前から姿を消したんじゃないのか。


「ちがッ……」


「そうだ」


 だってそれこそが、恋の終わらせる絶対的な目的じゃないか。


「俺はあいつに、何度も強く当たっちまった。二週間前の遊園地でだって、『早めに帰りたい』って言っちまった。付き合って数週間で、俺に怯える彼女の目を初めて見たんだ」


 きっかけはどうせ些細な事で、微か程にしか覚えていないけれど。でもあいつの笑顔は、あの時確かに、俺に対する恐怖に歪んでいたんだった。


「……自虐的にならないで。ただ不幸なだけなんだ。ゆっくり考えてみれば、あなたは悪くないってわかるから、落ち着いて。昔はあんなに冷静だったじゃない」


「ああ、クソッ」


 悔しさだ。


 何もしてやれない無力感。胸を押さえないと立っていられない罪悪感。冷ややかな自分の過去が、氷槍となって自分の胸を貫くのがわかる。

 涙は出尽くした。だけど泣きたくて仕方がない。これは悲しみじゃないのだから。


「……ねえ、昨日、彼女さんから貰ったものがあったよね」


 姉の方を見る。テーブルに、昨日彼女から手渡された本が置いてある。

 三島由紀夫の『潮騒』。恋愛小説以外にも手を出してみたいと言う彼女に、読みやすい文学作品として薦めたやつで、昨日出会ったすぐに、返してもらったやつだ。遥か昔に買ったけれど、ほとんど劣化は見られない。

 よく見れば、スピンのような茶色の紐が、最終ページと裏表紙の間から出ていた。スピンはついていないはずだ。とすると――――。


 俺は『潮騒』を手に取り、茶色の紐を引っ張った。それは本にくっついてはいないらしく、剣を鞘から抜く様に、簡単に本から抜き出た。


 それは、栞だった。


 長方形に切り取られたラミネートフィルム、それに包まれた小さな青色の花。一部茶色に変色していて、それがどうしようもなく綺麗だった。

 この花の名前を、俺は知っていた。少しの間だけ思い出せなくて。顔をしかめて、思い出した。そして、飛びあがりそうになる。


「……うーん。女の子の流行なんて、過ぎ去ってしまえば何も覚えてないって事、たまにあるから、偶然そうなったかもしれないけどね。でも、少なくとも悪い意味は込められていない」





 ワスレナグサ。『私を忘れないで』。





「ちなみに、西洋だと『思い出』っていう意味もあるらしいわね」


 咀嚼するのに五秒かかり、そして。


「……そう、か」


 栞を戻す。今度は表紙と最初の間に、紐さえも隠すように。もう二度と取り出すことは無いと肌身に感じながら、『潮騒』を完成させた。


 涙は、出なかった。


「……まだ早いけど、そろそろ行こうかな」


 リビングにある小さい本棚に、『潮騒』をしまい込んで。そのまま、ハンガーラックにある紺のジャンバーを手に取って、肌に当てた。


「そっか、行くんだね。……いってらっしゃい」


 今も、姉の笑顔はやっぱり崩れていない。だけどさっきよりも、それが純粋な笑みに感じられる。


 行くというより、行かなければならないんだな、俺は。


 前を向いて、歩いて行かないといけないんだ。


 だけどそれは、決して義務ではなかった。責任でもなかった。ましてや、前と名前のついた、明るいだけの物でもなかった。

 それは、それこそが自分だった。


 乗り越えなければならない。前を向いて歩いて行かないといけない。それこそが自分だ。

 二人の親しき人を、暴走する自動車の事故で失った悲しみも。それよりずっと深い悲しみも。


「じゃあ、いってきます。姉さん」


 

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