第38話 最後の一歩
普通に寝て、普通に起きて、普通にストレッチをして、普通にランニングをして、普通に念入りなストレッチをして、普通に軽く投げ込みをした。
そんな全く変わらないルーティンを行って、直史は食堂に入った。
「あ、調子どう? 投げてきた?」
ジンがややそわそわとした態度で、直史を出迎える。
「軽くな。アホみたいな寝違えもないし、普通のコンディションだよ」
そう言って室内を眺める直史だが、昨夜と違って空気が重い。
どうやら一晩を経て、今更緊張感が増してきたらしい。
北村は普段と変わらない態度を見せているようだが、あとはほとんどが明らかに大なり小なり緊張している。
「何、みんな今更緊張してるのか?」
直史の言葉に、神経質な視線を向ける一同。それを見回して、直史はいつも通りの人間と、いつも以上に楽しそうな人間を発見する。
「まあ、私がプレイするわけではありませんからね。皆さんが緊張して判断がしづらくなったら、私に聞いてください。データ通りの選択肢を提供しますので」
淡々と言うセイバーは、とろりとしたオムレツを口に運んで、かすかに笑みを浮かべている。彼女が卵料理が好きだと、どれぐらいの人間が気付いているか。
「春より上げて147kmがMAXだろ? さすがに左のその速度は未体験だからな」
がつがつとご飯を掻きこみながら、大介はおかわりまでしている。
直史の手元を見て、岩崎がまた皮肉げに言う。
「お前はいつもより小食だな。人には言っておいて、自分でも緊張してんのか?」
「試合前と試合中の補給で調整するんだ。たぶん今日はタフな試合になるからな」
平然とスルーした直史は、炭水化物中心の食事を口にした。
直史は冷静だ。
と言うよりは、いつもと変わらない。
いつも通りに、ちゃんと状況に合わせて微調整をしてくる。
夢中で食べている大介以外のメンバーは、さすがにその平静さに驚かされる。
だが思うのだ、直史のメンタルは強靭なわけでも、頑健なわけでもない。
単に、鈍感なだけではないのかと。
「なあ、ナオってさ、緊張したこととかないの?」
ふと気になってジンは尋ねる。中学時代にシビアな試合を多く経験してきたシニアメンバーには、大舞台でのプレッシャーというものが分かる。
プレッシャーは大概の人間には圧力としてそのまま働くが、中には普段以上の力を発揮させてしまう場合もある。
押さえつけられた方が、より反発するのと同じだ。
「そもそもプレッシャーというのが実感出来ない」
「……さよか」
直史も人間なので、プレッシャーらしきものを感じたことはある。
だがそれが実のところ、周囲の反応に合わせてプレッシャーを感じているふりをしているのだと気付いた時、どうしてそんな演技をするのかが分からなくなった。
物事は、あるがままにそのままに受け止めるしかない。
しっかりと正しい努力をして、それを発揮する。
それ以上のことを求めても仕方がないではないか。
よく、練習では120のことをしておかないと、実際には100のことしか出来ないとか、普段通りのことをするのがいかに難しいかと言う人々がいる。
だが直史にはそれが分からない。100の練習をして、100の結果を出す。それが正しいのだ。
100の練習をして80の結果しか出ないのなら、それは練習の仕方に問題があるのだ。80の練習しかしていないのを、100と勘違いしているだけだ。
さらに痛切に言うなら、100の練習で100の結果が出るような工夫がなされていないだけだ。
適切で正確な、工夫した努力。それが直史のモットーだ。
予定通りに出発したバスに乗り、特になんの障害もなく、スタジアムに到着する。
ここらで挨拶回りをするべきなのだが、どうしても必要なものは学校を出る時に済ませてある。観客が多すぎて、ここで対応することは出来ない。
セイバーの手配していた黒服が、汗をだらだら流しながら進路を確保する。警備の人もいるのだが、人手は足りていないかもしれない。
「くっ、レギュラーメンバーの皆、ここは俺たちザコに任せて先に行くんだ!」
なんだかスタンド組の一年が、かっこいいことを言いながら周囲を取り囲んで守ってくれている。
まあ確かに、その献身はありがたいのだが、ザコは言いすぎだろうに。
どうにかベンチにまでたどり着いたが、ここまでの道のりのなんと長かったことか。
「なんかさ、ナオとガンの声援、やたらと多くなかったか?」
どこか恨めしそうな表情で大介が言う。
「まあ、ノーノーとパーフェクトの一年生ダブルエースだからねえ」
ちなみにここまで、両者全イニング無失点である。
「俺だって打ちまくってるじゃん!」
「ピッチャーの成績が良すぎて、打線が目立たないんだよ」
「俺らが援護しないと、コールドで勝てなかったのに!」
嘆く大介をジンが宥めているが、確かに大介がいなければ、そもそもここまで勝ち進むどころか、シードを取ることさえ出来ていない。
聞き流している直史であるが、おそらく大介が本当に世間を騒がせるのは、二年後の10月だ。NPBのドラフトがある。
甲子園に行けなかったとしても、少なくとも大京レックスは間違いなく取りにくるだろう。そして一度でも機会が与えられれば、こいつはモノにする。
(一年春の時点で、プロに注目されてた吉村からホームラン打って、下位だろうけどドラフト有力候補の大河原を打てるんだからな)
そんなことを考える直史であるが、彼は自分が県下有数の打撃強豪校を、歴史に残る完全試合で下したことを、完全に意識から消していた。
先攻は白富東。
つまりはいきなり、吉村と大介の勝負が実現する。
満員の観客席。両校の吹奏楽部の音と応援団の声。
勇名館は故障から復活した吉村が元々人気があった上に、ノーシードからここまで勝ちあがってきたというドラマを持つ。
対する白富東は甲子園とは全く無縁の公立校で、それが破竹の勢いで最後の一歩まで至っている。
春の大会の結果を知っていれば、この両者の因縁が、最後の夏に激突するのは、運命の不思議としか言いようがない。
勇名館の守備陣の動きは、まさに闘志と冷徹が両立されているものであった。
ノックの打球は適切であり、ゴロを取る瞬間、送球の瞬間さえもが洗練されている。
これは下位打線の得点力を多少落としたとしても、内野を強固にしたものだ。
吉村が投げれば、まともに打たれることはない。
ただ吉村に無理をさせないために、打たせて取るという形も必要となる。
そんな守備の様子を見る白富東だが、別に圧倒されたりはしない。
「俺らよりちょっと上手いな」
「でも本当にちょっとだけだな」
自然と気負いなく、そんな言葉が洩れる。
先攻を取れたのは幸いだった。へぼい攻撃で三者凡退になっても、守備までに心構えが出来る。
そんな大半の部員とは離れて、大介は投球練習をする吉村を見ていた。
そしてそんな大介を直史は見ていた。
「どうだ?」
「まあ、調子は良さそうだな」
大介の視線は鋭い。打席で上がるイケメン度が、既にベンチで上がっている。
いつもとは違う大介だが、こいつは本当に特別なバッターなので、むしろこういう舞台でこそ、より実力を発揮する。
直史は思うのだ。昨日の上総総合との試合。
大介は第四打席もヒットを打っていたが、もしあれが一打逆転の場面だったら、ホームランになっていたのではないか。
練習では何十回でも空振りを取っていた直史だが、おそらく実戦で勝負したら、結果は大きく違うものになるのだろう。
打つべき時に打つ強打者は多いが、大半は直史の前では平均以下の力しか発揮出来ない。
プレイボール。審判の手が上がり、手塚が打席に入る。
春の大会とは選球眼が圧倒的に上昇している。あの大会では吉村の前にほぼ完全に抑えられたが、白富東の成長速度は凄まじい。
だが手塚は三球三振で切って落とされた。
ジンに囁き、ベンチに戻っても、口数は少ない。
「めっちゃキレてます。多分まだ、本気出してないけど。あとスプリットは途中で消えました」
一度もバットを振らなかった手塚は、恐ろしく冷静だ。
春の時点でさえ大介以外はまともに打てなかったのだ。決勝でモチベーションが最高に高い吉村を、そうそう打てるはずもない。
二番のジンにも、遊び球のない三球勝負。
勝負球に、新しく使うようになったシュートを投げてきた。もっともこのシュートは変化は少なく、握りで調整しているものだろう。
カットも出来ずに三振。やはりこれまでの投手とは違う。
左の本格派だ。
「チェンジアップがまだ来てない」
ジンから耳打ちされ、大介が打席に立つ。
応援席から流れる音楽は、ダースベイダーの登場シーンに使われるアレである。大介自らが注文をつけたという。
悪玉の代表格であるこのキャラの音楽は、反射的に相手にプレッシャーを与える。
左対左。統計的には投手有利であるが、吉村に大きく変化する球はない。
四隅に散らされたストレートを、大介はたやすくカットする。
以前に狙い打ったのはスプリットだが、ストレートだけを続けたのは、一打席目は見ていくというこちらの意図を悟られた気がする。
(今日は四打席あるからな。まずは球を放らせる)
スライダーもスプリットも、カットして選択肢を減らしていく。
七球目のややコースの甘いストレートは、今日最速だったろう。それもカットする。
これでもう、チェンジアップしかない。
普通の打者ならそう考えても、速球に慣れた体がついていかない。
想像通りに投げられたチェンジアップ。
だがそれは、想像以上に遅い。
大介のスイングが止まる。
力が下半身に集まり、爆発の時を待つ。
泳ぎながらもアッパースイングで、ボールをセンターに運ぶ。
打ち取った。そう吉村は判断した。
三振に取れなかったのは悔しいが、それにこだわり過ぎるのも良くない。
高く上がったボールは落ちてこない。
センターがバックする。まだ落ちてこない。
「おい……やめてくれよ」
思わず懇願する吉村。センターの背中がスタンドに接触する。
「冗談だろ……」
そこからセンターはわずか数歩前進し、滞空時間の長いフライを捕った。
両翼のどちらかであれば、スタンド入りの飛距離だった。
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