1518 戦場の霧
現在の高校野球は、大阪を中心に回っていると言ってもいい。
大阪や兵庫から全国各地の名門へと特待生で進む選手がいて、大阪光陰は全国各地から優れた素質の選手を集める。
この試合のスタメンを見てみても、出身地は愛知県と岐阜県、岡山県に京都府、三重県など、大阪出身の選手はいない。
あえて大阪の人間を取っていないのかとさえ思うが、ひょっとしたらそうなのかもしれない。
下手に地元であると、野球部の寮から逃げ出すので。
いや、大阪光陰は中学時代ではエリートではあっても、入部早々に高い鼻を折られて心も折れる者はいるのだ。
さあそんな大阪光陰が相手ではあるが、甲子園の観客は満員となり、白富東にも大きな声援が送られる。
やはり大介の二試合で五本のホームランというのが大きかった。
それに直史はノーヒットノーランで岩崎は完封と、優れた選手が突出して見える。
だがセイバーの表情は冴えない。
それは大阪光陰の力が強大だからとか、自分のチームを信じきれていないからとも違う。
天気の問題だ。
試合前から雨粒が次第に大きくなり、少し弱まっても完全には止まない。
白富東はここまでの雨の中の公式戦をしたことがない。
下手にやって怪我でもすれば大変ということで、練習試合でも大事を取っていた。
この程度の雨なら、甲子園は試合をする。
下手に順延などしたら、日程の調整にも問題が出る。それに既に二試合は終えているのだ。
(グラウンドの整備はされているけど、完全かどうかは分からない)
セイバーには雨の時のデータを修正する方法を持たない。
シーナに聞きながらの采配になるだろう。それにそもそもの情報が反映されるのか。
不安の中で試合は始まる。
戦場の霧という言葉がある。
いくら計算をしていても、実際の戦闘においては不確定要素があり、それが戦闘の勝敗を左右してしまうことだ。
雨の日の練習は、怪我の危険性があるために、屋内練習に切り替えていたセイバーであったが、ここに認識の相違があった。
MLBなどのリーグ戦では、一つぐらい負けてもいい。
短期決戦のワールド・シリーズさえ、一試合でその優勝が決まるわけではないのだ。
だが高校野球は、一度負けてしまえば終わりだ。
雨の中でさえも戦う。そんな準備を白富東はしていない。
そもそも雨の中での試合のための練習など、足元がゆるんで危険だ。故障の危険を考えてそんな特殊な状況の練習をするなど、合理的ではない。
そう、統計的には合理的ではない。雨でも出来る他の練習をすればいいだけなのだから。
だが現実において雨の中で試合が行われれば、雨の中でも練習をしていた方が、経験値は高い。
セイバーは統計的に考えるがゆえに、この試合においてはデータが役に立たなくなっている。
「日本の高校野球は、これぐらいの雨でもやるんですね」
「まあこれぐらいなら。それを考えて雨の中でも練習をするチームはあるんですけど……」
白富東は行っていない。
非効率的な練習。確かにそうだろう。
だが実戦的な練習ではある。これぐらいの雨なら、普通に行われるのだから。
だがジンにしても、シニア時代にこれぐらいの雨で試合をしたことはあまりない。
雨で起こりやすいのは、まず球が転がらない。
そしてフライに追いつけない。送球がすっぽ抜けるなど、様々な不確定要素が増える。
こういった雨の時には、ゴロを打たせたりするピッチャーよりも、ストレートで三振を取っていくピッチャーの方が有利だ。
もっとも雨に弱いタイプのパワーピッチャーというのもいるのだが。
この試合、大阪光陰が後攻を選んだ。
実力がほぼ互角であったり、あるいは下である場合は、先取点を取りに先攻を取ることが有利とも言われている。
だが実力的に上回っていると確信できるなら、後攻を選択するというのもありえる。
特にピッチャーがいいチームと戦う場合は、まず相手の攻撃を完全に封じて、その機先を制することが重要だったりもする。
白富東はこの大会、大介が絡んでいない得点は一点しかない。
甲子園で超強豪が出来ることではないが、大介で勝負をされなければ、点が取れる可能性は低くなる。
もっとも白富東としても、大介がランナーで出れば、盗塁で先に進めるのだが、それも雨でぬかるめば、守備側が有利になる。
大阪光陰の二枚看板の一方、荒れ球で知られる福島は、あっさりと手塚とジンを三振にしとめた。
球の威力という点では、あるいは神奈川湘南の玉縄より上かもしれない。
だが速いだけなら、大介は打てる。
この小さなスラッガーに対して、大阪光陰のキャッチャー竹中は、全く油断していない。
初球のアウトローがぎりぎりに決まった。
福島のコントロールは、ゾーン内では割とアバウトなのだが、左右の打者に対するアウトローだけは、しっかりとコントロール出来るようにしてある。
二球目のアウトローは、ゾーンから一つ外す。
このわずかな違いのボールを、大介は強く叩いた。
左の打者がアウトローをフルスイングして、ライトへの大きなファールフライとなる。
体勢を崩しながらも、完全に引っ張っていった。
スタンドの最上段にまで、福島のボールを引っ張った。
さすがに青くなる福島だが、竹中は冷静だ。
ボールになったアウトローを引っ張ってファールフライというのは確かにすごいが、点を取りたいという気持ちが強すぎる。
これで圧倒的に投手有利のツーナッシングにまで持ち込めた。
大介としても、しとめそこなったという感覚はある。
ここでおそらく内角を攻めてくるか、変化球が来るか。
しかし福島が投げたのは、アウトロー。一球目と同じコース。
ここなら打てる、とスイングするバットの先で、わずかに逃げる。ツーシームだ。
タイミング的にカットも出来ない。
「っ!」
振りぬいたバットが、ボールを高く上げていた。
レフトのファールゾーンでキャッチされ、第一打席は凡退であった。
正直なところ、あれだけ体勢を崩されたバットの先で打って、あそこまで飛ぶというのが驚きである。
大阪光陰の木下監督の思考を体現するキャッチャー竹中は、少なくともあの小さな三番は要注意だと判断した。
(けれど福島の持ち球だと、次も抑えるのは難しいな)
大介は二回戦の歩かされた場面で、盗塁を決めている。
先頭打者で塁に出したら、盗塁と送りバントなどで、点を取られる可能性はある。
相手のピッチャーは一回戦で天凛相手にノーヒットノーランをやっているのだ。下手に先取点を取られたら負ける。
ピッチャーの攻略は監督に任せた上で、竹中は一点も取られない封じ方を考える。
あの打撃力を打線の中では発揮させず、単打までに抑える。
五回まで無失点に抑えて加藤につなげれば、なんとかなるだろう。
竹中がそう考えているのに、木下は任せている。
白富東は打力自体はそれほど高くない。ただボールをしっかりと見てくるのは厄介だ。
福島の馬力で五回までを確実に失点を抑え、加藤につなげる。そこからも着実に打者を打ち取っていく。
どれだけ優れたバッターでも、ホームラン以外に一人で点を取るのは難しい。
そしてホームランを狙ってくるなら、外したボールで空振りが取れるだろう。
白富東としては、大介が初回で抑えられたのは、甲子園では初めてである。
もっともここまで最初の打席で勝負してきたのが、明らかに甘く見ていたからだというのはある。
外角のボールを出し入れして変化球を使ったところが、キャッチャーのリードとしては素晴らしい。
(俺より上のキャッチャーだな……)
ジンとしては外角だけで大介をしとめるという発想はない。
それに大介はツーアウトからだったので、長打を狙っていた。特にホームランだ。
福島のボールは吉村や玉縄に比べると、伸びはないのだが荒れている。
ゾーン内に散らす球威だけでバッターを三振にさせるパワーピッチャーだ。
(アウトローの出し入れだけはしっかりしてたか)
分析するも、それは後のことだ。
雨の中の投球。直史とは経験したことがない。
どうやってリードしていくべきか、今から悩まざるをえない。
大阪光陰のバッターは、秋の大会ではそれほどのホームランを打つ上位打線ではない。
むしろ長打だけなら、パワーピッチャーである福島や加藤の方が多い。
しかし単打ばかりをコツコツ積み重ねてくるわけではなく、外野の頭を越える打球と、外野の手前に落とす打球を使い分けてくる。
小器用と言ってしまえばそれまでなのだが、それで毎回のように点を重ねていくのだ。
単純なパワーピッチャーでは通用しないし、変化球主体の軟投型も難なく打ち崩す。
それでもまだ直史のほうが、相性はいいはずだ。
(あとはこの雨か)
直史は特に何も言わないが、自分のコンディションを保つことは上手くても、ひどいコンディションの中でなんとかする投球が可能なのか。
肌寒ささえ感じるこのセンバツの雨の甲子園。
崩れるとしたらピッチャーではなく、外的な環境からになるかもしれない。
変化球の多い投手だとは分かっていた。
特に目立ったのは、追い込んでからのジャイロボール。
なんでもスルーと名付けられたらしいあれは、確かに魔球の一種なのだろう。
「縦スラに近いらしいけど、どないや」
まずは先頭打者の堀に、その見極めをさせる。
その試合の先頭打者というのは、基本的には器用なタイプがいい。
相手のピッチャーの調子を計り、球種を投げさせ、そのコントロールなども確認する。
既にデータが集まっているピッチャーでも、その日の調子はあるだろうし、実際に見た印象を伝えるだけの語彙力なども必要になる。
堀はそういった点ではうってつけのバッターであり、チーム内での綽名は偵察隊長である。
その堀に対して、白富東のバッテリーはスローカーブから入った。
「ットライ!」
微妙な判定だが、あれぐらい遅くてちゃんとゾーンを通っていたら打てということだろう。
確かに一回戦でも、一番多く使っていたのはカーブ系だ。
もっとも球速や落差など、かなりの種類があったが。
先頭打者は初球は見てくると思っていても、このスローボールを要求し、そして平然と投げてくるバッテリーだ。
なるほど天凛をノーノーで倒しただけのことはある。
(なら二球目はどうだ?)
今度は甘い球がきても見送らず、カットしにいくつもりの堀である。
そこに投じられたのはインハイのストレート。
カットするはずの堀のバットの上を、ボールが通り過ぎていった。
球速表示は134km。速くはない。いや、昨今の甲子園投手の高速化を考えれば、遅い方かもしれない。
だが体感としてはもう少し速かったし、綺麗に伸びてきた。
鞭のようにしなる腕が、投げた後の体に巻きつく。
秋の大会の映像から見るに、ストレートはもっと簡単に打てそうだったのだが。
監督の言う通り、やはりセンバツで秋の情報を信用するのは間違いである。
(ツーストライクと追い込んで、次は決め球か?)
あのジャイロボール。秋の大会では奪三振の原動力であった変化球。
しかし三球目はストレート。アウトローに決まる。
(低い)
「ットライ! スリー!」
ミットの位置は、確かにストライクぎりぎりか。
二番打者の小寺には、あまり渡せる情報もない。
「ストレートが体感10km増しぐらいに思っとけ」
「了解」
ベンチの木下に報告に戻るが、木下はベンチの中で仁王立ちである。
選手からの情報を得るとき、彼は自分も立つか、選手を隣に座らせる。この場合は前者か。
「ストレートは球速以上に感じます。少なくとも最後のボール、ボックスの中では低いと思ったらぎりぎりに入ってました」
「変化球は見れへんかったな」
「カーブは緩急差をつけるのに有効です」
「一巡目は見ていかんとあかんかな」
「そのレベルです」
木下は頷く。
大阪光陰のデータ分析は、全国まで出てくるチームのことなら、全て研究してある。
まして一年の豊田は、キャッチャー大田とシニアでバッテリーを組んでたほどだ。
少し体格は小さかったが、誘ってはみたのだ。
だが単に強豪で野球をやるだけなら、他にも誘われていると言っていた。
(まさかこの公立がそんなわけあらへんけど、佐藤と白石はどっから出てきたんや)
中学軟式まで調べると、かろうじて大介の名前は出てきた。もっともスコアさえ手に入らない、序盤で負ける程度の学校だったが。
しかし佐藤直史は、完全に中学時代無名であった。一応出身中学は分かったが、それだけだ。
一年の春に突然現れて、その大会で勇名館を破っている。
夏の大会には勇名館に逆襲されて甲子園を逃しているが、内容的にはむしろ勝っていた。
その勇名館の夏の甲子園を終わらせたのが大阪光陰であるのだが、エースの吉村は完全にそこまでの試合で消耗していた。
秋の関東大会も、決勝で神奈川湘南に負けるまでは勝ち進んでいた。
その決勝も直史の投げた七回までは、無失点であったのだ。
背番号は二年生投手が1を付けているし、一年生のもう一人の方が数字は小さいが、実質的なエースはこちらだ。
神奈川湘南の、あの強力打線を七回まで無失点というのは、大阪光陰でも難しいだろう。
(ほんまなんでこんなん、中学時代は無名やねん。いや、今見てもパワーは感じひんけど)
二番の小寺に対しても、変化球でストライクを稼ぐ。
そしてアウトローの逃げるカットボールで料理した。
(堀への投球を布石につこうとる。大田はやっぱ取っとくべきやったか)
大阪光陰も竹中の後を次ぐキャッチャーはいるのだが、打撃はともかくインサイドワークが微妙なのだ。
(来年の新入生はキャッチャー最優先やな)
堀と木下が予想した通り、試合は投手戦となった。
三回まで両者パーフェクトピッチングであるが、球数はやや福島の方が多い。
そして四回の表は、ツーアウトから大介に回る。
竹中としてはこいつは、歩かせてもいいバッターだ。
だが福島が首を振る。ボールから入るのを嫌っている。
自然とボールが多くなり、そのまま歩かせるという手段を取りたかったのだが、勝負にこだわってくる。
(仕方ない。じゃあアウトローのストレートを、今日のめいちで)
福島はアウトローのコントロールだけはしっかりとしているが、実は力んだ時にはナチュラルでシュート回転がかかる。
このわずかなシュート回転で、相手から空振りか凡打を取りたかった。
かすかに逃げていくボールを、しっかりと大介は追いかける。
腰を落として腕を伸ばしたまま、腰の回転をたたきつける。
ドライブ回転のかかった強烈な打球が、ショートの頭の上を越えていく。そしてそれは左中間も破った。
ツーベースヒット。ようやくランナーが出た。
得点圏にランナーがいるが、ここで出来ることはあまりない。
大阪光陰バッテリーは、盗塁を阻止するのも相当に上手い。大介の足でも盗塁は難しいし、グラウンドのコンディションも悪くなってきた。
(佐藤君を四番の方が良かったですか)
岩崎は結局内野フライに倒れて、ランナーは残塁。
やはり打線の軸が大介一人だと厳しい。
(あの子が来年入ってくれば、三番と四番か、一番と三番で使えば……)
この試合に勝てるかどうかはともかく、既に戦力の補強については、頭の中で考えているセイバーである。
均衡が崩れたのは、五回の裏であった。
この回先頭の、大阪光陰の四番初柴が、なんとセーフティバント。
完全に虚を突かれていたのと同時に、グラウンドが水分を含み、ボールが止まる。
直史がこれを処理して一塁に投げたが、ぎりぎりでセーフ。
初柴は走れる四番なのだ。
狙い通りにランナーが出せて、ようやく相手のパーフェクトピッチを止めた。
考えてみれば甲子園で、13イニングノーヒットノーランであったのだ。たいしたものだ。
(けれどフィールディングもええんか。あんまりバントヒットは狙えへんな)
しかしノーアウトのランナーだ。ここでどう対応出来るかで、ピッチャーの器量は決まる。
大阪光陰も、このチャンスを逃すつもりはない。ここで狙って一点を取る。
ピッチャーにもバッターにも才能のある選手はいるが、甲子園の頂点を狙うには、それだけでは足りないのだ。
初出場でベスト8。その思い出を持ってチバラギに帰れ。
全国最強のチームが、わずかな隙に襲いかかろうとしていた。
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