第47話 ラストイニング

 九回の表、白富東、最後になるかもしれない攻撃は、六番ライトの岩崎から。

 可能性は低いが一発出れば、試合が決まりかねない。

「アウト!」

 キャッチャーフライに倒れ、ワンナウト。


「力みすぎだって」

「すみません」

 これに気をよくしたか、次の打者もまた、吉村は内野フライに打ち取る。

 ゴロではなくフライということは、球威はまだ落ちていないのだ。

 ベンチでは冷静に、セイバーがキーを打っていた。

「今ので148球ですか」

 このロースコアゲームにしては、極端に多い投球数。

 セイバーが見るに、吉村の下半身や上腕の動きは、まだガス欠にはなっていない。

 だが、握力や指先はどうだろう。


 コントロールが荒れてきて、コースが散っているから捉えにくいが、変化球の割合が極端に減っている。

 ストレートで押す場面が多い。それもカットされていたことが多いため、それこそ変化球を投げればもっと楽なはずなのだが。

(延長になったらうちが勝つな)

 直史は八回までで82球。下半身に疲れもなく、肩も肘も軽い。握力も問題ない。

 三振を多く取ってきた割には、少ない球数だ。

 劇的な展開などなく、ちゃんと勝つべくして勝とう。


 万一延長再試合になり、二番手投手同士の勝負となった場合、勝つのはどちらか。

 こちらは黒田を敬遠し、向こうは大介を敬遠する。

 考えただけでも不毛だ。

(つーか今の吉村なら、代打攻勢でしとめられないかな)

 打席の直史は余計なことを考えながら、吉村の甘いストレートを、素直に弾き返した。

 またもクリーンヒット。これで併殺を食らわない限り、10回表に大介に打順が回る。




「もし今日の試合に負けるとしたら、私の責任ですね」

 これまで時折データを出しているだけだったセイバーが、小さな声で言った。

「佐藤君を五番にしておけば、もっと得点が入っていました。

 それは数字だけを見てみれば、そうなのだろう。


 セイバーが直史に投球に専念してもらうため、下位に打順を回したのは事実である。

 しかし直史の集中力があれば、投手としての役割を果たしつつも、ヒットが打てた可能性は高い。

 吉村から連続でヒットが打てれば、少なくともあと二点は入っていたのではないか。

 反省するところしきりのセイバーである。


「セイバーさん、でも、うちが勝ちますよ」

 強い声でシーナが言った。

「吉村選手、もうストレートしか投げていません。チェンジアップも使ってませんし」

 直史との投手戦で、ここまで力を削ったのは確かだろう。

「ここで切れても、10回にうちが勝ち越します」


 そう言ったが、ここで連続のフォアボール。

 二死満塁で、打者は二番のジンだ。


 吉村の暴投でも、四球押し出しでも、ほぼ試合が決まる。

(打つべきか打たざるべきか、それが問題だ)

 悩むジンに対して投じられた第三球は、甘い高めのストレート。

 センターに弾き返す。だが打球の勢いが強く、センターは全力でダッシュしてくる。


 ホームへ走りながらも、直史は考えていた。

(二死からのヒットだから、一点は確実。そんな捕球だと後逸の可能性が高い。一点までに止めて二点目をホームで殺すのが正解じゃねえの?)

 滑り込むセンター。そして掲げたグラブには、ボールが収まっていた。

 ナイスプレイ。九回の表の終了。

 しかしこれで10回の表は、大介からの攻撃だ。




 直史が最終回のマウンドに立つ。

 ボール回しをしているナインを見るが、特に緊張している者はいない。

 これから延長を戦う意欲は充分だ。もし疲れていても、守備要員はちゃんといる。

(体力的に言って、俺は問題ないよな)

 自分的に、体力はまだ30%は残っているだろう。

 余裕を持った完投ペースだ。県大会の決勝でこれなのだから、ほぼ完璧な投球と言えるだろう。

(六回の誤審がなければ、ここで終わってたのになあ)

 さすがに溜め息をつきたくなる直史である。


 さてスルーが使いにくくなっているため、配球を変えていく必要がある。

 だが効果的なカーブに頼っただけではない、他の球種も混ぜていけば、むしろ投球の幅は広がる。

 春にも勇名館を抑えたわけだが、スルーを完全に封印しても、カーブの種類が増えたのと、球速がアップしたので、抑えることは難しくない。可能性はやや低くなるが。

 ただチェンジアップを数種類使わなければいけないので、そこが不安なのだ。


 前の回の打線に、見せ球を使っておいた方が良かった。

 あそこから失投、もしくはヤマを張った球を打たれたとしても、得点になる可能性は低かったからだ。

 しかしこの回、一人でも塁に出れば黒田に回る。

 ここまでは完全に封じているが、前の打席のファウルチップが気になる。


 大介ならば、スルーにも対応出来る。

 ならば同じ人間である黒田が、対応出来ないと考えるのは危うい。

 それでも、大介でも、スルーをホームランには、投げられることが分かっていないと打てない。

(まあ、それは次のイニングだな)


 打席に立つのは一番の前川。こいつは少なくとも、スルーをバント出来る事は証明済みだ。

(だからこそ、こいつはあえてスルーから入ろう。足が速いから、出すと面倒だしね)

(まあ、そうだな)

 セットポジションから、直史の固まったフォームで投げられる第一球。

(甘い!)

 外角寄りのスライダー。反射的に、前川は打っていた。

 ライト前のクリーンヒット。この試合初めて、直史が綺麗に打たれた。


 だが問題は、そんなことではない。

 直史が、失投をした。

 それはジンにとって、初めての経験である。

 思わずマウンドに駆け寄る。そしてかすかに俯く直史の表情が、微妙に硬い。

「おい、どうした?」

 そう尋ねるジンは、自分の声も硬いことに気付いた。




 直史は深呼吸して、少し沈黙する。

「ナオ」

「まあ待てよ」

 直史は考える。自分の今の状態を。

 過程を考える。この結果を考える。兆候はなかったか?

 あった。

「スルーの弱点が分かった」

「え?」

 ジンも思わず声が出る。スルーも確かに無敵の魔球ではないと、直史も言っていた。しかしこの声には、もっと明白な弱点があることを示している。

「まあ、なんで今までジャイロを投げる変化球投手がいなかったのか、にも説明はつくんだけどな」

「……シーナは弱点なんて言わなかったけど」

 それにも直史は、すぐに説明出来る理由を発見した。


 まず、シーナが投げていたのは、硬球を使うシニア。そして三番手以降の投手であった。

 さらにシーナの投げたシニアは、七回までで試合が終わる。

「スルーには失投する原因がある。それと、どうして女のシーナと俺にしか、まともに投げられなかったかも理由がある」

 関節が柔らかい投手でないと投げられない。それがジンの把握しているジャイロに関する情報だ。

 だからこそ関節が異常に柔らかい、直史に習得を勧めたのだ。


 直史はスルーを習得するのに、ほんのわずかな時間しかかからなかったと思っていた。

 実際に、理屈を把握してから投げられるようになるまで、さほど時間はかからなかった。

 だが、それでは、本質までも習得したとは言えない。言ってはいけなかったのだ。

「実戦でシーナが投げてた時も、すっぽ抜けてたことはあったろ?」

「そりゃあったけど、シーナとお前じゃ、制球力が違うだろ」

「いやそもそも、抜けがあってもそれなりに制球が出来る時点で、この球はおかしいんだよ」

 捕手であるジンには、さすがにこれは分からない。いや、ほとんどの投手にも分からないだろう。

 分かるのは、スライダーとシュートを意識して微妙に変化させている人間だけだ。


「ジャイロの投げ方の基本は、スライダーに近い。ストレートのようにスピードを乗せながら、指にかける力でスピンをかけ、高速の移動を可能にしている」

 スライダーの投げ方にも人によっていろいろあるのだが、まあ指先に関しては、そういうものだろう。理屈だけはジンにも分かる。

「ジャイロが違うのは、回転軸を完全に進行方向と一致させ、最後に指先でスピンをかけながらも、軸がぶれないようにするんだ」

「その軸がぶれて、スライダー変化になってるわけだよな? でもどうして急にそうなったんだ?」

「単純に投げすぎや打ちすぎによる、指先の感覚のほんの少しの麻痺だ」

 愕然とするジンである。




 ジャイロを投げるには、関節の柔らかさ、特に指の柔らかさが必要なのだとは思っていた。

 しかしそこまで繊細な、タッチが必要だったのか。

「前に話したんだけど、シーナも子供の頃、ピアノやってたんだろ?」

「まあ、中学からは野球一筋だったらしいけどな。お前も小学生の頃はやってたとか言ってたよな」

「うちの家は別に裕福じゃないけど、子供には何か一つはお稽古をさせてたからな。まあそのおかげで指が柔らかいわけなんだが、指先のタッチの強弱にも、ピアノの経験が関係していると思う」


 失投の理屈は分かった。

 ならばこれから、どうすれば失投しないのか。

「準々決勝で失投しなかった理由は? それと練習ではさんざんに投げてただろ?」

「投げた球数が違う。それに練習では、こういう状況で投げたことがない。そもそも練習は、失投して当たり前のものだし。まあまとめると、あまり一日に多投しにくい変化球なわけだ。問題はそれが判明したのが、よりにもよってこの場面というわけで」

 準々決勝は、効果を確かめるためにむしろ安全な場面で使っていた。

 この試合では序盤から、配球の基本として多投しすぎていた。


 準々決勝からは中二日空いてるが、それまでにも直史は普通に投球練習はしていた。

 それもひょっとしたら悪かったのかもしれない。

「トレーニング方法を考えないといけないな。下手に手にマメを作ったりすると、感覚が鈍って回転軸が定まらなくなる」

「そんなに難しい制御なのか?」

「簡単に言えば、二つの変化球を同時に投げているのと同じだ」

 それは――。

 ジャイロボールなどないと、プロの選手も言う訳だ。


 さあ、問題は共有した。

「幸いには向こうは、こちらのスルーがまだ普通に使えると思ってる。でも兆候はあったんだ。黒田にファウルチップ打たれたけど、あれは下への変化量が少なかったせいだろ」

 普段よりも減衰し、下への伸びがなかった。だから黒田にも当てられた。

「スルーが上手く発動せずに何かの種類のスライダーになるかもしれないわけだ。それでも二人はなんとかなると思う」

 問題は黒田か。

「スルーなしで二人をしとめるとか?」

「いや、難しいだろ。それに二番は死んでも送ってくる」

 先ほどの牽制でアウトになった二番打者。おそらく彼は本当に、高校野球生活の全てを賭けて、送りバントを成功させてくるだろう。

 スルーをバント出来る事は、既に証明されている。

「ここは普通にバントでアウトを一つ取ろう。吉村の打席には、ボール球のスルーを使って、指先を確かめたい」




 方針は決定した。

 ファーストとサードはやや前進。確率は低いが勢いの殺せなかったバントが、プッシュ気味になって内野を抜くのだけは防ぐ。

 一球目からやってきた送りバントは、ファーストに送球してワンナウト。


 ここまでは予定通りだったが、三番の吉村も、打席に入った最初から、既に送りバントの姿勢である。

 さっきは確かに上手いバントだった。しかしリスキーでもあった。

 ここで自分も生きるバントなど、まず上手くはいかないだろう。


 本当ならボール球で、スルーの状態を確認したかったのだが、吉村は偶然にもその意図を妨げていた。

(どうする? ボール球で試す?)

(いや、どうせボール球で試すなら、黒田相手にカウント調整で試したい)

 一球投げるごとに、ひょっとしたら指先の感覚は悪化しているのかもしれない。


 吉村は素直にバントをして、そのままアウトになった。高校野球球児らしくない一塁への走塁は、彼の体力の限界を感じさせた。

 そして迎えるバッターは、黒田。

 一打サヨナラのチャンスに、スタンドからは一斉の黒田コール。

 そして逆のスタンドからは「あと一人」コール。

(いや、それって禁止になったんじゃなかったっけ? まあこの人、全然プレッシャー感じてないみたいだけど)

 黒田の視線は、直史から離れない。




 初球は外に外れるスライダー。黒田はぴくりとも動かない。

 次が問題だ。スルーを、低めに。


 黒田のバットが一閃。かすかにかすって、ジンのミットに収まった。ファウルチップ。

(あ、ダメだこりゃ。打たれるわ)

 そして直史はグラブを左右に振る。

 それは敬遠のサインであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る