第49話 早すぎる夏の終わり

 ――終わった――。


 高校最後の夏を賭けた、最高のスイングだった。

 しかし相手のボールは、黒田のそれを軽く超えていった。

 走馬灯のように、三年間の野球の全てが脳裏を過ぎ去る。


 大観衆が発する怒涛のような音の中。

 共に戦った同士の叫びだけが、はっきりと聞こえた。

「黒田! 走れぇぇぇっ!!!」


 走れ。

 野球ではまず、何よりもそう言われる。

 まとまらない思考のまま、黒田は必死で走り、一塁へヘッドスライディング。

 何が起こったのか振り返ると、ホームベース上で何度も手を振り上げる前川の姿。

 その横の、カバーに入ったのであろう敵チームのサード。

 そしてバックネット近くで、ボールを送球する体勢のまま、固まった相手のキャッチャー。


 パスボール。

 落ちる球なら、ありえることなのだ。

 振り逃げサヨナラ。

 勝ったのだ。


 馬鹿馬鹿しいことにしか聞こえないだろうが、四番の打席で、勝負が決まった。

 甲子園に、行けるのだ。




 ベンチからあふれた勇名館の選手が、ホームを踏んだ前川と、立ち上がった黒田を包む。

 それを見た直史は座り込むと、マウンドに大の字になって寝転がった。

 審判がどう言おうが、もう構わない。試合が決まった以上、何を言われても関係ない。

 何か言われても、最悪自分の退部処分ぐらいで済むだろう。あとは夏休み期間の自宅謹慎ぐらいか。

 それと引き換えにしてもいい、すがすがしい気持ちだ。


 空が、本当に青い。

(終わったな……)

「おいこら不良球児、気持ち良さそうなことしてんじゃねーよ」

 こつんと直史の頭を蹴った大介は、少しふてくされた顔をしていた。

「お前の暴投のせいで、甲子園の怪物投手と戦う機会がなくなったんだぞ。恥晒してないで、さっさと帰ろうぜ」

 大介が手を伸ばしたが、よっと勢いをつけた直史は自分で立ち上がった。

 自軍の応援席に目を向け、帽子を取って軽く頭を下げた。


「てか、試合には負けたけど、明らかに俺たちの勝ちだよな?」

「まあな。次の打席で俺がホームラン打ってたし」

 二人は軽口を叩きながら整列しようとするが、立ち上がれない者もいる。


 バックネットの前で、四つん這いになったまま、ジンが人目も憚らずに号泣している。

 北村が肩を叩きながら声をかけているが、立ち上がれないようだ。

「なあ大介、お前って試合に負けて、あそこまでぐちゃぐちゃになったことってあるか?」

「ないな。お前は?」

「俺もない」

 敗北には理由があるのだ。今回の直史のコントロールミスのように。


 他の部員も集まって、どうにか支えようとしている。まあ仕方がない。

 直史と違って野球に人生を賭けているような人間なのだ。泣かせてやるのがいい。

「大田、お前のおかげでここまで来れたよ。ありがとう」

 北村は優しい声でそう言った。

「俺が! 俺がもっと! また俺のせいで!」

 ジンの絶叫に、岩崎が近付いていく。




 ジンは立派だった。

 そもそもこいつがいなければ、白富東はここに立つことも出来なかったのだ。誰が責められるというのだろう。

 責める権利を持っているような者は、一人もいない。勘違いしたバカはいるかもしれないが。

「シニアの時も、俺がもっとちゃんとリードしていれば!」

 その台詞で、岩崎は頭を殴られたような衝撃を受けた。


 シニアの全国大会、最後の試合のサヨナラ負け。

 あれは、完全に自分の力負けだった。

 ジンのリードに文句などなかった。上杉のバットが、自分のボールを上回っていただけなのだ。

 死ぬほど悔しかったし、もう野球をやめようかとさえ思った。

 けれど、ジンが誘ったのだ。

 自分の力不足のせいで、チームが負けた。それを一言も責めなかったジンが誘ったから、高校でもまた野球をやる決心がついたのだ。

 これは、ジンに対する贖罪のはずだったのだ。


 それなのにジンは、あの敗北を、自分のせいだと思っていたのか。

 いつもチームを引っ張って、難儀な投手をリードして、そこからさらに責任感を持っていたのか。

 チームのキャプテンとしても、彼は完璧だったはずなのに。


 岩崎はジンの肩に手をかけ、力を入れる。

「お前の責任なんて言うやつがいたら、俺がぶっ飛ばしてやるよ」

「俺じゃなくて、俺たちだろ」

 鷺北シニアのメンバーの手によって、ようやくジンは立つことが出来た。

 どうやらジンをちゃんと女房役だと思っているのは、直史よりも岩崎の方であったらしい。




 整列する。勇名館に対する白富東の選手の中に、惨めな敗北を感じている者などいない。

 そしてその視線を、勇名館の選手も正面から受けとめていた。

 ゲームセットが宣言され、お互いに握手していく。

「絶対に、恥ずかしくないプレイをしてくるよ」

 黒田はそう言って直史と握手をしたが、直史としてはそれはどうでもいい。

「うちのセンパイたちの代わりに行くわけですからね。期待してます」


 この年の勇名館は甲子園大会でベスト4、大阪光陰との熱戦で敗北する準決勝まで勝ち進む。

 そこまでの試合で吉村は、全ての試合を一人で投げ抜いた。

 黒田は三本のホームランを打ち、プロのスカウトたちにその力を証明してみせた。


「ナイスリード」

 まだ泣き止まないジンの手を取って、東郷はそう声をかけた。

 東郷の巨体に比べると、ずっと小さい一年生の体だった。


 万雷の拍手の中で、選手たちはベンチに戻る。

 それを迎えたセイバーは、微笑みながら短く言った。

「ナイスゲームでした」


 通路に出た白富東選手団を、無遠慮なマスコミが包む。

 そのマイクの先は主にジンに向けられていたが、全てのメンバーがそれを阻止した。

「三年生の夏を終わらせちゃった直後の一年に、どうしてコメントを求められるのかねえ。ほんと、マスコミって無神経だよな」

 一番敗北の責任の薄そうな、大介がそう言ってのける。この言葉をマスコミのマイクは完全に拾い、全国に流れることになった。


 ヒートアップしそうなマスコミの前に、セイバーのボディーガードたちの巨体が立ちふさがった。

「さあ、プロならマスコミやファンに応える義務があるかもしれませんが、皆さんはアマチュアです。粛々と帰って、明日からは夏休みの宿題をしましょう」

 選手たちをバスに放り込んだセイバーに、それでも無遠慮なマイクが向けられる。

「敗因はなんでしたか?」

 ことりと首を傾げたセイバーは、不思議そうに答えた。

「監督のミス以外に、何もないでしょう?」




 バスの中の空気は、静かに澄んでいた。

 敗北の悔しさが、不思議なほどない。おそらくはあの寝転がった直史、ふてぶてしい大介の台詞、そしてセイバーの明晰な答えのおかげだろう。

「明日は完全にオフですね。ゆっくり体を休めてください。明後日が登校日なので、午後にミーティングを行いましょう」


 一つのシーズンが終わった。

 敗北した三年生は、長い夏休みを過ごすのだ。

 これからが夏本番の八月だというのに、ほとんどの高校三年の球児たちは、それまでに夏を終える。

「学生ですから、夏休みの宿題を忘れないようにしてくださいね」

 そんなセイバーに対して、直史は手を上げた。左腕だ。

「あのセイバーさん、最後の一球でやっちゃいました。肘がすごく痛いです」


 わずかに静まり返る車内。

 そして事態を把握すると、もはや敗北の余韻などどこにもなかった。 

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