Ex8 魔女の森2 イリヤの涙

注:超弩級傑作『タッチ』のあまりにも有名なネタバレがあります。特に10巻ぐらいまで読んでいない人は、この回は読んではいけません。


×××


 必死でアニメのオープニングを編曲しなおしているイリヤが、部室の中でふと口にした。

「そういえば『タッチ』って、話は面白いの?」

 控え目に言って駄作や凡作のアニメのOPを編曲していたイリヤは、まだタッチを読んでいなかった。

 その言葉に、部室の中が凍りつく。

「え? 何か変なこと言った?」


 当惑するイリヤに、野球部員たちはぬぬぬとうなるのだが――。

「まあ30年以上も前の作品だしな」

「読んでなくても仕方ないのかな」

「まあ俺らも、タッチより先に他の作品で野球始めたとかあるからな」

「純粋な野球マンガとしてはちょっと王道じゃないしな」


 その説明に、イリヤはやはり首を傾げる。

「面白くないの?」

「「「めっさ面白い」」」

 一同の台詞が揃った。

「こんなかにタッチ読んだことのないやついるか?」

 手は上がらない。

「え? 30年以上も前のマンガなのに、皆読んでるの? ちょっとよく分からないんだけど」

「あ~……」

「まあうちは手塚が布教したってのもあるけど」

「今から考えるとありえない展開もあるけど」


「歌詞も聴いてみたけど、スポーツ物のOPってより、シリアスラブコメ系の曲じゃない?」

「う~ん、否定出来ないけど」

「二曲目と三曲目もいいんだよな」

「劇場版も俺はけっこう好き」

「背番号のないエースとかな」


「なんだか、皆ものすごく好きみたいだけど?」

 当惑が深まるばかりのイリヤである。

「好きって言うか……義務?」

「義務って言うか、あれ読んで野球始めた人とか多かったろうな」

「うちの親世代がそうだよな。アニメの視聴率もえぐかったし」

「俺『アオイホノオ』で強烈なネタバレくらってから読み始めたんだけど……」

「島本ぉっ!」

「島本和彦は許されないことをやっちゃったね」

「まああの当時の反応を知る上では一級資料だけどね」

「あれもう庵野が主人公になってるじゃん」


 凄まじいまでの影響力のある作品とは分かったイリヤである。

「つーかイリヤ、これからネタバレなしであれ読めるの?」

「うわー、すげえうらやましい」

「なんだかんだ言って、ネタバレ知っててから読んだやつの方が多いだろ」

「野球やってたら自然とネタバレ入ってくるからなあ」

 ちなみに野球部の部室には、おおきく振りかぶってとラストイニングは全巻揃って置いてある。


 やはりタッチも読んでおいた方がいいらしい。ここに置いてないのに。

「じゃあ私も読んでみるわ。電子書籍で売ってる?」

「売ってるけど、う~ん……」

「俺も持ってるのは電子書籍だけど、あれは電子書籍がない時代の作品だから……」

「そういや、うちに単行本であったよね」

 武史が言う。確かに叔父が置いて行った中に、タッチはあった。なお佐藤兄妹はネタバレなしでタッチを読めた、幸福な人々である。

「あ、じゃあ貸してくれる?」

「いいけど26巻もあるからなあ。一気に読まなくてもいい?」

「なら私が取りに行くわ。タクシー使えば楽だし」

「……ブルジョワめ」




 その日の解散後、本当にイリヤは佐藤家まで来て、タッチ全巻を借りていった。

「タクシーじゃなくてハイヤーじゃねえか、ブルジョワめ」

 見送った武史は悪態をつきながら家の中に戻る。

 もうすぐテスト前期間なので、さて勉強をするかと思って兄の部屋を叩けば、やはり兄も勉強をしていた。

 この兄は家にいる時は、ほとんど勉強をしているような印象がある。

 しかも学校の勉強ではない。法律と判例の勉強だ。

 本気で弁護士を目指しているらしいが、大変だろう。


 そんなわけでそれなりに勉強をしていた武史であるのだが――。

「ん? イリヤからか?」 

 スマホの表示を見てから電話に出る。

「おう、どした?」

『ねえこれって本当に名作なの? そもそも本当に野球物なの?』

「お前、そんなこと聞きに電話してきたのかよ。もうすぐテストだぞ」

『だからテスト前に全部読みきることにしたんじゃない』

 それはそうか。

『達也の方が主人公なの? いつになったらちゃんと本気になるの? これって兄弟で野球部に入って、二人で甲子園に行くのよね?』

「ネタバレはしねーよ。まあもう少し先になったら盛り上がるから」

『だいたい分かるわよ。和也一人じゃ甲子園まで行けないから、達也も野球を始めるんでしょ? それで兄弟で交互に投げながら全国制覇を目指す。どう、当たってる?』

「とりあえず外れだ。勉強しろ!」

 そして通信を切った。


 さて、風呂にも入ったし、そろそろ勉強も切り上げて寝るかという時間に、またイリヤからの電話である。

「どしたー」

 適当に声をかければ、電話の向こうからイリヤの泣き声が聞こえてきた。

『ガッヂャンガジンジャッダー!』

 何を言ってるのか分からないが、何が言いたいのかは分かる。

 鼻をかんでいる音まで聞こえてきた。

『ねえなんで!? なんでカッちゃん殺しちゃうの? あだち充には人の心はないの!?』

 いや、もちろんあると思うが。

『なんでこれだけコメディにしといて、なんでこんな展開にするの!? あだち充は本当に人間なの!?』

 人間以外の何がマンガを描くというのか。

『先が気になるから。じゃあね』

 なんでわざわざ電話をかけてきたのか。




 翌朝武史は、ごく普通に登校した。

 背後から肩をつかまれて振り返れば、顔を青くし目の下を黒くし、目を充血させたイリヤであった。

「……おはよう……」

「おはよう。徹夜で全部読んだわ」

 イリヤの顔がかなりイってしまっている。まあ普段から頭はおかしいのだが。

「武史」

「お、おう」

「交通事故で死んだりしないでね」

「俺かよ!?」

「だってあなたは弟でしょ?」

「弟だけど、幼馴染の女の子はいねーぞ」

 そのあたり妹はいるので、MIXが入っているかもしれない。

「桜と椿、新体操したりしないかしら?」

「うちは新体操部ねえだろ」

 汚染はここまでひどいのか。

 イリヤはやはり、ハマる時は徹底的にハマる人間らしい。


「ふんふんふふふふ ふんふふーふふふ ふんふんふふふふ ふふふふふふふ」

 鼻歌なんぞ歌ってらっしゃる。あのイリヤをここまでしてしますとは。

 タッチ恐るべし。


「ねえ武史、武史は私を甲子園に連れて行ってくれる?」

 こやつ、自分が南になった気分でいるのか。図々しい。

「つーか今年、普通に兄貴たちが連れてってくれるだろ」

 白富東の戦力は、そこまで充実している。

「直史達が卒業したら?」


 ふむ。

 そこまでは考えていなかった。

 頭脳でありまとめ役であるジンと、絶対的なスラッガー大介もいなくなるのだ。

 大介は下手すれば留年するかもしれないが、どちらにしろ三年目までしか公式戦には出られない。


 だが、冷静に考える。今の一年もそれなりに戦力は充実している。

 キャッチャーの倉田は冷静で頭がいいし、打つほうはアレクと鬼塚がやってくれる。

 それに守備陣も訓練されているし、どんどんと力を伸ばしていっている。

 正直なところ鷺北シニアの二年は別格として、一年にも余裕でベンチ入り出来る選手はいるのだ。

 あとは、投手か。

 ……あだち作品の主人公に、サウスポーはいなかったな。


「約束は出来ないけど、頑張ってはみるよ」

「大丈夫、武史なら出来るわ」

 言い切ったイリヤの表情が、いつになく無邪気で、少し武史は驚いてしまった。

「私を甲子園に連れていって」

 月まで連れて行くよりは、楽なのだろう。

 それにイリヤが応援してくれれば、自分は全力を出せる気がする。


 約束は出来ない。

 だが、努力はしよう。

 努力目標が必達であったりするのは、社会ではよくあることである。

 武史はなんとなく、二年後の夏の甲子園を幻の中に見た。

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