1512 神奈川を制するもの
野球マンガにおける不朽の名作「ドカベン」の主人公が高校野球で所属するのは、神奈川県のチームであった。
甲子園には五回出場して四回優勝と、大阪光陰でもPLでも不可能だった記録を作っている。
なお現実においてはPLが優勝二回、準優勝二回、ベスト4一回という実績をKK世代において成し遂げている。
ここ最近で甲子園で実績を残したチームは、やはり春夏連覇の大阪光陰が挙げられる。
上杉勝也の春日山は、一年時の夏にベスト8で敗退した以外は、全て決勝に進出している。一度も優勝は出来なかったが。
まあそんな野球マンガのバイブルとされる作品が存在する神奈川は、現実でもものすごく強い。
プロ野球球団が所属しているというのも、その人気を語る上では重要なことだろう。
関東地方で神宮大会を優勝しているのは、神奈川県と埼玉県だけである。
チーム数でも東京と北海道を別とすると、愛知に次いで二番目に多い。優勝回数最多の大阪より多いのである。
もっともチーム数だけならば千葉県も相当多いのだが、やはり関東の強豪は東京と神奈川であり、それに次いで埼玉の躍進が著しい。
神奈川湘南は現在、県内においてはまさにドカベン並とまで言われることがある。
実城と玉縄の能力はそれほどまでに高いのだ。
ただドカベンと違うのは、悪球打ちの一番はいないし、秘打を打つ二番はいないし、四番はキャッチャーじゃないし、エースはアンダースローでないことだ。
つまりほとんど違うわけだが、強さだけは同じと言われる。
確かに超強豪地区の神奈川で、三期連続で甲子園出場を決め、四期目も当確しているチームなど、そうはないだろう。
他の県には、ほとんど一強と言われたりするチームもあるのだが。
その神奈川湘南の一回の裏の攻撃は、はっきり言って不気味であった。
先頭打者だが同時にホームランも打てる大石が、直史のボールを見てきたのである。
直史は初球から振ってくるこのチームの対策をジンと共に考え、カットボールやツーシームでゴロを打たせ、他のボールは撒き餌に使う予定であった。
しかしボールゾーンに逃げていく球には手を出さず、ツーストライクまでは慎重に見極め、かといってただ見逃すわけではなく、甘い球には手を出してくる。
結局はいきなりスルーを投げさせられ、九球を要した。
待球策であろうか。
直史とジンは同じ結論に達したが、ならばそれなりにやりようがある。
遅い変化球でストライクを取りにいく。だが二番の藤田はこれをあっさりとファールゾーンに飛ばした。
打たないだけで、打てないわけではないと示すように。
(力を抜きすぎても、それはそれで狙われるか)
ジンは予定を変更して、ツーストライク目を落差の大きなカーブで取った。
ツーナッシングからは遊び球が入れられる。だがまず要求したのはストライクからボールになるスライダー。
これも藤田はカットした。
単なる待球策ではなく、確実にボールにタイミングを合わせていっている。
ならばと遅いスライダーの後にインハイにストレートを投げたが、これもカットされた。
結局またもスルーを使って、二者連続の三振。
明確に待球策を取られている。
しかし単純にカットしてくるというのではなく、打てる球をタイミングを合わせてファールにすることで、プレッシャーを与えてきている。
こういうバッティングが出来るチームなのか。
確かに長打力のあるチームであるとは聞いていたが、こういった攻め方も出来るのか。
そして打席には、三番の玉縄である。
実城は高校のホームラン記録を更新しそうなスラッガーであるが、その前の三番を打つ玉縄も、エースでありながらホームランバッターでもある。
今日は一番使われている打順であるが、実城が投げる時は五番に回って大道寺を四番にしたり、玉縄が四番に入ることもある。
150km近くを投げるのと共に、超強豪の四番レベルというのが、玉縄のスペックである。
純粋に実城には回したくない。
しかし玉縄も大石や藤田以上のバッターであり、簡単に打ち取れるものでもないのだ。
(こっちは三者凡退してるからなあ)
ジンの計算では神奈川湘南に勝つためのスコアは、1-0ではなく2-1なのだ。
先に相手に先制点を入れさせながらも、その後はなんとか封じて、ランナーがいる状態で大介に一発を打ってもらう。
もちろんそんな予定通りに試合は進まないだろうが、玉縄のボールを実際に体験したところ、吉村レベルの投手であることは間違いないのだ。
そしてもし白富東が粘って玉縄を崩したとしても、実城がマウンドに登るだけである。
実城は確かにバッターとして優れているのだが、全国レベルでも通用するサウスポーでもある。
実際に中学まではエースで四番と、まあ強豪にはよくいるタイプの選手であった。
さすがにサウスポーとして比べれば吉村の方が上であろうが、夏の大会で白富東が吉村から打てたのは、あちらがかなりバテてからである。
それも夏と違って北村がいなくなったこの状態で、どうにか一点を取らなくてはいけない。
難しい。
先に相手に先制点を取らせて、それで油断してくれるようなチームだろうか。
これはもう直史に、素直に三振狙いでピッチングをしてもらうしかないのか。
下手に打たせて取ろうとしても、難しい気がする。
「俺んとこ打たせろーっ!」
大介が吠えている。確かに大介の守備範囲は広いのだが、そもそもバッターが単純に打ってくれそうにない。
直史も相手の意図が分かっているのか、ジンからのサインにも厳しい顔で頷いた。
カーブを縦に使ってまずタイミングを外し、そこからスプリットを投げてゴロを打たせることを狙う。
だが玉縄はこのスプリットもカットしてファールにした。
沈む球を二球続けたので、ここでインハイのストレートで三振か内野フライを打たせたいのだが。
そのインハイを、玉縄は三塁側スタンドへのファールに飛ばす。
もう一度組み立てなおす。
カーブとスライダーを外に外して、そこからシンカーで内角を攻める。
これもまたカットされて三塁線の外を転がった。
直史の球を簡単にファールにする。
いや、ファールにすると最初から決めているから、ファールに出来るのか。
序盤は捨ててでも直史の体力を削り、中盤から一気呵成に攻めてくるのか。
(仕方ない。また使うけど)
スルー。伸びながら沈む球を、玉縄はわずかにかすらせ、それがジンのミットの中に収まった。
超強豪が、着実に勝ちに来ている。
待球策ではあるのだが、もっと攻撃的なものだ。
「とりあえず一巡目は玉縄のボールを見ることに集中して」
そう言いつつもジンは六番の角谷には、少しでも玉縄に数を投げさせるように依頼する。
だがこの回は四番の岩崎もストレートで追い込まれた後、スライダーであっさり三振。
直史に対しては制球重視で厳しいところを攻めた。
ピッチャーゴロに倒れて、角谷が打席に入る。
神奈川湘南の打撃への対策を考えなくてはいけない。
とりあえず向こうは粘ってくるつもりらしいが、おそらくそれは失投を待つという、積極的な粘りになるのだろう。
「ナオ、どうする?」
「そうだな……普通に投げてアウトを取っていっても、そう簡単に打ち取れるもんじゃないしな」
打たせて取る球を、上手くファールグラウンドに転がす程度の技術はある。
ホームランバッターが多い上位打線なのに、こんな器用な真似も出来るのか。
ツーストライクまでは好球必打で、そこからは粘ってくる。
ならば上手くスルーを使えば打ち取れるのではないか。
「緩急差をもっと極端につけて、どうにかゴロを打たせるか……」
遅い球の後のストレートを、フライで打ち上げたり空振りしないのが、球数が増える原因になっている。
神奈川湘南には、こんな攻め方をするというデータはなかった。
だからこれは、直史を攻略するために、特別に考えられた作戦だ。
直史のコンビネーションを、着実に削っていく。
スローカーブとストレートの緩急差でも打ち取れない。三振しない。
「チェンジアップを使うか」
「ここまであんまり見せてないしね」
単純に緩急差だけなら、カーブの方が変化量が多くて凡打にしやすい。
しかしタイミングを外すなら、リリースの時点では球種の分からないチェンジアップの方がいいだろう。
角谷が三振して、スリーアウト。
二回の裏、四番の実城からの打順が待っている。
神奈川湘南の実城は、おそらくこの時点において、高校球児の中では最高のバッターだろうと言われている。
名徳の織田や桜島実業の西郷も有名であるが、当てることと飛ばすことの両立という点では、やはり実城だろうと言われている。
その超高校級バッターが、打席に入る。
直史は別に緊張はしない。
プレッシャーなども感じない。
(何かあっても死ぬわけじゃないしな)
たかが野球、されど野球。基本的に直史はそう考えている。
究極的に言えば、日本式の野球には向いていないのだろう。だがセイバーの指導においてはそれでいいのだ。
ホームランさえ打たれなければいい。
そう考えてデータどおりに、実城のホームラン数の少ないアウトローに、いきなりチェンジアップから入った。
これは実城にとっては少し意外であった。
もちろん直史はチェンジアップも使うが、緩急差を使うときに一番投げるのはカーブなのだ。
ただこの配球の欠点は、カーブはリリース時の軌道で見切られるということだ。
初球でストライクは取れたものの、実城はバッターボックスの一番後ろまで下がった。
ぎりぎりまで球を見て、それに対処しようというつもりなのだろう。
超高校級の打者がそこまでするかとも思うが、やれることはやるのが実城という男なのだろう。
二球目は懐深くに入るカットボール。
引き付けて打った実城の打球は、ファーストの顔の横を通りぬけ、ファールグラウンドのフェンスを直撃した。
そのまま当たったら死人が出そうな打球であるが、これでツーストライクにはなった。
普通なら外に外したゆるく沈むボールに目を慣れさせて、高めにストレートのボール球を振らせたりするのだが、その程度の組み立てでは通用しないだろう。
苦心してリードするジンであるが、ベンチではセイバーが冷静に呟いていた。
「佐藤君はストレートを改良する必要がありますね」
既にこの試合の先を見ている。
粘られてスルーを使うという、一番安易な使い方をしている。
これで三振かボテボテのゴロには打ち取れているのだが、夏の大会で使ったほどの、スピンをかけられていない。
指先の感覚が麻痺しないように、全力投球はしていないのだが、これではいつか捕まるだろう。
五番の大道寺は追い込んだら、早めに全力のスルーを使ってみた。
これで三振は取れたが、力技で三振を奪うのは、直史のスタイルではない。
それにこういったスルーの使い方は、あまりよくないのだ。
指先の感覚に負担がかかるのもそうであるが、追い込んでからスルーばかりを使うなら、この球の特性上、甘い球も入ってしまう。
もちろんそれでも沈んで三振は取れるのだが、沈んで伸びる具合をつかまれたら、打たれる可能性はあるのだ。
二回の裏を終わって、三者凡退は続けているが、既に球数が36球となっている。
このペースでいけば150球を軽く超える。そしてもし球のキレが鈍れば、そこからは相手の圧倒的な打線が火を吹くだろう。
このまま粘り強く相手の打線を封じて、痺れを切らすのを待つか。
神奈川湘南がずっとこの作戦を続けていれば、おそらく直史の体力切れの方が早い。
大介を使ってどうにか先制点を取って、相手の攻撃を誘発する。
それが拙攻になってくれれば、直史で相手の攻撃を封じきることが出来る。
はっきり言って岩崎では、神奈川湘南のタイプの打線を封じるのは、かなり難しい。
(体力もだけど集中力も、最後までもつのかな……)
全国でも超強豪と呼ばれるチームが、ここまで容赦のない作戦を立ててくる。
光栄ではあるのかもしれないが、少しぐらい油断してほしいな、と内心では弱音を吐くジンであった。
×××
注)2021年時点で、現実においては関東で神宮を制しているのは神奈川代表だけである
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