第41話 マウンド上の意図的な叫び

 勇名館の黒田慎平は、東京からの越境入学者だ。当然のように特待生である。

 シニア時代から注目されていた選手だったが、三年の春に手首を骨折し、スカウトの対象から外れてしまった過去を持つ。

 もちろんそれでも興味を示し、誘ってくれた学校は多い。だがその中でも最も積極的だったのが、勇名館の古賀監督である。

 彼は黒田の家に来て、あからさまに喜んだのだ。

「骨折ぐらいで君の評価を下げるような、バカなスカウトしかいない高校に行く必要はない! うちは凄い左腕を確保してるんだ! あとは捕手だけいれば甲子園に行ける!」


 熱心ではあったし、待遇も一番良かった。何より監督の人柄が伝わってきた。

 だがそれでも、一番に考えるのは甲子園に行けるかだ。

「捕手、ですか」

 それには一人、心当たりがないでもなかった。


 中学野球のレベルは、学校の部活よりも、シニアやボーイズの方がおおむね高い。特に東京ではそうだ。

 硬式に慣れることによって、高校野球にも早く対応出来るだろうし、その先も目指せる。

 プロに憧れ、そこまではいかなくても最大の夢である甲子園、その先の大学や社会人で活躍することを思えば、早くから硬球に慣れるのが当然だ。


 だが家庭の事情などで、それが難しい者もいる。たとえば直史や大介がそうであったように。

 東郷もまた、そんな一人だった。小学生の頃、少年野球で隣学区で対戦した黒田は彼のことを憶えていたし、畑違いの軟式で活躍しているのも聞いていた。

 三年夏の大会、中学の軟式野球部で、東郷の学校は県大会の決勝まで勝ち進んでいた。

 そのチームは古賀の目から見ても、たいしたチームではなかった

 サウスポーという以外全く使えないピッチャーを、東郷がなんとかリードして試合を組み立てている。

 そして打っても守っても、完全にチームの中心となって、強力なリーダーシップを発揮していた。

 古賀はその後すぐ、東郷を黒田と同じ特待生として勇名館に迎えることを、上に認めさせた。




 吉村の故障というアクシデントを乗り越え、最後の夏へと向けた春の大会。

 シードを取るぐらいなら余裕だろうと考え、吉村を温存して迎えた地区大会の決勝。

 初回の失点と、その後の一年生投手の力投は、むしろここから逆転するための試練にも感じた。


 しかしあの怪物(だいすけ)と異形(なおふみ)が、勇名館の前に立ちふさがった。

 シードを取れず、東雲の大河原との投げ合いを制し、王者東名千葉を粉砕し、ようやく到達した決勝戦。

 その対戦相手が因縁の白富東であり、しかしながらチーム全体が信じられないほどにレベルアップしている。


 一点の勝負になる。

 その覚悟で挑んで、そしてようやく、吉村が塁に出た。

 ここで打つのが四番の仕事だ。

(ジャイロボールは打つのは難しい。現実的に考えるとランナーを三塁に置いた状態で、スクイズをするのが一番確率が高いだろうが……)

 ここでピッチャーの吉村を三塁まで盗塁させるわけにはいかないし、二死でスクイズは出来ない。


 この打席は普通に打つしかない。長打を打てれば、吉村が帰ってこられる。

 あとは全員が全員で守り抜く。……そんな都合良くいくとは思えないが。


 ヤマを張ってでも、勘で打ってもいい。とにかく長打がいる。

 だがそれは、ジャイロでは絶対に打てない。他の球を狙うしかない。

 そして他の球種にヤマを張るわけにはいかない。直史の球種は多すぎて、ヤマが当たる確率が低すぎる。

 つまり、ジャイロ以外の来た球をとにかく打つ。


 そう決心した黒田に投じられた、第一投はジャイロであった。

 途中まではストレートで、その途中から加速する。もちろん目の錯覚なのだが、そうとしか見えないのだ。

 しかも加速していく方向は下だ。これならまだ、ホップするように見える高速のバックスピンの方が打ちやすい。

(ジャイロは捨てる)

 そう決意する黒田。それに対して、ジンはリードを考える。


 直史の変化球は、おそらく黒田以外ではよほどの偶然でしか打てない。

 黒田でもかなり読みが当たらなければ打てないだろう。

 そして実のところ、直史には黒田を打ち取る、ジャイロ以外の決め球がある。

 ジンの出したサインに、直史は首を振る。

 何度も首を振り、ジンはその度に考えながらも、徐々に嫌な気がしてくる。

(おいまさか、これか?)

 そのサインに、直史は頷いた。

(おい、マジで投げるのか? 確かにちゃんと通用レベルにはなってたけど……)

 続いて出されないジンのサイン。直史は表情も変えず、すっと自分からサインを出す。


(正気か!? ここで!?)

 タイムを出そうかジンが迷う間に、既に直史は投球モーションに入っていた。

 もう間に合わない。キャッチする以外に、自分の出来ることはない。


 一方打席の黒田は、狙い球を絞れていた。

 あそこまで投手が首を振り、最後には自らサインを出す。

(トルネードサイドスロー!)

 春の大会で、九番に入っていた東郷を打ち取った球だ。

 この初見殺し。だが知っていれば、打てるはず。




 背中を見せるはずの、直史の体が沈んだ。

 蕨山戦で試さなかったのは、かえって良かった。

 そう、このアンダースローを。


 地面に指先が触れるほどの、低い位置からボールが浮かび上がる。

 それはゆっくりと放物線を描き、一瞬だが空中で止まったように見えた。

 そのまま重力に引かれて、曲線を描きながらジンのミットに収まった。


 黒田はバットを振れなかった。


「名付けて、魔球フェザー!」

 珍しくも、と言うよりは明らかにわざとらしく叫んだ直史は、ちょいちょいとボールを急かす。

 ツーストライク。ここで間を置かないことの重要さを、ジンも分かっている。

 直史は賭けに勝った。


 混乱する黒田は、打席を外すことも考えられない。

 直史がセットから、今度こそ普通のフォームで投げる。


 途中から下に伸びるジャイロスルー。黒田の力ないスイングは奇跡的にボールに当たって、ファーストゴロとなった。




「おま! もうほんと、心臓に悪いことすんなよな!」

 猛烈に怒るジンの頭をぽんぽんと叩き、直史はベンチに戻る。

「よく投げたなあ。それに魔球って、ただのスローカーブなのにな」

 大介も笑っているが、他のベンチはドン引きである。

 事態がよく分かっていないセイバーも、大介の言葉でドン引きになる。


 アンダースローから投げた、ただのスローカーブ。

 その後のジャイロスルーを効果的に見せるための球であり、別に魔球というわけではない。

 手首の柔らかいアンダースローの人間なら、誰でも投げる素質は持っている。

 もっとも普段はアンダースローでない人間が投げるからこそ、その効果は絶大なものになるのだが。


 だが、これで煙幕は張った。

「あと一回は確実に黒田に回るわけだから、その時に効果があればいいさ」

 ベンチに座った直史は、糖分と水分をしっかり補給する。

「あと大介、あの球は左打者ならともかく、右打者にはそれなりに魔球に見えるぞ」

「ああ、背中から来るからな。今度右打席で見てみたいな」


 呑気な大介がコップを取ると、それに直史自らが注いでやる。

「あの、魔球なのかカーブなのか、結局どっちなの?」

 ジャイロボールを直史に伝授したシーナだが、この球については何も知らない。

 別に秘密にしていたわけではない。ブルペンでジャイロスルーの効果的な使い方を考えていた時に、緩急差をつけるために思いついたアイデアの中の一つだ。

「アンダースローはただのストレートでも変化球に見えるけど、それはボールの出る位置が、普通よりも下からだよな」

 直史は説明するが、それはアンダースローというフォームを説明するということでもある。

「アンダースローからスローボールを投げたら、オーバースローからのスローボールよりも、よりその軌道は山なりになる。それでボールは当然ながら常に前に進むが、山なりのボールはその頂点で下に向かう瞬間、一度上下の運動が0になる」

 上に投げた物体は理論上、一瞬だが極限まで0に近い速度になる。

 これが、ボールが止まって見える錯覚なのだ。


 ジャイロスルーのための、ただの目くらまし。

 だがこれを、アンダースローから投げた。それはつまり、直史にはアンダースローからの球種もあることを予感させる。

 ただでさえ多く、そして微調整がつく直史の変化球。

 そして組み合わせれば絶大な力を発揮するジャイロスルー。

 魔球とは単なる一つの球種ではなく、コンビネーションで成立するのだ。




 そして黒田を完全に抑えたことは、相手に対して絶大なダメージを与えたはずだ。

 もっとも冷静に観察すれば、あの打席に直史を攻略する鍵が隠れていることにも気付く。

 しかし監督を含めてでさえ、初見のアンダースローと、そこからの浮かんで沈むカーブ。

 これに幻惑されないほどの人間が、果たしているだろうか。


(まあ、プロ関係者なら気付くかもしれないけどさ)

 ジンはやっと冷静になった。直史の計算、それはリスクの高いものだったが、やった後なら理解も出来る。

 この試合、一点が間違いなく勝負を分ける。そのために少しでも危険な要素を、早めに排除しておきたいのだ。

「ちなみに大介だったら、あの球打ってた?」

「いや、俺もうジャイロスルー、それなりに打てるようになってるじゃん。決め球に来ると分かってるんだから、そりゃ見送るよ」

 そう、そうなのだ。

 魔球とも言えるジャイロスルーでも、それが人間の領域にある限り、同じ人間に攻略出来ないわけがない。


 大介は速球の練習の時、エクスカリバーのリミット、即ち人類最速の169kmを放ってもらったことがある。

 さすがに三日ほどはミート出来なかったが、一週間も経てば普通に打ち返せるようになっていた。

 そして同時に、もうバットは振らなくなった。目を鍛えるために打席で見ることはあるが、スイングすらしない。

 同じリズムでしか球の来ないマシンなど、打っても意味がないと悟ったらしい。

 現在はそのあたりの機能も持つ特注ピッチングマシーンを注文中である。名称はカリバーンと名付ける予定だ。


 それはともかく、両者のパーフェクトが途切れた、この回が重要だ。

「吉村揺さぶっていこうぜ!」

「おし!」

 五回の表の攻撃が始まる。

 試合はまだ半分も過ぎていない。 

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