第32話 彼はまだ自分の限界を知らない
深い眠りの中から、彼を目覚めさせるものがある。
感じるのは野球の匂い。そう認識した直史は、すぐさま覚醒する。
時計を見れば、時刻はまだ六時前。
普段は規則正しく六時に起床している直史は、周囲を眺める。
昨日の夜はちゃんと眠れた。直史の心配は杞憂だった。
泥のように眠っている野球の匂いをさせる仲間たちを残し、直史は寝巻き用のジャージから運動用のジャージに着替え、タオルにボール一つ、マイグラブをもって部屋を出た。
宿泊施設を出て、壁に向けてボールの投げ込みが出来るところを捜す。あまり音の響かない、静かな場所を。
そこを確保した直史はぐるぐると足腰の関節を回し、筋肉を温めてから、ジョギングを開始した。
静かだ。
白富東の合宿所周りはちょっとした林に覆われているが、朝の中に人間の音がしない。
軽く汗ばむほどに体の奥まで暖まった直史は、壁に向かって投げ込む。マウンドではないので、上半身が主体の投げ方だ。
昨日は色々なことがありすぎて、ダウンがしっかりと出来なかった。今日の先発の予定は岩崎だが、直史のリリーフの可能性もあるし、決勝に進むならなお、体をケアしておかなければいけない。
投げ込みすぎるのも、もちろん禁止だ。壁にあるわずかな突起をめがけて、ストレートをゆっくりと投げていく。そして変化球へと続き、左肩も軽く動かしておいた。
施設に戻ると、既に朝食の時間になっていた。
父母会の人たちが協力して、セイバーの部下の栄養管理士の指導の下、朝食を作っていてくれる。
「どこ行ってたんだ? ブルペンにもいなかったし」
岩崎を隣に座らせたジンが、その反対側の椅子を引いてくれた。
「いや、昨日あんまり動かなかったから、ちょっと調整してきた」
「お前……昨日うちのチームで一番動いてた人間が、何言ってんだ?」
向こうから岩崎も言ってくるが、確かに昨日は14三振、内野フライ四つ、内野ゴロ三つという内容だったので、他の選手はあまり動いていなかったのだろう。
「打者相手には70球も投げてないんだから、肩肘の疲労なんてねえよ」
直史は納豆を二つ取ると、ご飯にかけて食べる。本当はここに生卵がほしいのだが、今は我慢だ。
「一応変な人間が入り込んでいるかもしれないんだから、気をつけろよな」
珍しく岩崎がそんな言葉をかけてくるが、彼が納豆にかけているのはマヨネーズだ。 醤油派の直史とは相容れない。
二人の溝は深い。
午後は特殊な練習をするが、午前は座学の予定であった。
しかしセイバーが戻ってこないため、上総総合の試合をビデオで見ることになっている。
「あ、しまった」
昨夜、直史はスマホの充電を忘れて、電源が切れた状態になっていた。
なにしろ急激に増えた知り合いからメールがたくさん届いたので、普段よりも早く電池が切れてしまったのだ。
いつもと違う場所に泊まるということもあって、就寝時のルーティンが崩れていた。
直史は電源コードをスマホにつなぐと、溜め息をついた。
普段はSNSやスマホでのネットサーフィンもほとんどしない直史だが、こういう時にスマホがないのも、やはり困りものだ。
「すみません、ちょっと図書館行って来ます」
色々と荷物は持ってきてもらったが、さすがに暇つぶしに読む本までは指定していなかった。
「おう、まだ図書館は開いてないと思うから、先に職員室に行った方がいいぞ」
北村に言われて、直史は施設を出る。
白富東には図書室はないが、図書館がある。
校舎本体よりも古い、120年ほど前に建築された、タイル張りの洋館だ。
実は文化財に指定するかという話が上がっているのだが、とりあえず野球部には関係はない。
普段よりは教員の数は少なく、司書の職員もまだ来ていなかった。
自分で開けて入っていいと直史は鍵を渡されたが、これは実はちょっとした特別待遇である。
――物事が、運命のように運ぶには、少しずつきっかけが組み合わさっていく。
朝日が木陰に遮られて、図書館の中は微妙に薄暗い。
文庫のコーナーに行った直史は、既に読んだことのある本を手に取る。
下手に新しい作品に手を出して、試合中に先が気になったら困る。
だからここは司馬遼太郎の「花神」を選んでおいた。
直史はこの小説が好きだ。
どこが好きだと問われれば、主人公が好きだ。
幕末維新の動乱の中で、坂本竜馬と同じぐらい異色の存在。
それでいて彼は、確かにそこにいたのだという存在感を感じさせる。
軽い足音が聞こえてきた。
司書の職員かと思って直史は鍵を手にしたが、入館してきたのは女生徒だった。
このまま鍵を預けていいものだろうか、と思わないでもなかったが少し躊躇する。
少女はメガネをかけていて、髪をきっちりと揃えていて、制服を着崩したりはしていない。
おそらく預けても問題ないとは思ったが、直史はそうしなかった。
彼女は真面目そうで、ごく普通の女の子――には見えなかった。
(ああ、所作が綺麗な子なんだな)
納得した直史の視線の先で、彼女は自分の背が届くかどうかという場所にある、分厚い装丁の本に手を伸ばしている。
危なっかしさに直史はなんとなく笑って、その本に手を伸ばした。
「どれ? これでいい?」
「はい。ありがとうございます」
タイトルは源氏物語第二巻。
訳者が書いていないが、原文なのだろうか。
直史はまた時間を待つべく、席に座る。
この時、直史が手の中の本を読もうとしなかったのも、どこにでもある奇跡的な偶然だった。
直史の前に、少女が立っている。
「あの、私は一年三組の佐倉瑞希です。佐藤直史君ですか?」
「そうだよ。えと、初めましてかな? 佐倉、さん」
少し呼びにくい名字であった。
「クラスも離れてるんで、初めましてだと思います。少し、お話してもいいですか?」
「いいけど、司書さんが来たら、俺戻るから」
「はい」
瑞希は直史の向かい側に座ると、鞄と本をその傍に置いた。
自然に背筋が伸びている座り方をしている子だ。
さて、話とはなんだろうか。
一日で中身は変わらないのに、急に有名人になってしまった直史は、何かを質問されることに慣れかけていた。
「あの、私、小説家になりたいんです」
しかし瑞希は違った。何かを尋ねるのではなく、彼女は直史と話がしたかったのだ。
「父は弁護士をしていて、私も将来は弁護士になりたいんですけど、小説家にもなりたいんです」
その言葉は不思議なほど直史の心に響いた。
「弁護士か。弁護士になって、それと一緒に、小説も書きたいの?」
「はい。私も本は好きで、よく読むんです。山崎豊子さんとか。だからどちらかというと小説家より、ノンフィクション作家に近いんですけど」
「ああ、砂の巨塔とか、女系家族とかの。確かに弁護士さんも読みそうだね」
「ええ。うちの父の本棚にあったんですけど、父はあんまり好きじゃないのに揃えてるんです」
「分かる気がする。あの人の作品って弁護士なら、好きか嫌いかの二択に分かれるんじゃないかな」
ふと直史は思った。
高校に入ってから、読書の話をするのはあまりなかったな、と。
二年の先輩には戦国時代オタクがいて、色々と話したりもしたが。
直史が好きな戦国武将は、本多忠勝である。
「けれど、弁護士かあ」
「不思議ですか?」
それは、弁護士と小説家の両方を目指すのが不思議という意味なのか、と直史は受け取った。
「いや、弁護士って人の話も聞くし、誰かに話したいこともあるよね。弁護士……いいな」
直史は公務員になりたいと思っていた。特に理由はない。ただ、しっかりとした職業にはつきたいと思っていた。
だが、直史が目指す千葉大学には、法経政学部がある。
「あ、俺も弁護士になる」
その日、瑞希は生まれて初めて、男の子が自分の将来を決断する姿を見た。
「え? あの、弁護士も今は需要と供給のバランスが微妙な職業ですよ? 確かに他の資格を兼ねることが出来るので、かなり有意な資格ですけど」
「うん、それでいいと思う。俺も将来のことなんとなくしか考えてなかったけど、なんだかすっきりした」
晴れ晴れとした直史の顔を見て、瑞希は逆に不思議に思った。
「あの、佐藤君はプロ野球選手にならないんですか?」
「ならないよ」
直史は即答出来た。
昨日の会見でもそうだった。大介にプロ志望のことを聞いた人間はいたが、直史にはいなかった。
直史がプロになれるとは、誰も思っていないのだ。なるならないではなく、なれると。可能性の問題だ。
「あの、佐藤君は凄い人なんですよね?」
「凄くないよ。普通だよ。普通の人間だって、人生に一回ぐらい、特別なことが起こるんだよ」
「普通の人は、新聞に載らないと思います」
「そうかな? でも犯罪者だって載るし、何か不思議なことをした人も載るでしょ?」
「でも、地方大会の試合なのに、全国紙に載るのはあまりないと思います」
ああ、この子はそのぐらいには野球に詳しいのか。
直史は少し認識を改めて、瑞希と向かい合った。
「あのさ、佐倉、さん。ピッチャーって、速い球を投げる人なのは分かるよね?」
「はい。父もここの野球部のOBで、私も一緒に野球中継は見てますから」
なるほど、本人にも教養ありか。
ならばむしろ、直史の限界も分かりやすいだろう。
「今、世界で一番速い球を投げる人が、時速169kmなんだ。計器の故障じゃないと分かってるのがこれ」
とんとん、と机の上を直史は叩いた。
「それで今、日本の高校生で一番速いのが、新潟の上杉っていう三年生がこの間出した、159km。これもちょっとニュースになってたかな」
帝都一と春日山の試合を、直史達は見ていた。
上杉兄弟は両方全国レベルだが、兄の方は特に超高校級と言うか、高校野球史上最強の投手ではないかとまで言われている。
あの日、帝都一との試合では、後で聞いたら155kmが出ていたそうだ。
「それで、その弟が俺たちと同じ一年生なんだけど、こいつも150km出てるわけね」
兄弟150kmという、それで新聞の一面にもなっていた。
「で、俺の球速が最高で135km。実は同じ一年に、140km出せるのが二人いるんだ。千葉県を探しても、一年生で140km出せるのはけっこういると思うよ」
これは事実であり、誰も疑う余地はない。
投手として通用するかどうかを別とすれば、直史のスピードは特筆すべきものではないのだ。
だが、それとは別の事実もある。
「けれどプロ野球の試合でも、120kmとか110kmとかの球を投げる人もいますよ。新聞には変化球がすごいって書かれてましたし」
緩急の投げ分けで、そういうボールはある。直史だって、90kmも出ないスローカーブは良く使う。
「変化球は、習って使えるようになればいいし、速い球を投げる人が、わざと遅い球を投げることは出来る。けれど遅い球しか投げられない人が、速い球を投げることは出来ないからね」
これは単純なロジックだ。直史が140kmを投げられないのは、誰もが認める現実だ。
「佐藤君の球は、これ以上速くならないんですか?」
その質問に、直史は答えられなかった。
「上杉さんというお兄さんが、160kmを投げた。単純に比べられないけど、弟さんの方がもしお兄さんと同じぐらい速くなるなら、佐藤君も145kmまでは投げられる可能性がありませんか?」
それは、否定出来ない可能性だ。
速い球が投げられない。では投げられるようになればいい。
しごく簡潔な主題だ。
直史はまだ、自分の限界を知らない。
自分を見つめる瑞希に、直史は軽く息を吐いて答えた。
「確かに、まだこれから速く投げられるかもしれない」
入学した時、自分のMAXは120kmだと思っていた。実際に全力を出したら125kmが出たし、今は135kmが出ている。
三ヶ月で10km速くなったのだとしたら、来年の春には165kmが……いや、それはないか。
ジンもセイバーも、スピードを求めるのは来年の春が目標とは言っていた。
しかしだからといって、直史のストレートの可能性を、否定したことはない。
「佐倉、さん。ありがとう」
瑞希は少しだけ首を傾げたが、直史のわずかな微笑みに気付いた。
「どういたしまして? あの、それで質問なんですけど、なんで私の呼び方、そんなにぎこちないんですか?」
「あ、これはすごく単純な理由で、俺の妹が桜って名前なんだ。だから呼びにくくって」
思わずさくらーっ!と怒鳴ってしまうこともあるのだ。お兄ちゃんなので。
「あ、佐倉、さんの名前も名字っぽいから、そちらで呼んでもいいかな。なら普通に話せると思う」
「はい。分かりました」
瑞希はメモを取り出すと、そこに自分の名前を書く。
瑞々しい、希望。
「夏の大会が終わったら、また話せますか?」
「うん、大丈夫。ちょっと大会中は無理だけど、メールでいいなら返せると思う。あ、スマホ持ってないや。メモ、もう一枚ある?」
携帯の番号を書いて渡す。
「メーカーが同じだから、それでメールも送れるよね。それと、なんだか俺たちの番号知りたがってる人間いるから、それだけ気をつけて」
「はい、分かりました。ありがとうございます、佐藤君」
まだそんなに話すことがあるだろうかと、直史は疑問にも思ったのだが、それは彼女の問題だろう。
「試合、応援に行きますね」
「だけど、明日は俺投げないよ。日曜日は投げると思うから、お父さんと一緒に見に来たらどうかな?」
白富東の、甲子園初出場が決まる瞬間を。
その劇的な瞬間を――。
「文章にしたらどうかな?」
え? と瑞希は声に出さずに問うた。
「ノンフィクションだけど、うちの野球部の話をさ。公立の進学校が、開校以来初めての甲子園の出場。ちょっとした第一級資料だね」
当事者の記録を、そう呼ぶのだ。
「分かりました」
そう言った瑞希の声には、強い意思が込められていた。
そして時は動き出す。
やってきた司書に鍵を渡して、直史は図書館を後にした。
微笑んだ瑞希が手を振り、直史も軽く手を振る。
自分も笑っていたことに、彼は気付かなかった。
「綺麗な子だったな」
直史はそう呟くと、宿泊施設へと足を速めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます