第48話 そして彼は限界の向こうに、まだ広い世界の姿を見た

「タイム!」

 タイムをかけて、北村が内野を集めた。

「敬遠って、いいのか? 黒田は一応ここまで、全打席抑えてるだろ」

 計算高すぎる直史が黒田を警戒するのは、このわずかな時間に親しくなった北村にとっても、おかしなものであった。

 だが、明確な理由がある。

「スルーが上手く制御出来ません。ファウルチップになったのはそのせいです。五番も敬遠して、満塁策にしましょう」

 直史の冷静すぎる判断に、全員が沈黙する。


 スルーが使えないのなら、東郷までは確かに危険だ。

 代打の切り札もいるだろうが、あちらは直史が、スルーを選択したくないのを知らない。

 間近で見てきた六番を、そのまま打席に立たせる可能性が高い。

 それに代打の切り札でも、直史がスルーを封印してさえ、アウトに出来る可能性はかなり高いだろう。

 すぐ傍のベースでアウトになるのだ。一点でサヨナラになる場面、大量失点を気にする意味はない。


 そもそも、既に敬遠は行われている。

「あっちも大介とキャプテンを敬遠したじゃないですか。こっちもするのは当然でしょ」

 それは、確かにそうだ。

 あちらは逃げによる四球。こちらは回避のための敬遠。

 まあ明らかに意図的な敬遠は印象が悪いだろうが、ここで勝負しろなどというのは、無責任な外野だけだ。無視していい。


 ベンチのセイバーに確認を取ってみると、彼女も「それが正解」のサインを送ってきた。

「俺も、敬遠でいいと思います。報復死球なら問題ですけど、報復敬遠ですしね」

 どこかいたずらっぽくジンは言うが、事態を直史の次に深刻に捉えているのは彼だ。

「ここは敬遠して、10回で勝負しましょうよ。俺の打席で逃げたら、今度はワンバンの球をスタンドに叩き込みますし」

 大介が非常に物騒なことを言っていた。


 それでも迷う。そう、キャプテンの北村が迷っているのだ。

 このチームの采配は、もちろん形式の上では監督に委ねられている。

 実際に敬遠を行うかどうかは、バッテリーの行動次第だ。北村の判断は、尊重されるが絶対ではない。

 だが北村が迷うなら、そこには理由があるのだ。

 直史は溜め息をついた。

「キャプテン、こいつはキャプテンと一緒に、甲子園に行きたいんですよ」

「おま、言うなよ、そんなこと」

 鋭いジャブが直史の腹に入ったが、ジンの表情はむっつりとしている。

 ツンデレさんめ。




 だが北村は困ったような顔をした。

「甲子園か、そりゃ行けたら嬉しいけど、どちらかというと……困る?」

「え」

「え」

 なぜ疑問形なのか。

「だって高校に入って、ずっとほどほどの練習をしてきて、何もかも忘れて野球に打ちこんだのなんて、この四ヶ月弱だぞ? お前ら、特に一年がいないと、夢にも思わなかった。つか、今でもこれって夢じゃないかと思わないでもない」

 キャプテン……。

 キャプテン! ぶっちゃけすぎです!


「まあ俺、大学でも野球やること決めたしさ。ほんとは高校で引退するつもりだったけど、お前らと一緒にやってると、もっと上にいけると思えたし。だから別にいいよ。俺のためとかは本当に、考えなくていい。自分の考えで決めたらいいんだ」

 北村は、ある意味でこの中でも、ひょっとしたら直史以上に、高校野球球児らしくないのかもしれない。ジンは初めてそう思った。

「まあ個人的な好みで言うなら、お前らの勝負を見たいよ」

 そして悪魔のような提案をしてきた。

「黒田と吉村はプロ行くだろ。そんでまあ……ダイスケ=サンよ、お前は病気か怪我でもしない限り、メジャーで大暴れしてきなさい」

「そんな先の話をされても……」

 さすがにMLBまで話を飛ばされると、大介でも戸惑うしかない。


 ここは、夢の中だ。夢の中の球場だ。だから北村は夢の中で、見たいものを見る。

「将来プロとか海外に行くような奴らと、一緒にプレイするんだ。応援とか観客じゃなく、同じチーム、対戦相手としてな。そりゃあ面白い勝負を見たいよ」

 北村は、バカだ。

 甲子園バカではないが、野球バカだ。

 こんなメンタルだから、大介と同じように、心からこの試合を楽しめていたのだ。

「大学出たら教職でも取って、どっかの高校で野球部の監督やりたいな。白富東の監督で甲子園を目指すのって、ロマンがないか?」

 いや、それはロマンだろう。

 この奇跡的に揃った一年生のタレント抜きで、白富東が甲子園に行ける可能性は低い。

 だけど、それでいいのだろう。


 直史は溜め息をつかざるをえなかった。

「じゃあ勝負しましょうか。この勝負をサードから見物できる人間は、世界でたった一人なわけですし。キャプテンのための大サービスです。でも、打たれる可能性はけっこう高いですよ」

「野球だからな。そりゃあ負けることもあるさ」

 北村の鷹揚な態度に、直史は諦めた。

 確実な勝利を諦め、野球を楽しむことを選んだ。

「んじゃ解散っすね。ほら、お前も行けよ。リードは二人で考えよう」


 釈然としない顔の中で、ジンが一番戸惑いを見せていた。直史はそんなジンを、キャッチャー側へとしっしとおいやる。

 ジンが座った。勝負だ。

 歩かされるのかと考えていた黒田だが、ここでまた集中力を高める。

 自分が過小評価されているとは思わない。今日はここまで全く打ててない四番。それが自分だ。

 その事実だけを見れば、確かに勝負なのだ。




 ストライクとボールが一つずつ。並行カウント。

 直史もジンも、暗黙の了解で、決め球はスルーと判断していた。

 確かに制御できなかったら危険だが、ちゃんと真っ直ぐに投げられれば、やはり一番三振かゴロで打ち取れる可能性が高い。

(とりあえずパワーカーブで内から外に逃げる球ね)

(打たれてもファールってことか。了解)

 内から外へ逃げる、横の大きなカーブ。ゾーンギリギリに決める。


 その球を、黒田は全く反応せずに、目で追いもしなかった。

 これでツーストライク。だが、嫌な予感が止まらない。

(今度は緩急差をつけよう。スローカーブを、大きく外して)

(まあ、届かないところに投げるわな)

 ヘロヘロと音が付きそうな縦のカーブが、外角のボール球となる。

 黒田はもう最初から見切ったように、バットを引いていた。


 ものすごく嫌な予感がする。

 あと一球ボール球は投げられるが、どこへ投げるのか。

(外す?)

(いや、内の下を攻めたい)

 ここでスルーだ。

 制球が微妙にきかないのは確かなボールだが、ボールになることを前提に投げることぐらいは出来る。


 インロー。スルーはしっかりとジャイロ回転で投じられる。

(あ、やばい)

 スピンが足りない。あまり落ちず、伸びない。

 黒田のバットがボールを捉え、鋭い打球がレフト線のファールグラウンドへ飛んで行く。

 スピン不足で遅くなったのが、結果的には逆に良かった。本来の伸びがあれば、確実に捉えられていた。


 これは打たれる。

 直史の経験上、この勘が外れるとは思えない。

 この感覚に従ってきて、直史は当然のように勝利し、当然のように敗北してきた。この判断は間違いない。

(打たれてもいいのか?)

 勝利に拘るなら、敬遠すべきだ。けれど直史が本当に拘っているのは、勝つことではない。


 けれど、後悔だけはしたくない。




 青空の下で、自分は今、野球をしている。

 こんな幸せな人間が、世界中で他に何人いるだろうか。

(野球って、楽しいよな)


 観客席の必死の応援。何を期待しているのだろう。そういえばお婆ちゃんはどこにいるのかな。


 そんなことを考えながら観客席を眺めていたら、自分をしっかりと見つめる人を見つけた。

 この大観衆の中で、たった一人だけ。

 瑞希が、自分をじっと見ている。

 この轟音の応援の中で、騒ぐこともなく、静かに自分を見つめている。

 その口が何やら小さく動いたが、さすがに何を言ったのか、読唇術も使えない直史に、判断出来るはずもない。


 ――佐藤君の球は、これ以上速くならないんですか?――


 けれど、そう言われた過去はある。




 最後の一球で、都合よく自分の限界を突破し、自己最速を出す。

 そんな展開は、直史には許されていないだろう。

 だから、野球の神様よ。もしそんなアホらしい存在が本当にいるのなら。


 邪魔だけはしないで、そこで静かに見ていてくれ。

 野球観戦は、楽しいだろう?




 ジンとの視線が合わさり、勝負と決める。

 後悔だけはしないように、全力で腕を振ろう。

 指先が千切れ飛んでも、この球だけは譲れない。


 ボールよ。

 ――俺の限界を超えて行け。


 黒田への第六球。決め球は最初から決めていたジャイロスルー。

 軸を正面に向けて、スピンを全力でかけた、最速タイの135km。

 黒田のバットは鋭く、それでも明らかに振り遅れていた。


 空を切る。


 この日、18個目の三振。

 敗北した三年生の、最後の夏が終わる。

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