Ex7 白富東高校野球部・裏の軌跡2 応援おじさん
※セクシャルマイノリティが受け付けられない人は読まないことを推奨します。
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白富東高校野球部、そしてその周辺の熱狂を綿密な証言を集めて記された、渾身のノンフィクション『白い軌跡』。
これを読んだ当時者は、ほとんどが自分の描写に、にやにやと笑ってしまうのだが、多くの人が不思議に思うことが一つある。
あの人のことが、書いてない。
さらりと二行ほど書いてあるのだが、あの人についてはその背景なども、全く言及されていない。
だから後年、何か集まりがあるたびに、瑞希は問われることになる。
『応援おじさん』は何者だったのかと。
それについて瑞希が答えることはなく、またその真実を知ることは、最も応援された大介さえなかったのである。
白石大介が二年生の夏、ついに白富東は念願の、夏の甲子園初出場を決めた。
ここから瑞希は忙しくなり、生徒会などとも連絡を取り合って、多くの情報を集約していくこととなる。
その中にどうしても、彼女が調べるべきことが一つあった。
応援おじさんの真実である。
応援おじさん。彼が白富東の応援スタンドに姿を現すのは、大介が一年時の夏からである。それも、白富東が勝ち進み、テレビで映るようになってからだ。
だから彼のことを、テレビで目立ちたいだけの、暇なおじさんなのだと思う者もいた。
だが、違うのである。
確かにきっかけは、大介がテレビに映ったからだ。しかしその背景には、20年以上も前からの、届かなかった想いが込められていたのである。
彼の正体、たとえば本名などは、知っている人は知っていた。
だがどうして彼が、そこまで白富東の、大介の応援をしたのかは、誰もが首を傾げることであった。
彼は白富東のOBでもなく、また熱烈な高校野球のファンということでもない。
高校時代は吹奏楽部に所属し、同じ学校の野球部は強豪公立として甲子園を狙っていたが、彼自身が野球部の応援をすることはあまりなかった。
特に最後の夏は、吹奏楽部もコンクールの全国金賞を目指しており、1stトランペットメンバーである彼が応援することはなく、野球部も予選決勝で敗北したのである。
そのことを応援おじさんは、ずっと後悔していた。
コンクールで金が取れなかったのも悔しかったが、果たせなかった約束のため。
「お前らが応援してくれたら、きっと甲子園も行けるさ」
プロにまで進んだ彼は、応援おじさんの高校の四番であり、後に神奈川グローリースターズに入り、わずかな活躍の後に事故で選手生命を失った。
大介の父である。
トーチバを破り、甲子園行きが決まったその日。
マウンドで抱き合う選手たちを見て、彼はトランペットをケースにしまった。
普段から白富東のブラバンなどからは、一緒に祝杯を上げようと誘われる彼である。
それに付き合うこともあれば、用事があって謝絶することもあったが、この日だけは一人きりで祝いたかった。
だがそんな彼に、声をかける少女がいた。
「あの、すみません」
メガネをかけた、いかにも清純そうな、可愛らしい、とても綺麗な女の子。
初対面の人間に与える好感度は、おそらくかなり高いだろう。
「私、佐倉瑞希と申します。白富東野球部の記録を残している者です」
知っている。
ブラバンとは既に多くの会話を交わし、白富東の内部事情もかなり知らされている。
可愛くて、綺麗で、純粋な女の子。
それが憎らしくも、どこか懐かしい。
「話してもいいけど、書けることかな?」
そして用事があるはずだった彼は、瑞希をごく普通の喫茶店に誘ったのだった。
昔ながらの喫茶店といったところか。
茶色い木材が使用されていて、とても落ち着いた雰囲気がある。
彼はアイスコーヒーを、瑞希はアイスミルクティーを頼んで、会話が始まった。
「聞いても面白くないと思うわよ。それに、書いて良くなるとも思えないし」
その口調が微妙に変化しているのを、瑞希は感じ取っていた。
子供の頃から引っ込み思案だった。
運動は苦手で、だから運動が出来る人には憧れた。
そう、あの頃は憧れだと思っていた。
今の彼は、親が残してくれた土地にアパートを建てて、そこから上がってくる家賃収入で暮らしている。
あとは夕方から夜にかけて、友人の店でトランペットを吹いたり、昔の仲間と年に一度ほど演奏会を開いたりもする。
それが彼が、白富東の応援に、時間を取れる背景だ。
そんな彼の、高校時代。
厳しくも素晴らしい演奏で知られていた公立高校。
その同じ学年に、彼はいた。
四番でサード。女の子にも人気のかっこいい男の子。
特別に親しかったわけではない。だが同じクラスになった時、本当に偶然に、席が前後になったのだ。
もちろん顔は知っていた。向こうもこちらが、応援の演奏をしていることを知っていた。
太陽のような男の子だった。
周りを明るくする、誰にでもいい影響を与える、必死で頑張る男の子。
憧れた。
憧れだと思っていた。
それが憧れでなく恋だと気付いたのは、最後の夏を迎える前。
その時はもう、クラスは違っていたのだが。
「お前らが応援してくれたら、きっと甲子園も行けるさ」
応援依頼のため、音楽室にやってきた彼。
日焼けした、丸坊主のその顔が、とっても可愛らしく思えた。
自分の性癖を明確に自覚したのは、それが発端であったろう。
あの頃、野球部の応援を全校で一丸となって行うのは当然の時代だった。
しかし母校は、コンクールの全国金賞も狙っていたのだ。
吹奏楽部OBからの、ありがたい応援。
野球部の応援は自分たちがやるから、お前たちはコンクールを勝ちに行け。
それは善意からのものであり、野球部も納得していたのだが、彼にとっては目の前が真っ暗になるものだった。
吹奏楽部からも、コンクールメンバーに選ばれなかった者は、野球部の応援に行くことになっていた。だからメンバーを辞退すれば、応援には行けたのだ。
けれど、辞退しなかった。
1stトランペットだったからとか、パートリーダーだったからとか、いくらでも言い訳は立つ。
けれど応援が出来なかったというのは事実で、全国まで進んだコンクールでも、金賞を取れなかった。
どちらを選んでも、後悔したのかもしれない。
あるいはあの時、吹奏楽部が全員で応援に行って、野球部を勝たせることが出来たなら。
その後も甲子園まで行って、そこでも応援をしたなら。
むしろその方が、コンクールでは結果が出たのかもしれない。今でもそう思う。
最後に勝つのは、心が強い方だ。技術なんて、そこまで行けば大差はない。
後悔したままパートリーダーだった自分が、全力を出せてはいなかったと思うのだ。
「どう? こんなこと書けないでしょ?」
少し意地悪な継母のように、瑞希に問いかける。
しかし瑞希は、何度か組んだ手をさすったものの、その手を伸ばして彼の手を包んだ。
もうおじさんになった男の手。同性愛者の手。
「私は将来、弁護士になりたいと思っています。それは、多くの人を……救いたいなんて言いません。ただ、少しだけでも力になりたいだけです」
佐倉瑞希は、そういう少女である。
「だからおじさんが、書いてほしいと言うなら、書かなくても済む部分だけを避けて、書くことは出来ます」
彼女は嘘を書かない。
だが事実の全てを書く必要もない。
誰かを傷つけたりする事実を、自分の胸の中にしまっておく。しまっておける。
瑞希はそういう、強い少女だ。
「いい子ね」
おじさんは微笑んだ。
可愛い笑顔だった。
「それじゃあね、私のことは、全部秘密。その方が謎めいて面白いでしょ?」
そこで初めて、瑞希は困った顔をした。
一人で抱えていくには、この秘密は重すぎる。
「そうね、じゃあちょっとお願い」
おじさんが喫茶店の奥に行って、持ってきたのは楽譜であった。
「これ、昔はなかなか楽譜も手に入らなくてね。それに本来エレキギターで弾く曲だから、編曲も難しくて。でも彼、この曲が好きだったから。今年の夏は無理だろうけど、一度演奏してほしいの」
ふふっとおじさんは笑った。
「あの人もね、子供のころは普通にアニメ見てて。でもこのアニメの曲、それまでのとはちょっと違ってかっこよかったの」
この依頼、自分一人の力で叶うだろうか。
「もし成功したら、そうね、一人だけ、この話を伝えてもいいわ」
「分かりました」
幸いと言うべきか、ブラバンに影響力のある人物には心当たりがある。
この約束は果たされた。
イリヤが三日でやってくれました。
去っていった瑞希の背中をしばらく目蓋の内に秘め、彼は思い浮かべる。
遠い昔、伝えられなかった恋。
そして絶対に、伝えようともしなかった。
それだけに永遠になってしまった想い。
「良かったの? たあちゃん」
喫茶店のマスターが、またコーヒーを持ってきてくれた。
「あの子、嫌になるくらい男前の女の子だわ。あの人に似てるの」
「そう……」
少し寂しそうな顔をするマスターの手を、彼は握った。
「やきもち焼く?」
「少しね。でも」
マスターもまた、去っていった瑞希の後姿を思い浮かべる。
「悔しいくらい、いい子だったわ」
それから八年後。肌寒い秋の日。
参列者の少ない葬儀に、瑞希と大介はやって来ていた。
この組み合わせは珍しいし、他の元部員も誘った方が良かったのではないか。
大介はそう思ったのだが、瑞希には他の誰にも言わない理由があった。
結局彼女がその秘密を告げたのは、一人だけである。
瑞希は当然のように、秘密を守ったのだ。
「親戚はほとんどいなくて、お友達も色々理由があるから集まれなかったんですって」
「高校時代に俺が打ったホームランのうち一割ぐらいは、この人のおかげだったような気がするよ」
プロになっても遠征で千葉に来ると、スタンドにその姿を探していた。
海を渡ってしまって、さすがにその姿を応援席に見ることはなくなってしまったが。
焼香した大介に、親戚だという男性が近付いてきた。
彼が応援おじさんの、義理の息子だと瑞希は知っている。
あの時、瑞希がおじさんと話した喫茶店のマスター。
彼女は今でも時々、あの喫茶店を利用している。
あの時、どうして喫茶店の奥から楽譜が出てきたのか。
昔は分からなかったけれど、後に知らされた。
おじさんの余命が長くないと知らされて、彼女が養子縁組の手続きをしたのだ。
あれからわずか、一年。
おじさんは最後まで、海の向こうで活躍する大介の姿を、テレビ越しでも応援していた。
「これを、ぜひ貴方にと、彼が」
「これって……」
渡されたケースを大介は開ける。
予想したとおり、トランペットが入っていた。
「貴方には無意味かもしれないけど、もしそれを送りたいという人がいれば」
「うん、うちの嫁がトランペット吹けるんで、ありがたく使わせてもらいます」
この返事を聞いて、おや、と彼は思った。
「貴方たち、夫婦じゃないの?」
「違いますよ!」
その言葉は見事にはもっていた。
お互いの結婚により、さらに親密にはなったが、二人の間にあるのは高校時代から変わらない友情だ。
ああ、少し意地悪なことをしてしまったな、と彼は思った。
てっきり瑞希のことを、大介の彼女かと思っていたのだ。
そんな勘違いがなければ、この子に秘密にさせることはなかったかもしれない。
「あなたたち結婚は? 子供はいるの?」
「うちは一人。夫が今日は預かってくれています」
「うちは二人目がこれで」
大介はお腹が膨らんだような手つきをした。
幸せなのか。
彼は微笑む。最も愛した人が、過去に愛した人の残したこの宝物。
「お幸せにね」
この後も――何度となく瑞希は、あの喫茶店に通うことになる。
大介の出場している試合は、喫茶店にはあまり合っていなくても設置されたテレビで、彼はずっと見続けるのだった。
式場を後にするタクシーの中で、大介は呟く。
「俺のファン一号って、あの人の気がする」
「奥さんは?」
「ありゃファンじゃないだろ」
まあ言われてみれば、確かにそうであろう。
大介は珍しく物思う。
誰かの記憶に強く残る。自分はそういう人間なのだと自覚する。
けれど皆に夢を届けるには、一人では足りない。
「ナオのやつ、こっちに来ないの?」
「そのつもりはないでしょうけど……」
瑞希は不思議に思う。
直史は自分をしっかりと持った、信念を曲げない人間だ。
それなのにどうしても、まるで運命がそう運ぶように、彼の意志を無視して事態が変化する。
下地は出来ている。
あとは、誰かが一押しすれば。
「その時はこのラッパで、応援してもらおうかな。それで今度こそ、絶対に勝つ」
そう言う大介の横顔は、とてもかっこいい。
白球を追いかける、永遠の少年。
恋愛感情の全く混ざらない純粋な好意を、瑞希は彼に対して抱く。
運命。
直史が否定する、非科学的な言葉。
けれどどこかロマンチストな瑞希には、そんなこともあるかと思えるのだ。
夢を乗せて、彼らは駆ける。
そして瑞希はまた、彼らの出来事を書くのかもしれない。
佐藤直史と白石大介。
二人の対決を、世界中のベースボールファンが期待している。
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