第37話 魔球の秘密
勇名館の古賀俊夫監督は今年で38歳。大学野球の経験者であり、卒業の後は母校の公立高校に奉職。二年目から野球部の顧問となり、体育科もスポーツ推薦枠もない学校を、千葉県のベスト16常連の中堅校へと育てた。
10年前に新設された勇名館の理事の招聘を受け、学校職員として野球部の監督に就任。二年目から結果を出し、ここ数年はほぼ毎年県内のベスト4には名前を連ねている。
そんな彼が現実的に甲子園が狙えると思ったのは四年前、当時まだ中学一年生であった吉村を中学軟式の試合で見てからだった。
コントロールが壊滅的で、変化球もなく、フォームもばらばらな、投手志望の小さな少年。
だがそのストレートのパワーの最大値は、古賀の見た多くの投手の中でも、およそ見当たらないものだった。
勇名館とのつながりのあるシニアへ紹介し、正しい投球を教えてくれるコーチを与え、勇名館への特待生を約束した。
有望な中学生は、二年生の秋に進学先が決まっていることも珍しくないが、古賀が彼の両親を説得して進路を決めさせたのは、一年の秋の時である。
黒田を勧誘したのはその後だ。そして軟式に埋もれていた東郷を見出し、先に二人を入学させた。
念願の吉村の入学。一年生エースを擁した勇名館は、夏の大会を決勝まで勝ち残ったが、体力不足と、選手層の厚さで東名千葉に及ばず、甲子園を逃した。
続く秋の大会では吉村が故障し、チームはあえなく敗退。
むしろ一年生にそこまで頼っていた上級生が、奮起する材料になった。
冬を過ぎて着実に故障を治療し、下半身のトレーニングによって、確実に吉村は一回り大きくなって帰ってきた。
この復活劇を見よ、と意気込んだ春の大会は……あのクラッシャーの手によって、シードも取れずに終わってしまった。
そして黒田達の最後の夏、体制こそ万全ではあるが、苦しいトーナメントの山に入った勇名館。
東雲の大河原との投げ合いは、確実に吉村をステップアップさせた。
目の上のたんこぶだった東名千葉も倒し、ついに決勝までやってきたのだが……。
白富東が今後二年、千葉県の中で屈指の強豪となることは予想していた。
もし夏の大会で当たっても、それに勝つ自信はあった。
そう、蕨山が千葉県の高校野球史に残る、完全な敗北を喫するまでは。
(佐藤……お前みたいなやつが、どうして無名だったんだよ……)
あの試合を分析すれば分析するほど、確実な攻略法はないとしか思えない。
だがそれでも、今年の夏は狙うしかない。全くデータがない状態で当たるよりは、マシだったと思うしかない。
まずは、あの球の分析だ。
「佐藤の、仮に謎スラとでも呼ぼうか。この謎スラの特徴は以下の通りだ」
・バットをすり抜けた
・振り遅れた
・下に逃げていった
「すり抜けたというのは、つまり目がついていかなかったということだろうな。少し目のいい人間は、下に逃げていった、つまりその変化に気付いたわけだ」
高速スライダーや高速スプリットなどは、打者からは消えたように見える場合が多い。
おそらくこの球もその系統ではあるのだ。問題はこの謎スラが、現代の野球の主流に喧嘩を売ってる理屈で成り立ってることだ。
すり抜けたのは目がついていかない変化があったから、下に逃げていったというのはそういう変化だったから。
問題は振り遅れたという部分だ。
「吉村、ピッチャーの常識として、一番キレがあって、一番バッターが振り遅れるストレートはどんなものだ?」
「綺麗なバックスピンがかかっていて、そのスピン量が多いものです」
球威のあるストレートを投げようと思えば、まずこの常識が叩き込まれる。
スピンのないストレートは、スピードこそあっても、単なる棒球である場合が多い。ちなみに大介の投げる球はこの系統である。
そして、バックスピンとスピン量の意味。
「バックスピンをかけることによって、ストレートはどうなる?」
「マグヌス効果と揚力によって落ちにくい球になります。ついでにスピンがかかっていると、失速しにくい、つまりは伸びのある球になります」
先回りして答える吉村だが、実際は名称を憶えているだけで、理解しているわけではない。
彼は野球しかないアホの子なので。
東郷が吉村の外付け頭脳と呼ばれる所以である。
「分かりづらいかもしれないが、つまり佐藤の謎スラは、下に伸びていく球だ。バックスピンではないスピンが良く利いた球だな」
「監督、それだと普通の変化球だと思うんですが」
黒田の指摘に、古賀は頷く。さすがにうちの四番は本質を即座につかんでいる。
「スピンが正確にライフル回転していると、右や左に曲がることはない」
その言葉で、さすがに何人かは気が付いた。
「それってジャイロボールじゃ……」
そして呟いた。
ジャイロボール。名前だけは多くの人間が聞いたことがあるはずだ。
古賀などは主人公がこの球を投げるマンガ作品のリアル世代なので、ちゃんと調べたことがある。
まあ、マンガの説明は実際とは大嘘なので、勘違いした球児たちを多く産んでしまったかもしれない。
「ライフル回転することによって、まあ、握りにもよるんだが、失速しないスピンをボールに与えている。しかしバックスピンがかかってないので、ストレートよりも下に落ちていく。この伸びならここらへんを通ると思えばボールの上を振ってしまうし、球速で判断すると失速しないので振り遅れる」
古賀は直史の投球を撮影した映像を流した。
「ストレートと思われる球は130km台前半、そしてジャイロボールと思われる球は120km台後半だが、おそらく体感では両者は同じぐらいに思えるはずだ。いや、普通の特徴のストレートと、下に伸びるジャイロボールなので、頭が混乱するかもしれないが」
実際に部員の多くは混乱していたが、とにかく直史がジャイロボールを使うということは理解した。
「あの監督……」
PCを操作していた情報班の部員が、おそるおそる手を上げる。
「ネットで調べた限りだと、一流の投手はだいたい、ジャイロボールなんて存在しないか、ただの失投だって言ってるみたいですけど」
「俺も調べた。だが、そいつらは現役の投手だろ?」
本当ならばジャイロボールについて研究した著書の人間に話も聞きたかったのだが、そもそも直史が初めてはっきり分かるジャイロボールを投げたのは準々決勝からだ。コールドの五回戦も確認する限りわずかに投げているが、特に決め球としては使っていないので気付かなかった。
研究する時間がなさすぎた。あちらのブロックは蕨山か上総総合が来ると思っていたのだ。ジャイロボールの疑いが出て、おそらくそれで間違いないと判断するまでが精一杯だった。
「おそらく現役の選手でも、ジャイロボールを使っている選手はいる。むしろ否定している選手こそ怪しいな。なぜならそんなものないと、相手に思わせていたほうが効果的だからだ」
そう、簡単に調べる限りでは、引退した選手の中には、おそらくこれだと言うものがいるのだ。あとは打者の中にも、対戦投手の球がジャイロボールに分類されるのではとコメントした者がいる。
たとえば日本野球史上五指に入るであろう大投手、江夏豊の球がジャイロボールではなかったかと言われている。
三振を多く取ったその成績から考えれば、確かにそれも納得の理由である。
さて、球の性質については、理論上の説明は済んだ。
問題は、どう攻略するかだが。
「誰か、この球の攻略法、分かるやついるか?」
古賀は分からなかったのだ。よって選手にも頼るしかない。
監督失格かもしれないが、勝つためには体面を気にしている場合ではない。
「トシちゃん、これってプロとかだと、誰が投げてるの?」
古賀のことをトシちゃんと呼ぶのは吉村のささやかな特権だ。なにしろ中学のころから面倒を見ている仲だ。
「アンダースローの投手の投球は、自然とジャイロボールになっている可能性が高いという説もあったな。それなら基本的に球速の出ないアンダースローが、ちゃんと今でも存続している理由の一つにもなる」
問題はこれを、スリークォーターの直史が投げているということだ。
アンダースローが基本的にジャイロボールを投げているとして、直史はこれを投げ分けているのだ。ストレートとは別の球として。
投げ分けられているだけに、ちゃんとジャイロボールと認識しなければ対応出来ない。
「効果的な球だということは分かりましたが、どうして今は投げる投手がいないんですかね? いや、いても隠しているにしろ、効果的なら使う人は増えると思うんですけど」
「それはまあ単純に、難しい球なんだろうな。回転軸が進行方向を向いた状態で、ライフル回転をかけるんだから。軸が少し動いただけで、普通のいい変化球になる」
つまり、器用な投手でないと使えないというところか。
そしてこれだけの変化球を使い分ける投手が、不器用なわけはない。
「弱点はないんですかね。肘や手首に負荷がかかるとか、コントロールが甘いとか」
「蕨山の試合を見た限りでは、かなり積極的に使っていたから、特別な負荷は期待出来ない。まあ元々、異常に球種の多い投手だしな。コントロールに関しては、実は確かに甘いところがありそうなんだが、それでも突破口にはし辛い」
そう、他の球種では抜群の制球力を誇る直史だが、さすがにこの球に関しては、完全にコントロールが出来ているとは言いがたい。
しかし打たれないのだ。
そもそも球の特徴が普通の他の球とは違うので、まともに振っても当たらない。
たとえばマウンド付近とホームベース周辺で球速差が大きい球を投げた後にこれを投げれば、途中で加速しているかのようにさえ思えるかもしれない。
リード次第で効果が増幅されるため、球自体の弱点とは考えにくい。
「せめてピッチングマシーンで練習は出来ないんですか?」
「そもそもこの設定で投げてくれるマシンがない。あったとしても、おそらく正確には投げられん。普通なら逆なんだろうが、佐藤の投球は機械よりも正確だ。特注のマシンなら可能かもしれないが、明日には間に合わない」
アンダースロー投手の確実な攻略法はないし、直史はさらにストレートとジャイロボールを明確に使い分けている。
ジャイロボールを打つ練習だけをして、攻略出来る投手ではないのだ。
「プロでも投げられない球って、それもう本当に魔球のレベルじゃないですか?」
泣き言にしか聞こえないが、事実である。
「俺もこの球自体の攻略は諦めた。そもそも佐藤に限らず、シンカーやフォークで三振を取る化物は多いから、それを攻略するのと同じ発想をするしかない」
ああ、と選手たちの目が、ようやく明るいものになった。
決め球を持っている投手の攻略法は、いくつかある。
決め球以外を狙うというのが、その一つだ。特に決め球がゾーンの外に逃げていく変化球だったら、見送ればボールになる場合が多い。
ゾーンに入ってくるならば、それは打てる場所にあるということだ。難しいがその点の部分を狙い打つ。
あとはシンプルに、決め球以外を狙っていくことだ。たとえばフォークが決め球の投手の場合、フォークを全部見送る。
フォークは肘などに負担がかかりやすい球だということもあるが、さすがにそれ以外の球を一切投げないというのは、配球的にありえないし、そもそもピッチャーにもキャッチャーにも勇気が――蛮勇がない。
まあ、ナックルボーラーは別だろうが。あいつらはナックルしか投げない動物なのだ。
具体的な指示を色々と出した古賀であったが、実のところそれは、選手たちの士気を維持させるためのものであり、根本的な解決策はおろか、その場しのぎさえ危ういのだ。
だから、黒田だけを呼んだ。
「正直なところ、確実に相手を打ち崩す手段が見当たらん」
古賀の言葉に、黒田も無言で頷いた。
ジャイロボールの特性は、他の全ての変化球とは逆方向にある。
変化球は遅いが、ジャイロボールは速く感じる。
変化球はブレーキがかかるが、ジャイロボールは伸びてくる。
キレのいい球は落ちないが、ジャイロボールは下にキレてくる。
普通のボールよりも、球速の減衰がない。
そして何より、これに異常な数の変化球が絡まってくる。
「黒田、他のやつには色々と言うが、お前だけは自分の考えで打っていけ」
古賀は全てを、このチームの四番に任せる。
「なんだかんだ言って俺は現役じゃ、甲子園も行けなかったからな。プロには一応誘われたが、とても生きていける自信はなかった。でもお前は違う」
二年の春まではエースで四番、吉村入学前の、間違いなく最高の選手だった。
「お前はプロに行く素材だ。だから俺の考えたような分析なんか叩き壊して、佐藤の球を放り込んでくれ」
そう、考えれば考えるほど、直史の球を打つことは出来なくなる。
だがそんな古賀の想像の上を、こいつたちなら超えていけるはずだ。
「まあ、選手頼みの情けない監督だがな」
そう言って背を向けた監督に、黒田は声をかける。
「監督は、甲子園に行くんですよ」
そう、今年こそ。
「俺たちと一緒に、行くんです」
たとえどれだけ異質な投手であろうと、同じ人間。
白石と戦う吉村に比べれば、自分はまだマシだろう。……うむ、絶対にマシである。
もっとも敬遠が出来る投手に比べて、あちらの攻撃から逃げるわけには行かない打者には、退路がない。
攻撃するはずの打者が、投手の攻撃に対応するというのも変かもしれないが、それが実感なのだ。
三年生としての最後の夏。
それが明日終わるか、それともまだほんの少しだけ続くか。
いや、続かせてみせる。それが強豪で四番を張っている、己の矜持だ。
古賀は白富東の方が、戦力としては上だと言った。そしてその分析も間違ってはいないのだろう。
一年生ゆえの体力不足や経験不足、またはメンタル方面の不安も鑑みた上で、そのように判断しているのだ。
だが一つだけ、確かなことがある。
勇名館の監督も一年も、甲子園にかける執着だけは、白富東を圧倒している。
運命の夜が明ける。
この試合が歴史に紡がれるものになるのかどうか、今はまだ誰も知らない。
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