第40話 魔球を攻略せよ
「すごい! あの人打った!」
白富東側の応援席。同じ顔の少女二人が、きゃいきゃいと騒いでいる。
「かっこいい! うわ! あの人やっぱり小さいよ! それなのにあんなに打っちゃうんだもん!」
桜と椿の騒ぎように対して、兄である武史はやや冷静である。
「お前らな、あの兄ちゃんが天才って言うような人だぞ? そりゃ打つよ」
「タケは黙ってろ」
「そうだそうだー」
双子が「ないばっちー」とはしゃいでいるが、まあそれぐらいはするだろうなと武史は思うだけである。
野球をやってるくせにあまり野球中継を見ない兄であるが、例外的に記憶媒体でわざわざ見る選手が数人いる。
「メジャーなんて言っても、パワーと素質のフィジカルバカ集団だ。本当に打者で天才なんて言えるのは、イチローと落合ぐらいだろ」
そんな兄が、うちのチームには天才がいるからなあ、と名前を挙げていたほどなのだ。
トッププロ基準でプレイヤーを評価するあの兄が天才と言うのだから、それは間違いなく天才なのだ。
一緒にNBAを見ていても、武史が興奮するプレイに、直史は冷静に解説を入れてくる。
「完全にトラベリングだろ。NBAも興行だし、スタープレイヤーは大目に見るって感じだな」
ちゃちゃを入れてくるようにしか感じなかったあの頃、じゃあ兄ちゃんはどの選手が好きなんだよ、と尋ねたことがある。
「あえて言うならティム・ダンカン」
当時さすがに衰えの見えていた、それでも数多くの記録を打ち立てた選手を、直史は挙げたのだ。
同じチームであればパーカーやジノビリのプレイに魅せられていた武史は、理由を尋ねた。その前に少し皮肉めいた枕詞を添えて。
「クソ地味なのに?」
「柱の選手が地味に見えるのが凄いだろ。ポストプレイは大事だぞ」
バスケに夢中になっていた武史が、過去のNBAの試合を見て、ジョーダンのクラッチシューターぶりに興奮しても、あの兄とは意見が異なるのだ。
いや、別に意見は異ならないのか。好みが異なるのだ。
「俺はストックトンが好きだなあ」
「おい、あいつクリーンに見えてもけっこうダーティなプレイヤーなんだぞ」
「それでファウルを取られてないなら、ルールの範囲内だろ。それに相手に怪我を負わせる反則はしてないし」
最後にあの兄は付け加えた。
「でもお前がストックトンになれても、お前のチームじゃ地区優勝がせいいっぱいだろうなあ」
武史の中学三年生の夏は、もう終わっている。
地区予選こそ突破したものの、人数の多さから層が厚い他の中学に、善戦はしながらも負けていた。
「あ~、なんかまた、野球やりたくなってきたなあ」
小さく呟く武史の視線の先で、兄が四回の裏のマウンドに登ろうとしていた。
白富東は四番の北村が惜しくもサードライナーに倒れ、四回の裏の守備となる。
この回先頭打者である勇名館の前川は、この打席にテーマを持って挑んでいる。
即ち、突破口のヒントを見出せと。
前川はあまり一番らしくない、球筋の確認を任せられていない打者だ。
だがそれは彼の性格も考えた上で、監督である古賀が容認している。
強豪校に限らず、普通のチームの一番打者は、投手の球種や調子を計らせることが多い。
だが古賀は球種については事前のデータで調べ、調子の判断は二番に任せている。
敵チームの意表を突くのと、二番に器用な打者を確保出来たため、あえてこの打順になっているのだ。
投じられた初球はまたもストレートだったが、アウトローに外れていた。
おそらく前打席の凡退から、引っ掛けさせる意図があったのだろう。
(変化球にばっか目がいってるけど、ストレートもかなりいいんだよな)
それでもやはり、打つならストレートなのだろうが。
続いてゾーンに入ってきた変化球は、確かに当てる程度ならば出来そうだった。
カーブも右打者にとっては相当に厄介な球だろうが、左打者の前川にとっては、必殺とまでは言わない。
当てて、ひょっとしたらヒットにも出来たかもしれない変化球を、二球前川は見送った。
(スローカーブで遅い球を印象付けたから、絶対に決め球はジャイロだ)
おそらく分かっていても、ヒットには出来ない。
だが160kmの剛速球ではないのだ。当てることは絶対に出来る。
前川の読み通り、決め球はジャイロ。
それを彼はセーフティバントを狙う。
当てる。生きることは考えない。
やはり予測よりも下に伸びるボールを、どうにかキャッチャー前に転がす。
俊足の前川でもどうにもならない、ボテボテのキャッチャー前。
暴投などすることもなくファーストに送り、まずはワンナウト。
――突破口とまではいかないが、当たらない球ではないことは証明された。
(まあそう来るわな)
ジンは冷静だった。
ここまでほぼ全てが三振で、黒田以外は三球三振。
こちらの攻撃も吉村の前には封じられているが、大介はちゃんと長打を打ったし、北村もまともに球を弾き返した。
二巡目もひたすら振り回してくるような、野球とはそんな単純なスポーツではない。
ジャイロボールは、あるいは160kmのストレートよりも攻略は厄介かもしれない。
だがそれは、あくまでも打つならば、だ。
160kmの生きたストレートは、ほとんど見ることも出来ない。だがジャイロは、見えるけれども打てないのだ。
しかしただ当てるつもりなら、その軌道をちゃんと理解しているなら、バントで当てるだけはたやすい。
もっとも、まともなバントにするには、やはり難しいのだが。
二番打者は、バットを短く持って当てにきたが、それよりもボールの見極めに重点を置いていた。
ジャイロは、特に直史が投げるスルーは、機械でも上手く再現出来ない。
直史は頑なに自分の才能を認めない人間だが、素質を認めないわけではない。
肉体全体の柔軟さと、指先の微妙な感覚。
ある程度の柔らかさを残した上で、分厚い手は頑健だ。
肉体を微調整する柔軟さと、指先での精密なコントロールでこそ、この球は成立する。
ジャイロボールはナックルと同じだ。ナックルもその日の投手の出来や、環境によっては上手く機能しない日もある。
だが現在確実なナックルの攻略法が見つかっていないのと同じで、そもそも打者の体に刻まれた常識に反するこの球は、打撃の理論を根底から覆す可能性がある。
もしもこの球がごく普通に攻略出来る時が来るとすれば、それは――ありえないことだが、直史のようにジャイロボールを操れる人間が増え、自然とそれを打つ練習が出来るようになってからだ。
誰にも打てない剛速球。それは確かに一部の選ばれた者にしか許されない、ピッチャーにとっての夢なのかもしれない。
だが誰にも打てない、変化球ではない変化球。これもまた、ピッチャーにとっての夢の実現だろう。
(投げてる本人は、そこまで考えてないかもしれないけどな)
この天才は、なんで自分の才能を認めないのか。たまに――いや、かなりの頻度で、腹が立つこともある。
そしてこれは直史もジンも認めることだが、魔球が存在するからといって、無敵なわけではない。
野球というのは、そんな底の浅いスポーツではない。
決め球として投げたジャイロを振り遅れファーストゴロ。
しかし今度は、バント以外でも当たることを証明した。
続く打者は三番の吉村。
普段はピッチングに専念させるため、九番に置かれることが多い。
だが本来の打率はクリーンナップだ。得点圏での打率も高い。
この試合も本来なら投球に専念させたかったのだが、最悪歩かせればいい打者の大介と違い、投手の直史は攻略しないことには勝てない。
それに単純にセンスだけなら、吉村の打撃は黒田を上回るかもしれないのだ。
これは古賀にとっても賭けだった。
吉村に打撃まで期待するのは、いくらなんでも負担が大きすぎる。
だが、普段も気晴らしに好きなままにバッティング練習をする吉村を知っていると、むしろこの投手相手には、相性がいいのではないかとも思える。
もちろん他にも、二人の投手戦に持ち込み、スタミナ切れを期待するという案もあった。
だが向こうには岩崎がいる。参考記録でもノーノーをし、上総総合を完封している投手だ。
いくら直史が降板しても、向こうには二枚目のピッチャーがいるのだ。
そして吉村に慣れた後の向こうの打線を、こちらの控え投手が抑えきれる可能性は低い。
だからこれは賭けなのだが、少なくとも一打席目は不発であった。
吉村は意外性のある打者だ。
打率や長打は黒田に及ばないが、相手の決め球を打ったり、難しい球を感覚で打つことが出来る。
だからある意味期待出来るのだろうが、それでもこの球を打つことは難しい。
ジャイロボールは長年野球をやってきた人間の、本能に反した球だ。
抜けてしまったジャイロ性の球が打たれるのは、軸がずれただけで伸びがなくなってしまうからだ。
失投を待ってもいいが、それよりも確率が高い方を選択する。
(ジャイロ以外の全部を狙う!)
三球目、カウントを整えるためのボールに外れていく球を、吉村は打つ。
完全に打ち取った当たりだが、ふらふらとファーストの頭を超える。
吉村のパーフェクトが途切れたその裏に、直史のパーフェクトも途切れた。
(これで崩れてくれればいいんだけど、そんなに甘くはねえだろうな)
だが、役目は果たせた。
そう、打てない球でないのなら、必ず四番が打ってくれる。
勇名館の最強打者。黒田慎平が打席に入った。
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