第42話 諦めない者にしか勝利の栄光は許されていない
無言でベンチに戻った黒田は、力なくバットをしまうとヘルメットを置き、グラブを持って守備につこうとする。
「黒田!」
古賀の声に反応して、黒田だけでなく全員の動きが止まる。
「いいかお前ら、あのピッチャーは春も、トルネードのサイドスローをワンポイントで使ってきた。今のサブマリンも一球だけだ」
切れていた回路がつながるように、勇名館ナインの顔色が良くなる。
「もちろん春よりずっと厄介になってることに違いはないが、それ以上にいやらしいのは、ああいうワンポイントの隠し球を用意してることだ。春はキャッチャーが途中退場して、首を振りまくって自分で配球を考えてた。分かるな?」
そう、あのピッチャーは、打者の心理を翻弄する。
速いストレートは持っていないが、それ以外の全てを持っている。単純にピッチャーとしての能力だけでなく、選手として相手を欺く手段まで。
「今は耐えろ。まずは守れ。攻略法は俺が考える!」
そう、目の前のことから、一つ一つ。
「東郷、お前が吉村を支えるんだぞ」
頷く東郷が背を向けて、グラウンドに出て行く。
それを見送った古賀は、ベンチの奥で頭脳班の二人を両脇に集めた。
「おい、どう思う? なんとかなるか?」
「少なくとも夏のここまでの試合では、普通のスリークォーターで投げてますよね。右打者にそれなりに使えそうなサイドスローも使用0です」
「だよな?」
ほっとする古賀。
「まあ相手が弱すぎて、使う必要もなかったんでしょうけど」
「そうか」
むむむ、と悩む古賀。
普通ピッチャーのフォームというのは、一つに固定化している。
それは器用さがどうとかではなく、一つのフォームに固定しないと、制球も定まらないしパワーの無駄も多いからだ。必要でない筋肉がついてしまうこともある。
そもそもこのピッチャーの厄介さの一つにも、スリークォーターの固まったフォームから、全く同じ腕の振りで、様々な変化球を投げてくるというのがある。
(いや、上、中、下とはっきり分けたら、むしろ身につけやすいのか? ……いやいやんなアホな)
とにかく非常識なピッチャーをどう攻略するか、頭を悩ませる。
「ボールフォア!」
と目を離した隙に、吉村がこの試合初めての四球を出してしまっていた。
(うわ~、アンパイなのに~。頼むぞ東郷~)
内面ではあせりながらも、表面は泰然自若とした態度を崩さない。
そして配球は、東郷に丸投げである。
この試合、両軍合わせて初めての四球に、東郷はマウンドへ歩み寄る。
大丈夫か、などという月並な言葉はかけない。
「……あいつらほんと、化物みたいなやつらだな。正直ここまでとは思わなかった」
全国レベルのチームとも、練習試合ではいくらでも対戦したことがある。
バスに乗って一週間の遠征試合。得たものは多かったはずだ。
甲子園常連校とも戦ったし、新チームではあるが夏の優勝校とも戦ったこともある。だがそれらと比べても、この試合は圧倒的にシビアだ。
練習試合は、もちろん負けるつもりでなど戦っていないが、勝たなければいけない試合ではない。
負けたら終わる。そんなプレッシャーの中で投げるなど、どんなピッチャーでもそうそう体験するものではない。
「岩崎は長打があるからな。ストレートは見せ球にして、変化球でカウントを取るぞ」
東郷の指示に、吉村は力強く頷く。
まだ試合は終わっていない。得点すら奪われていない。
諦めるにはまだ早すぎる。
ストレートを外して見せ球にして、変化球をカットさせてカウントを稼ぐ。
ツーストライクからなら、多少外れているところでも、バットを振ってくる。
岩崎もまた、センスで打っている人間だ。実際にホームランも打っている。
だが好打者ではない。白石はもちろん、四番の北村よりも下だ。
高めに大きく外れたストレートを打ち損じ、キャッチャーフライに終わった。
七番は送りバントを失敗させて内野フライ。そして迎える打者は八番の佐藤直史。
前の打席では全く打つ気を見せなかったが、今度はちゃんと構えている。
(打席数が少ないから、あまり参考にならないんだよな……)
それでも準決勝で細田から打ってるので、打撃が悪いわけではないのだろう。
まずは外角にボールになるスライダー。これは当然のように見逃される。
(じゃあインハイはどうだ? 投手なら怖いだろ?)
そう考えて制球重視のゾーンに入ったインハイを、直史は軽くライトに流し打ちした。
これは読まれていたのだろう。そもそもキャッチャーが頼りなければ、自分で投球を組み合わせるやつなのだ。
(甘かった……。今のは俺のミスだ。吉村、切れるなよ……)
東郷はそう願いながら、九番の打者を迎える。
確か他の試合では、もう少し上の打順に入っていたはずだ。意図をもって今日は下位をいじっている。
だがそれでも、吉村を打てるものか。
ゾーンにストレートを。力で押せ。
頷いた吉村が投げる。それに対してバッターはバントの構え。
ファーストとサードのチャージ。バッターはバットを引く。
当然だ。二死からのセーフティで、しかも打者に足があるデータはない。
だが、とことん吉村を揺さぶってくれる。
(本当に、強えーよ。ここまでこっちの投手をいじめてくるかよ)
一年生が主体のくせに、こういったプレイを仕掛けてくる。
吉村を休ませないつもりなのだろう。確かにそれは有効だ。
有効だが、結果は出せない。出させない。
遊びのない三球勝負で、バッターは内野ゴロに打ち取られた。
ベンチに戻った吉村は、深く座って肩で息をしている。
疲れている。まだ球数も少ないし、イニングも多くはないのに。
昨日の疲れが残っているのかとも思うが、やはりこれは白富東の、白石大介の圧力が原因だ。
(俺たちがなんとかしないと!)
そう決意して打席に立つ東郷だが、気迫だけではどうにもならない。
表情を変えない敵投手は、まるで機械のようだ。
そして単なる機械ではなく、こちらの意図を見抜いて適切に対処してくる。
カーブを主体とした緩急の組み合わせに、最後はジャイロではない普通のストレート。
アウトローにしっかり制球されたそれを、東郷は見逃してしまった。
ジャイロか、あるいはスライダーなら、ボールとなっていただろう球。
それを期待した東郷を翻弄するような、大胆だが計算された配球。
キャッチャーのリードも上手いが、迷わずに投げ込んでくるピッチャーもすごい。
三年間苦しみながらも、乗り越えてきた野球漬けの日々。
だがその三年間で、こんなリードを投手に要求するようになれただろうか。
(いや、単に俺が舐められてるだけか)
東郷は思う。勝ちたいと。
もちろん甲子園がかかっているから、勝ちたいのは当然だ。負ければ東郷の高校野球は終わるのだから、勝ちたいのは当然だ。
だが純粋に、この強いチームに、勝ちたい。
それでも、想いだけで、甲子園には行けない。
続く打者二人を平然と三振で封じ、直史はマウンドを降りる。
観客席のどよめきが鳴り止まない。
瑞希がこんな現象を体感したのは、生まれて初めてだった。
(すごい……胸がどきどきする……)
マウンドから軽い足取りでベンチに戻る直史へ、万雷の拍手が送られる。
「すごいなあ。本当にすごいなあ。三者三振だろ? もういくつ三振取ったんだ?」
隣では瑞希そっちのけで、興奮している父がいる。
味方側のスタンドからは、黄色い声が直史の名前を呼ぶ。いや、叫ぶ。
だが直史はそちらをちらりとも見ず、ベンチの中に引っ込む。
(すごい、集中してるんだ)
昨日の試合も凄かったが、今日はそれとも比べ物にならない。
人の声で建物が揺らぐことがあるだなんて、今まで瑞希は知らなかった。
三振、三振だと周囲で周囲で騒いでいる。
「11三振だ! まだ五回で11奪三振だぞ!」
「ちょっと記録見ろよ! 調べろ!」
「待てよ! え~と……くそ! 参考記録はいらないんだよ……」
「え~と……新潟……って上杉の記録は別にして、千葉千葉千葉……21! でもこれ二回戦だ。決勝での記録は……いや、また上杉かよ。千葉は……参考記録しか出ねえ!」
「とりあえずあと四回、全部三振なら新記録か……」
「まあさすがにないな。向こうもバントとかしてきたし」
「今まで一安打ってのも惜しいな。当たりそこねだし」
周囲の騒ぎを正確に瑞希が理解することは出来なかったが、マウンドで投げる直史が、とんでもないことをしているのは伝わる。
彼の周りは、静かだ。
淡々としていて、ガッツポーズもなければ、己を鼓舞して叫ぶこともない。
だが彼の積み上げていく数字が、人々を興奮させる。
(すごい……。かっこいい……)
瑞希はこれまで、スポーツというのは興行、あるいは娯楽だと思っていた。
もちろん学校の部活動で汗を流す、スポーツに対して文句があるわけではない。
スポーツを通じて体を鍛え、技術を研鑽するというのは、勉学とは違った形ではあるが、努力の結晶だ。
だが、これは違う。
文章からでは分からない、この熱量。
これは絶対に、感じなければ書けないものだ。
しかしそれはそれとして。
「ナオく~ん!」
「直史く~ん!」
(名前を呼ぶのが気安すぎると思う!)
佐倉瑞希はまだ、その感情を嫉妬と呼ぶのだと知らない。
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