1519 見えない力
ノーアウトでそれなりに俊足のランナーが出た。
グラウンドコンディションの悪さはあったが、それも含めて攻めてきた。
五番バッターに送らせるという戦術は、大阪光陰は取らないはずだ。そうデータには出ている。
だがここで送ってくる怖さも、大阪光陰は持っている。
(でもこのグラウンドの状態だと、バントは転がらない可能性がある)
キャッチャー前に転がって、自分が捕れば二塁で殺せるかもしれない。
よりにもよって五回だ。
これが終わればグラウンド整備が入るのに、最悪のグラウンドでプレイしなければいけない。
不確定要素が大きすぎるが、甲子園のグラウンドについては、間違いなく大阪光陰の方がよく知っている。
セイバーも大阪光陰のデータについては詳しく分析していたが、甲子園球場自体に関しては、風向きやファールグラウンドなど、一般的な範囲しか調べていない。
グラウンドの整備をしてくれる業者が凄腕で、すぐにコンディションを戻してくれるらしいとは聞いていたが。
「ひょっとして、この回がキーポイントですか?」
「間違いなく」
勝負勘のないセイバーでも感じ取れる、このベンチに中の緊迫した空気。
「伝令を。確実にワンナウトだけ取っていくようにと」
このグラウンド状態の中で、どのようなエラーが出るか。
セイバーとしてはあくまでも統計へのデータ収集が重要である。
欲張らないこと。
内野に確認して、ポジションに散らばる。
おそらく大阪光陰は、最低でも進塁打は打ってくる。
ただこの雨で向こうの走塁も、少しは鈍っているだろう。
(内野ゴロを確実に打たせよう)
そう思ったカットボールを、五番打者は一二塁間に打つ。
水で打球の勢いが落ちる、これはゲッツーには出来ない。
セカンド角谷が前進して捕球し、一塁へ送球しようとしたところで、ボールが滑った。
ファンブル。暴投こそしなかったものの、これでランナーが一二塁になってしまった。
大阪光陰は次の打者で右方向のゴロを打ち、ランナーを二三塁に進めた。
角谷は今度はしっかりとアウトにしたが、やはりグラウンドに水が溜まっている。
(ここで代打を出してきても、ポジションの穴を埋めるだけの選手はいるはずですが)
下位打線であっても、出来ることがあるということだろう。
七番打者は確実に三振か内野フライにしたかったのだが、高めの釣り球に手を出すことなく、フォアボールを選んだ。
ワンナウト満塁となってしまったが、これでフォースアウトが取れる。
もっともこのグラウンドの状態では、上手く転がってくれるかが問題だ。
三振か内野フライが好ましい。
試合の展開がまともじゃない。
雨の中の試合ということなら、大阪光陰も普段のパフォーマンスを発揮しないと思うのだが、どちらも両手を縛った状態でも、白富東が不利になっている。
監督の経験か、それとも選手の経験かは分からないが、こういった状況でも対処出来るようになっている。
いや、対処と言うよりは、許容していると言うべきか。
(まあこういう時のためにストレートをパワーアップさせたわけで)
変化球で追い込んでからのストレートで、空振り三振が取れた。
ツーアウト満塁。
フォースアウトが取れることは変わらないが、ランナーは打ったと同時に発進する。
そして打者は九番の竹中。
ピッチャーのリードのために九番を打っているが、実際はクリーンナップも打てる打力を持っている。
引き換えにとでも言うべきか、ランナー三塁で確実に内野の頭を抜くヒットが打てる。
一点を惜しんで大量失点の危険性はあるが、ここは外野を前進守備にさせるべきか。
白富東がこの先何点取れるかという判断により、指示は変わる。
セイバーは考える。これはワールドシリーズの最終戦だと。
両チームが絶対のエースが投げ合っている。そして一点を取ったらあとはリリーフでつないで、クローザーの勝利の方程式で勝つ。
「内野は定位置、外野は前進で問題ないですか?」
「そうですね。一点ならなんとか……いやでも、一点取られたら最低二点は取らないと……」
セイバーはあくまでも統計から、前進守備を提言する。
そしてジンも、外野を前進させた。
長打力がないと思われている。
竹中とすれば心外ではなく、思い通りといったところだ。
あえて狙って単打にしていただけであって、竹中に長打力がないわけではない。
しかしこのピッチャー相手にボールを高く上げるのは、確かに難しそうだ。
木下監督は動かない。
動くとしたら、前の打者で動くべきであった。136kmのストレートを、まさか三振するとは思わなかった。
外野フライぐらいにはしてくれると思ったのだが、136kmのストレートで上手く三振を取るだけの力が、あのバッテリーにはある。
動かずに点が取れなかったので、ここは選手に任せる。慌てる姿は見せない。
ここで点が取れなくても、動揺はしない。
竹中としても、狙い球を絞るしかない。
だが制球のいいピッチャーだ。変化球を上手く使って、ノーヒットノーランを達成するような。
先ほどのフォアボールはあえて振らせるボールだったろうが、それを振らなかったということで、あちらのバッテリーの隙にもなっているかもしれない。
意識としては、好球必打。
追い込まれてからはカットで逃げて、フォアボールで押し出しの点を取る。
コントロールのいいピッチャーにとっては、それが一番きくのだ。
白富東のバッテリーとしても、キャッチャーの竹中は全く油断できないバッターである。
その打撃成績だけを見ると、一番の堀、二番の小寺に匹敵する巧打者だ。
それがリードに専念するために九番に入っている。なんとも贅沢なことだ。
ここで確実にアウトにするには、三振がほしい。
内野ゴロだとまたボールが止まってしまう可能性がある。フライはポテンヒットが怖い。
(初球でスルーを見せて、その反応で後を組み立てよう)
頷いた直史はランナーを無視して、セットから普通に投げる。
だがその視界に、三塁ランナーの初柴が動くのが見えた。
警戒はしていなかった。だが、ホームスチール?
そんなもの成功率は1%程度だろうに。
と、わずかに集中力が乱れたのが悪かった。
指先がわずかに滑り、回転が上手くかからない。
ジャイロ回転ではなく打ち頃の縦スラになって、真ん中に入っていく。
この失投を竹中は見逃さなかった。
的確にミートして上で、全力で振り切る。
打球は三塁線。大きい。
ぎりぎりフェアになった打球は、フェンスに当たってそこで止まった。
これも芝が水を吸って転がるのを止めてしまっていたからだ。
レフトの沢口が追いついて返球してくるが、一塁ランナーもホームに滑り込む。
泥だらけになりながら、ベースにタッチする。
ランナー一掃のツーベースヒット。
内野安打からエラーとフォアボール。そして失投で一気に三点。
高校野球はこういうことがある。特にコンディションの悪い試合では。
大阪光陰を相手に三点差は厳しい。
そしてまたランナーが二塁にいて、上位打線へと。
戦意が落ちかけた時に、センターから手塚が叫んだ。
「ツーアウトだぞーっ!」
そう、ツーアウトなのだ。
一人切れば、この回は終わる。ベンチに戻れる。
少なくともバッテリーは、冷静さを取り戻した。
(ロージンをちゃんと使ってなかったな)
マウンドの上で直史は反省する。
確かに運の悪いエラーなどはあった。だが最後のきっかけである失投は、自分の不注意だ。
ここのところランナーがベースを賑わせることもなかったため、注意力が分散していた。
一番の堀を切れば、五回は終わりだ。そしてグラウンド整備が入る。
終わったことは仕方がないと、一瞬で頭を切り替えて、直史は堀と対決する。
むしろジンのリードにこそ動揺が見て取れたが、こういう時にピッチャーが冷静になれるのが、このバッテリーの長所である。
堀をあえて処理の難しいゴロで打ち取って、この回は終えた。
3-0は、このレベルのチームを相手には、かなり絶望的な点差である。
白富東が純粋に打撃で点を取れるのは大介のところしかないし、それでいてランナーをためて回しても、敬遠気味の投球をされる。
グラウンド整備の間に、セイバーは淡々と分析を話す。
「つまり相手が大きなミスをするなり、まともに勝負してくるなりを期待しなければ、勝ち目はないわけです」
セイバーの分析は冷徹であり、だからといって絶望的なわけではない。
大介をどう使うか。それが攻撃の大きなポイントである。
ランナーを溜めてそれを帰してもらうか、ランナーで出てゴロや犠牲フライで帰してもらうか。
ヒットで連打する可能性は低いだろう。
大阪光陰はどうやら継投するらしく、加藤がブルペンで投げている。
五回で交代というのは、肩をしっかり作っていく上でもいいタイミングだ。
福島と違い加藤は、コントロールのいいピッチャーだ。
もっともアウトロー以外は荒れ球という福島は、それはそれで打ちにくい。
加藤のコントロールなら、配球からリードを読むことは出来る。ただそのリードをしてくるのが頭脳派キャッチャーの竹中なのだ。
読み合いを制してどうにかランナーを出して、大介で勝負する。
白富東はここまでワンヒットなので、大介がもう一度塁に出ただけでは、四度目の打席が回ってこない。
誰か一人塁に出てもらって、そこでホームラン。
四打席目もどうにか得点しなければ、延長戦もない。
本来グラウンドコンティションがデタラメな状態では、実力差は縮まるものだ。
だが監督の圧倒的な経験値の差が、その実力差を圧倒している。
バッテリーの方がそれほど心配をしていない。直史は崩れるタイプではないし、グラウンド整備で丁度いい間も取れた。
だが大阪光陰が抱える二枚目のピッチャーから、果たしてランナーが出せるものか。
ホームランは試合の流れを変えることがある。
そういった流れの機微を知る木下が、まともに大介と勝負させるだろうか。
敬遠とまではいかなくても、四球覚悟でボールゾーン中心のピッチングをされたら、大介は打てるのか。
加藤は福島よりも、ずっと大人のピッチングが出来るタイプではある。
秋の大会のスコアによると、福島は先発で使われて、大差がついたら三番手や下級生ピッチャーが出ていた。
だが加藤は先に福島や下級生ピッチャーを使っておいて、リリーフで投げることが多いのだ。
やや点差が縮んだり、ランナーを背負った場面での登板が多い。
そこをしっかり抑えるのだから、メンタル的に福島よりも安定しているのだろう。
事実六回の表は、簡単に封じられてしまった。
直史も六回の裏は封じたが、三点差が大きすぎる。
七回。二番のジンからで、どうにか大介の前にランナーとして出たい。
だがインハイをストレートで攻められた後、真ん中から外に逃げていくスライダーで三振。
ワンナウトで大介なので、どうにか長打がほしい。
ここで一点取れなければ、大介に四打席目が回ってきても、おそらくは勝てない。
アウトローへツーシーム。その初球を大介は叩いた。
わずかだがダウンスイングになった。逃げていく球だったので振り切っても引っ張れない。
サードの頭は越えたが、単打だ。
ワンナウトからで単打で抑えれば、このピッチャーにとっては充分すぎる。
塁上で大介は盗塁のタイミングも計るが、加藤はこちらに注意は向けてきても、牽制球は投げない。
この状況で二枚目のピッチャーというのが、打線を封じる上で重要になっている。
二塁へ進むことは出来ず、この回の白富東は攻撃を終えた。
試合は終結に向かっている。
直史はまた塁に誰も出さないピッチングに戻っているが、大阪光陰も白富東を封じている。
なんだかんだ言って、ただの全国レベルならまだしも、全国制覇レベルとなれば、ヒットを打つことは難しい。
それでもぎりぎり九回の表、手塚が内野安打で出た。
三点差なのでジンは強振していったが、それは内野フライでアウト。
ツーアウトランナー一塁で、四打席目の大介。
ここで一発が出ても、まだ同点には一点足りない。
これは負けたな、とセイバーは判断する。
わずか一度のチャンスを無理矢理に広げて、大阪光陰は一点ではなく三点を取った。
チャンスを最大化するのは、監督の手腕だろう。
そしてピンチでの失点を最小化するのも、監督の手腕だ。
残念なことに、セイバーはそういった采配を取ることは出来ない。
どうにかSS世代の最終学年までに、まともな監督を手配するのは、セイバーの義務であろう。
(そしてこの敗北を意味のある敗北にすること)
ベンチの中の雰囲気は悪い。
声が出ていないのは意気消沈しているわけではない。ただ選手とシーナが、じっと試合の動向を見つめているだけだ。
大介にアドバイスなどいらない。大介でダメなら誰でも無理だろう。
(大介がつないで、もしガンも塁に出てくれたら)
低い可能性ではあるが、直史は考えている。
(長打を狙って、同点のランナーを返す)
だが大介への七球目、打ったボールはセンターの深いところへ。
大介にしては弾道があまりにも高すぎた。
センターがフェンス際でキャチして、スリーアウト。試合終了。
かくして白富東の最初の甲子園は終わった。
不思議な敗北であった。
体力負けしたわけでもない。守備がバラバラになったわけでもない。ピッチャーが打ち込まれたわけでもない。
一気に三点取られて、それで終わった。
「土は持って帰るなよ。夏にどうせまた来るんだから」
そんな強気なことを手塚が言うのは珍しい。
夏。
そうだ夏がある。
センバツはあくまでも前哨戦。それぐらいのつもりでなければ、夏は戦えない。
幸い白富東は、全国で投げられるピッチャーが二人いる。
これであとは打線さえどうにかすれば、もっと勝てるはずだ。
優勝とか全国制覇とか、そういった曖昧なものではない。
神奈川湘南と、大阪光陰に勝てるか。
(倉田のやつも合格したから、打線は厚くなる。でもポジションが被るんだよな)
ジンとしては自分か倉田が、ファーストか外野を守れるようになる必要があるだろうと考えている。
新入部員で、少しでも使えるやつが、他に一人でもいればラッキーだろう。
せめていざという時の代打要員で使えるのが一人いれば、大介頼みの打線でも戦略が増える。
ピッチャーがフィジカルやセンスを備えている場合は多いといっても、やはり専門職であることは変わらないのだ。
センバツは最後の大会ではない。
夏のために、強くなるために必要なら、最後に勝つためになら、いくらでも負けてやる。
最強のチームを相手に敗北しながらも、諦めている者も燃え尽きている者も一人もいない。
ここから夏への挑戦が始まる。
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