1516 解禁
暦の上では春が来て、佐藤家においては三人の受験生のうち一人が、必死に受験勉強のラストスパートを行っていた。
例年ならばまず大丈夫という成績であるのに、今年の白富東は、野球部のセンバツ出場が決まっていたため志望者が多くなったのだ。
全国模試の上位に平気で名前を乗せる双子の妹と違って、武史はかなりぎりぎりのラインなのである。
佐藤家は今どき珍しい四人兄弟という家庭なので、なかなか教育にも金がかかるのは避けたい。
一応私立も一校滑り止めで受けさせてもらったのだが、出来ればそちらは入学金だけで済ませたい。
両親ではなく兄や妹たちの言葉から、武史もそれは分かっている。
妹たちは天才である。教科書を全部憶えれば全て応用が利くなどと言われては、武史としてはどうしようもない。
兄の直史はまだしも努力型ではあるが、高校入試においては全てのリソースを受験に注いぐというまた違った意味でのでいたため、武史はまた違った方法で受験をするしかなかった。
そんな状況であるので、直史は甲子園出場が決まっても、家の中で騒ぐことはない。
本人は全く感情の色を見せず、勉強を続ける弟に対して、さりげなく気を遣ってくれたりする。
武史としても兄の存在はありがたいのだが、そもそも去年の春から、直史は機嫌が良かった。
中学時代は部活の試合があるたびに、むっつりと口数が少なくなるのだ。
ピッチャーをやりだしてからは、何本ヒットを打たれて負けた、と言うことが多く、次第に何個エラーがあって負けた、と言うことが多くなった。
野球部の実情を知っている武史としては、あの野球部じゃそりゃ勝てないわな、とずっと思っていたのだ。
高校に入ってまで、野球を続けるかは微妙だったと思う。ただ入学式から帰ってきた直史は、機嫌が良かった。
やっとまともに勝てそうなチームに入れたと言って。
そして兄は新聞に載った。
夏の試合は残念だった。
ただあれだけエラーの数で中学時代は敗北を彩っていた兄が、あの試合の責任をエラーのせいにはしなかった。
ただもう少しで勝てたと言うだけで。
秋の終わりに連れて来た大介は、武史から見ても小さかったが、あれで何本もホームランを打っていたのだ。
中学の小さなグラウンドでなら、直史もホームランを打てたはずだが、県営球場などではそうそう簡単なはずもない。
直史は自分では思っていないかもしれないが、身近にいる弟の武史の立場から見れば、かなり野球が好きである。
あれだけ味方のエラーに足を引っ張られても、まともな守備陣がいることを期待して、高校でも野球を続けたほどなのだ。
直史としてはこの冬の間を、技術の研鑽と体力づくりにあてた。
はっきり言うと直史は、筋肉がすぐにつくタイプの体質ではない。
ただ贅肉も付きにくく、体の柔らかさは一級品である。
そして何より自己制御に長けていて、長い冬を地味なトレーニングを繰り返し、絶対的なコントロールを身につけた。
今の直史はもちろん四隅を狙うコントロールは持っているし、それを変化球でも可能としている。
さらに変化球の変化量と、どれぐらいのスピードで投げ込むか、むしろフォーム改造の前よりも良くなっているのは、全てを合理的な動きに変えたからだ。
球速もMAX137kmと、ブルペンではやや上がって計測されている。
そして佐藤家では弟たちの高校合格が決まり、直史はセンバツ行きの準備をする。
初出場のセンバツとは言え、レベルの高い関東大会で、実力で決勝まで残って選ばれたのだ。
センバツ決定以降は地元の応援と、報道機関の取材攻勢がすごく、セイバーも対応に苦慮したものだ。
彼女にとって重要なのは、試合に勝ち続けること。
その彼女にとっても一年目でここまで勝ち進むことは、予想外のことであった。
明晰な頭脳で考えるのは、あくまで確率論。
全国の強豪校のデータを集めに、スタッフが日本各地に飛ぶ。
集めるデータは単に投手の球速や防御率、打者の打率やOPSなどだけではない。
平均的な野手の守備範囲。また打球の速度。
ゴロ率にフライ率。あとは監督の選択する戦術。
ピッチャーに関しては球速よりもむしろ変化球の各種割合などである。
発表から大会までに、二ヶ月ほども時間がある。
練習試合禁止期間が長いだけに、試合でのデータを取ることは出来なかったが、見える限りの練習は解析してきた。
すると確率的には勝てるチームと、勝てないチームが分かれてくる。
(大阪光陰、帝都一、日奥第三、仙台育成、名徳、天凛、福岡城山、津軽極星、花巻徳政、理聖舎、横浜学一、神奈川湘南)
これらのチームは戦っても、おそらく勝てないチームである。ヨコガクには勝っているが、もう一度戦えば負ける。
県大会で一度選抜され、そこから各地区大会で選抜されている春は、出場チームのレベルの平均値は、夏よりも高いのかもしれない。
だがこれらのチームに勝つ術も見えてくる。
大介が打ち、直史が投げる。
簡単に言うとこれだけだ。
そして冬の間の岩崎の成長も、セイバーにとっては嬉しい誤算であった。
岩崎は元々、選手の型としてはかなり完成度は高かった。
だがそれは急激に伸びることはもうないだろうとも思われていた。そして事実その通りではあった。
急激ではないが、予想しうる限りでは最大の伸び。
それが冬の間に彼が成し遂げたことだ。
白富東の選手たちは、基本的に地味な練習やトレーニングでも、それの意味が理解できれば黙々とやる。
取材に来たマスコミは、ずいぶん静かな練習ですねなどとも言ったが、セイバーとしてはこれがスタンダードである。
白富東の練習や試合は、声が少ない。
それは試合に無関心というわけではなく、状況を見定めるのに必死だからだ。
得点を取るのが試合の前半であれば、それは上位の打線であることが多い。
そして下位打線は、ほとんどが試合の後半でしか得点していない。
相手の事前情報に目の前の分析を加えて、ようやく攻略法を見出してくるのだ。
白富東は甲子園へと出発した。
東京からは新大阪まで新幹線で、そこから乗り継いでバスから宿舎へ。
今年は千葉代表は一校だけなので、毎年使われているという宿舎へ。
コーチ陣の滞在費用などは出ないので、セイバーが実費で払う。
集まった寄付金から出せるのだが、それはそれとして置いておく。
彼女は自分が使った金は、全て自分の懐から払うのだ。
甲子園史上初めての女性監督が、金髪碧眼のアメリカ人。
正確にはアイルランド系で米国籍も持っている日本人なのだが、これにはマスコミも食いつく。
だがセイバーはボディーガードを雇っていて、基本的には塩対応だ。
マスコミ対策などは、ほとんど高峰に任せてしまっている。
セイバーはノックも打てない。
練習用グラウンドの中で、セイバーの代わりにノックを打つのはコーチ陣と、シーナである。
女子マネが鋭くノックをする姿は、それなりに被写体としては優秀だったようだ。
そして数少ないインタビューへの答えで、セイバーも言ったものである。
「彼女が選手として出られたら、うちも優勝の可能性があるんですけどね」
この発言は大きく取り上げられた。
甲子園球場での短時間の練習。
セイバーとしてはそれよりも、対戦相手の分析の方が重要である。
初戦の相手は、準地元の関西、奈良県代表の天凛高校。
毎年強打のチームであり、負ける時はあっさり負けるが、全国制覇の経験もある。
守備の緻密な連繋はあまりなく、強い球をしっかりと捕る練習をしている。
そして今年は左右に二枚のピッチャーを持ち、かなりの戦力が揃ったと言われている。
甲子園にはシードはない。完全にくじの運でトーナメントが決まる。
天凛高校は最悪とまではいかないが、割と強い高校である。
だが白富東の現在のチーム構成としては、相性がいい。
天凛は左右のピッチャーを持っているので、継投させてくることが多い。
そして打線陣は速球が大好きであり、踏み込んで強く打つことをモットーとしている。
つまるところ直史が相性がいい。
ピッチャーを代えてくるということは、大介ともそれぞれ最初の打席では勝負することが多い。そもそも敬遠はなるべくさせないという方針らしい。
まあ敬遠をするというのは、甲子園の観客にとってはあまり嬉しいことではない。
次の試合もそれほど強いところが上がってくるわけではない。だが問題はベスト8まで勝ち残ってからだ。
トーナメント通りなら、大阪光陰が上がってくる。
去年の春夏連覇のチームであり、史上初の甲子園三連覇を狙っているのだ。
秋の近畿大会でも決勝で惜敗したが、ほとんど優勝校と差のない試合であった。
夏の大会のレギュラーも、キャッチャー、サード、セカンド、ショートの四人が残っており、ピッチャー二人も去年の夏の甲子園で投げている。
(内野ゴロの刺殺率は極めて高く、秋の大会もエラーは一つ。強いて欠点を言うなら一人で決めるタイプのバッターがいない)
素質だけを見るならピッチャー二人の方が、長打などは多いらしい。
大会三日目が、白富東の初戦である。
センバツはさすがに夏ほどの熱気はないが、白富東の試合のある三日目は、他に甲子園常連の人気チームもあり、かなりの観客動員数が予想される。
そしてセイバーの統計は、グラウンドの外にも及ぶ。
グラウンドの外であって、球場の外ではない。
応援席、そして試合自体の統計だ。
ホワイトボードで説明する彼女だが、実のところこれは自分の専門外のことである。
「関東や東北の無名校が初出場して、関西の常連校と初戦で対戦した場合は、勝率は5%以下です」
関西や中国、四国はまだマシなのだが、特に東北などはひどい。
センバツはまだマシだが、夏の甲子園ではさらに勝率が低くなる。
「この原因は、単純に選手や指揮官の甲子園慣れなどもあると思いますが、大田君曰く、応援が問題ということですね」
ジンは父の鉄也も甲子園には行っていないが、選手を見るために甲子園には毎年毎回行っている。
なのでどういうチームが勝つか、選手の実力とは別のベクトルで分かっている。
白富東は前年夏も準優勝、甲子園常連のトーチバなどを破り、関東大会でもヨコガクやウラシュー、刷新などの超強豪や超名門を破ってきた公立校ということで、多少以上の知名度はある。
しかしそのプレイを見た者は少ない。
甲子園の観客というのは、スタンド席の各チーム応援を除けば、地元の大阪や兵庫の住人が多くを占める。
応援は地元の近畿のチームや、常連のチームに偏るのだ。
そしてこの応援の後押しというのが馬鹿に出来ない。
まあ白富東もマリスタで熱狂的な応援を見ただけに、ある程度は分かる。
関東大会でも神奈川湘南には地元の応援の後押しがあった。
高校野球における応援の、選手のメンタルに及ぼす割合は大きい。
精神的な優位さ。セイバーはこれを軽視していない。精神論とは別の問題だ。
そしてジンからの意見を聞いて、一回戦の攻略法を思いついた。
もっともその一歩目は、50%の確率に頼ることになる。
「先攻を取って、白石君にホームランを打ってもらいます」
どういう作戦だ。
しかしちゃんとその理由はある。
「甲子園のお客さんに、白石君のファンになってもらうんですよ」
なるほど。
日本人は判官びいきが好きだ。もちろん程度はあるが。
大介の体格でホームランを打っていく。そんな選手は好きにならずにはいられない。
神宮にも出なかった大介のバッティングを、関西が知るのは初めてになるのだ。
吉村や実城に比べれば、天凛のピッチャーは絶対に格下だ。
そんなピッチャーが大介に、体格から舐めたボールを投げてくれば、狙ってホームランが打てる。
「一打席目はおそらく、普通にストレートで押してくるでしょう。二打席目はボール先行で様子を見てから、まだ勝負。ここで二本打たれたら、おそらくピッチャー交代です」
確かに同じ打者に二本も連続で打たれたら、ピッチャーは代えたくなるだろう。
「そして代わったピッチャーも、おそらく慎重にですが最初の打席は勝負してきます」
慎重な監督なら歩かせるだろうが、天凛はそういったチームではない。
「最終的なスコアは3-1で勝ちましょう」
それでも一点ぐらいは、確率的に言って取られるだろう。
「佐藤君はとにかくゴロを打たせて、ストレートは大事なところで使いましょう。ただ初回は三者凡退。特に先頭打者は三振で切ってほしいです」
あくまでも統計の問題なのだが、セイバーの言うこともかなり無茶である。
だが、重要なのは二点。
「白石君は初球のストレートを叩く。佐藤君は初回を三者凡退で抑える。これで勝率は60%ぐらいです」
それでも60%か。
甲子園も試合が進み、強豪が負けたり、初出場が勝ったりする。
そして大会三日目第三試合、白富東の初戦がやってくる。
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