第39話 少年は荒野をめざす
吉村がベンチで安堵の溜め息をついている間に、白富東のナインはグラウンドに散らばっていく。
マウンドの直史は、真っ青な空を見上げた。
(暑いな。吉村の投球もたいしたもんだし、ベンチで休んでられる時間は、あんまり長くないだろうな)
準々決勝はともかく、昨日の準決勝も暑かった。
よくもまあ九回まで、岩崎は投げきったものである。
今更であるがあの展開なら、直史は完全にベンチで休んでいても良かった。疲労は残っているわけではないが、必要以上に疲れたくない直史である。
(まあ今日勝てば甲子園まで少し時間はあるわけだし、延長戦にはならないだろうしな)
吉村は大介との勝負を選択した。
エースとして大介を打ち取る展開が必要だったのだろうが、たとえランナーがいなくても、大介の脅威は変わらない。
大介なら一点は取ってくれる。あとは自分が完封すればいい。
投球練習が終わった直史に、ジンが近付いてくる。
「どったの? 調子は?」
「いや、今日も暑くなりそうだなって。甲子園のマウンドはもっと暑いんだろ? 正直約束がなければ行きたくない」
「お前、この期に及んで何言ってんの?」
呆れるジンに対し、直史は溜め息をつく。
「それに、さっき気付いたんだけど」
珍しく深刻そうな顔をする直史に、ぎょっとしてジンは顔を近づける。
「――お前らさ、施設にいる間、オナニーってどうしてたの?」
腰砕けになりそうなジンであるが、直史の表情は真面目である。
「んなの……我慢すればいいだけだろが……」
とりあえず本当のことを言うしかないジンである。
だが、直史にとっては重要な問題だ。
そう、ルーティンのほとんどをしっかりと行う直史だが、集団生活の中で唯一、気を遣っていることがある。
オナニーである。別名自慰。またはマスターベーション。
「俺は普段、最低でも三日に一度の割合で抜いてるんだけど、準々決勝前から数えると、もう六日も抜いてないんだよ」
「……便所で抜けば良かっただろが。紙も流せるし。それに一週間ぐらい、我慢すればいいだろ」
「俺はオカズがないとダメなタイプなんだよ。我慢だって出来なくはないけど、出来るだけ同じ間隔で抜いてたんだぞ。そろそろどっかがおかしくなるかもしれない」
そんなもんでおかしくなるか、と叫びたいジンである。はあ、と溜め息をつきたくなりつつも、投手の不安は解消しなければいけない。
「精巣で生産された精子は、放出されないかぎり体内に吸収されるそうだ」
「それは知ってるんだけど、甲子園に行ったらかなり長く泊り込むだろ?」
「お前、甲子園で優勝するつもりかよ。つか、そんな心配より、目の前の心配をしてくれよ」
ジンは暗澹たる思いで頭を振る。
うすうす気付いていたというか、何度もそうだろうとは思ったが、やっと確信した。
佐藤直史という少年は、頭がおかしい。
「そっちは心配するな。一点もやらないつもりで投げるから、リードは頼むぞ」
「お、おう」
訳の分からない悩みを相談の後に、急に矛盾するような目標を掲げる。
おそらく本人の中でだけは、ちゃんとつながりがあるのだろう。
なんとなくもう、ジンは直史に慣れてきていた。
(要するに、パーフェクトが出来る組み立てをしろってことだろ。やってやるよ!)
打席に立った一番。こいつは春と同じだ。
平凡なストレートを内角に要求。それに対して直史は平然と頷く。
そして投じられた130kmのインハイの球を見送り、一番は愕然とした。
この決勝の第一打席の打者に、カーブやジャイロを持つ投手が、普通のストレートを内角に入れてくる。
コースは良かったしキレてはいたが、今のは打てた。
こちらが完全に見てくると読んでいなければ、投げられない球である。
(こいつら……一年生のガキが!)
二球目は全く同じコース。打つ気ならば打てる。
そう思って振ったバットの根元に当たったカットボールは、ファースト正面に転がった。
まず二球で、先頭打者を葬った。
春と同じく、一番はあまり球数を放らせず、積極的に打っていった。
あの時はベンチで注意を受けていたようだが、今日は普通に報告している。
つまり、早打ちの指示が出ている可能性がある。
まあ妥当だな、とジンも思った。
直史の球種を全て確認しようと思ったら、それだけで試合が終わってしまう。
それにジャイロをゾーンに投げ込まれれば、分かっていてもまず打てない。
続く二番。春と同じく粘り強い打者だ。
あまり球種を見せていたら、色々と分析されるだろう。
(まあ分析しても、打てないだろうけどさ)
ジンの考える限り、直史が負ける要因が少なすぎる。
いくら吉村がいい投球をしても、おそらく大介が一点は取ってくれる。
そして直史が偶然の単打はともかく、一点を取られる状況が思いつかない。
それこそ四球とエラーが積み重なりでもしない限り。
スライダー、チェンジアップ、ジャイロで三球三振。
次の吉村は、打者としては才能だけで打っているタイプだ。
カーブを三種類使って三球で三振。
パーフェクトの立ち上がりである。
序盤は予想通りの投手戦になった。
吉村はストレート主体ながら、時折混ぜてくるチェンジアップで、白富東打線を翻弄した。
対する直史も四番黒田を六球使って三振に取った後は、三回まで連続三振。
(やっぱり空振りが取れる球種があると、安心感が違うな)
のんびりとそう考えているが、両者パーフェクトピッチング。
特に直史の方は、八者連続三振であり、黒田以外は全て三球三振である。
予想以上の直史の投球に、勇名館古賀監督は、内心の焦りを表に出さないことでせいいっぱいだった。
速い球が打てないというのは、ごく普通の常識である。
すごい変化球が打てないというのも、まあ常識の範疇である。
だがすごい変化球を二つ以上持っているというのは、いくらなんでも反則だろう。
人間の肉体の持つリソースには、当然ながら限界がある。
スピンをかける球の適性を持つ選手は、抜いて投げる球が不得意である場合が多い。
球速を求めれば、コントロールは低下する。
ある変化球を極めれば、他の変化球が投げにくくなるのが普通なのだ。多様な変化球が投げられるとして知られた投手でも、プロまで行くとある程度絞ってそれを磨く。
だが佐藤直史の投球術は、トーナメントを戦っていく上では、凄まじく有効だ。
プロならば何年にも渡って、何度も対戦することがあるだろう。だがこの少年の持つ変化球には、初見殺しがいくつもある。
一度きりの勝負であれば、ピッチャー有利。そんな思考の下で変化球を磨いてきたことが、はっきりと分かる。
中学時代のスコアをなんとか手に入れようとしたが、そもそも公式戦は全て初戦敗退。サンプル数が少なすぎる。
その中でも気付いたのは、圧倒的な自責点の少なさ。
また一イニングあたりにおける大量失点の少なさ。
粘り強い。春はそう感じたが、この三ヶ月ほどの間で、別人のように進化している。
(だがそれでも――)
古賀は祈る。最後には祈るしかない。
せめて、選手たちが全てを出しきれるようにと。
四回の表、白富東の攻撃。
大介の二打席目の前に、白富東も動く。
打席の手塚、ストライク先行の吉村に対して、初球から強振。
都合よくヒットにはならないが、ファールとはいえいい打球が飛んだ。
(春と違って、ちゃんとストレートに目がついていってる)
東郷は驚くしかない。三番と四番以外は、雑魚としか言えなかった打線だ。
それがちゃんと吉村の球に当ててくる。色々と指導陣が変わったのは聞いていたが、この短期間でここまで変わるものか。
(まあでも、これぐらいなら普通の強豪もやってくるさ)
二球目、内角へのストレートに、手塚はバントを仕掛ける。
しかしそれも予測済み。ファーストとサードが猛烈なチャージ。
バットを引くしかなく、ツーストライク。
ここでセオリーなら、一球外すというのもあるが、それは相手の打者を警戒してのこと。
このレベルには必要ない。もっとも甘くも見ない。スプリットを膝元へ。
カットにきたバットは触れもせず、三球三振である。
二番はキャッチャーの大田。
東郷の分析によると、この打者には基本的に、打者としてのセンスがない。
それなりにヒットも打つし、出塁率が低いわけではないが、おそらくそれはキャッチャーとしての読みによるものだ。
単純に、荒れたストレートで押せばいい。気分次第の変化球でも打ち取れる。
ボール球を一つ見て、ファールを打ったのは感心したが、そこまでだ。
スプリットで三振。
問題は次の打者だ。
(どうしてよりにもよって、この時代のこの場所に――)
そう神を呪いたくなるほどの、圧倒的な才能。
三番ショート白石。
吉村には言われてないが、古賀監督は東郷に言っていた。
ホームランさえ打たれなければ上等だと。
内外の、かなり際どいゾーンぎりぎりを狙わせる。
それもあくまでも全力で。置きにいったら打たれる。
スライダーとスプリットを余裕で見逃され、ボールツー。
高い位置にあるマウンドに立つ吉村を、完全に見下ろしている小さな巨人。
(チェンジアップを外に外して、内角にストレート……でもその後は、投げる球がない……)
吉村は東郷のリード通りに、チェンジアップを外に外した。
さっき打ち損ねたその球種を、大介は余裕で見送る。
(動じてないが……ここで勝負にいけないなら、どこかで負ける!)
渾身のストレートを、吉村は胸元に投げ込む。
長いバットを使っている大介が、器用に腕を畳んで、弾き返す。
一直線。打球は弾丸ライナーとなって、右中間のフェンスを直撃した。
俊足の大介だが、最初から深く守っていた外野からの、三塁への送球は早い。
二塁で止まったその姿を、マウンドの吉村は震えながら見つめた。
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