第30話 完璧なる投球

「なあ、ナオ君。妹から君のメアドや電話番号を知りたいという連絡があったんだが、教えても構わないものかね?」


 試合当日、集合した直史に対して、北村はやけによそよそしい口調で尋ねてきた。

「別に直接知らなくても、キャプテン通して連絡出来るじゃないですか」

 清廉潔白な直史としては、そう答えるしかない。

「ほう。それでは昨日、どういう話をしてたのかな?」

「普通の話ですよ。今日の試合とか、あと家族構成とか、進路の話とか。妹さん、白富東に入ってくるんですか?」

 冷静に直史に問い返されて、北村の脳は現実に戻ってくる。

「けっこう厳しいんだよな。俺が教えてやれればいいんだけど」

 北村も三年だ。中学生以上に、進路についてはシビアに考えている。

 目指すのが東大なので、さすがに妹にまで構っている暇はないだろう。


 直史は悟った。

 この男もまた、隠れシスコンであると。

 双子の要求をいなすのに日々疲れている直史には、なかなか理解出来ないことである。

 彼女にするなら、包容力のあるワガママを言わない女性がいいに決まっているではないか。

 ……なお、ワガママを言わない女性は内心で怒り狂っているので、取り扱いは要注意である場合が多い。


 だがまあ、北村の目を他に向ける必要はある。

 大切な準々決勝の朝に、どうしてこんなことで悩まんといかんのだ。

「キャプテンの家、ジンの家と近いですよね? ジンがシニア組集めてジーンズブートキャンプしてるから、それに混ぜてもらったらどうです?」

 中学の勉強であれば、ジンには問題ないだろう。

 数学や英語といった教科は、中学の学習の発展形なので、ジンにしても教える価値はあるはずだ。あとは暗記のコツとか。

「……まあ本当にまずくなったら、普通に塾に通わせるんだが」

「ああ、それはいいですね。ちなみにキャプテンは塾行ってました?」

「いや、別に。必要なかったし」

 自分のやりかたが一番。北村と直史は、同じタイプの人間であった。




 これで話は終わるかと思った直史であるが、そうは問屋が卸さなかった。

「で、だ。うちの妹を見て、どう思った?」

 めんどくせえなと思いつつも、直史は無難な回答を考える。

「明るくていい子だと思いましたよ。けっこうモテるんじゃないですか?」

「モテるんだよ!」

 叫ぶ北村だが、直史はもう、意外とは思わなかった。

「なんつーか、家まで来るやつもいたりしてな。今までに五回くらい告白されてるらしい」

「あ~、分かります。うちの妹もけっこう告白されてますしね」


 女顔の直史とは似ていないが、妹達は兄の客観的な価値観からしても、可愛らしい顔立ちをしている。

 直史がモテなかったのかと言えば、それこそ顔立ちが女顔だったからだが、そもそも目立つタイプでなかったからである。性格など、他にも大きな理由はあるが。

「お前の妹か。幾つ?」

「一個下の双子です。ほら、こんな」

 文歌にはああ言ったが、家族仲のいい直史は、そういった写真もスマホに保存してある。

 水族館でアイス片手にピースしている桜と椿である。

「……なんか可愛くないか?」

「まあ、可愛い寄りだとは思いますけど」

「いや……かなり可愛くないか?」

 そこでわらわらと寄って来る部員達。しまったと直史が思っても遅い。


「むっちゃ可愛い!」

「何これ! こんな可愛いのが二人もいていいの!?」

「リア兄爆発しろ!」

 直史はそんな言葉に対しても、軽く眉をしかめるだけである。

「そうは言ってもなあ……」

 そっとスマホを操作した直史は、古い写真を取り込んだものを見せた。

「これ、若い頃のうちのお婆ちゃん」


 時が止まった。


「え……何これ、美人過ぎるんだけど」

「元映画女優とか、そんなんか? このDNAが孫に遺伝?」

「な、これに比べればたいしたことないだろ? 爺ちゃんによると街中の男衆全員と、周りからも数百人ラブレターをもらったらしい」

 沈黙する部員達。

 いや、それを射止めた爺さんの方も興味はあるが。


 とにかく、直史がモテなかったもっと大きな理由の一つ。

 彼はこじらせまくったグラマザコンだったのである!!!


 長男として生まれ、両親が早くから下の子にかかりきりになったため、直史は祖父母、特に祖母に大切にされた。

 長男と言えば跡継ぎであるのだから、大切にされるのは当然というのが、直史の家のあたりの土地の価値観である。

 同じく長男だった父には、姑が甘かったこともあって、厳しくせざるをえなかった。

 そんな祖母が直史に対して、ダダ甘になるのは必然だったのかもしれない。

 正月に祖母が作った餅を一番に食べるのは祖父で、二番目が初孫の直史である。息子はそれより後なのだ。多くの孫の中でも、直史だけは特別だ。

 かくしてこの複雑な性格の男は作られたのだった。


 キャプテンの妹に、直史の妹達。

 いいところを見せたいと張り切っているメンバーをよそに、直史はせっかく球場まで来てくれるのだから、婆ちゃんにいいところを見せたいな、と思うのであった。

 祖母による母以上の、圧倒的包容力!

 直史の彼女になる女性はおそらくとても大変だろう。




 試合前に色々あったが、ジンはマイペースである。もちろん直史もだ。

「甲子園に行ったら家族で応援に来るかな? あ、俺はもちろん、お婆さん狙いじゃないからね」

「殺すぞ」


 ささやかな言葉の応酬の後、ジンは大胆な配球を告げた。

「一巡め、カーブ封印ね」

 直史の変化球の中で、最も効果的なのは、あの球を除けばカーブである。

 チェンジアップよりもスローカーブの方が、タイミングを外しやすい。

「その代わり、あの球は普通に使っていくから」

「秘密兵器とかって隠しておかなくていいのか?」

「大丈夫。大概の人はあれ、縦スラと勘違いするし。分かっていても打てない球があるって思わせる方が、面白いでしょ?」

 キャッチャーは性格の悪い人間の方が向いているな、とつくづく思う直史である。

 なにせ自分も、昔はキャッチャーをやっていたので。


 そしてジンの第二の要求は、さらに無茶なものであった。

「二巡目はストレート封印かよ」

「ただのチェンジアップは投げてもいいよ」

 普通のストレートが禁止なら、それはただのスローボールであろう。

 だがカーブ禁止よりは、ずっと楽である。


 そして第三の要求であるが、これはむしろ命令であった。

 三巡目以降は、全ての球種などを、見せ付ける。

「四つ目のカーブも使うから」

「あれか。自分で言うのもなんだけど、完成形じゃないんだぞ」

 完成していない球は使いたくない直史だが、ジンはむしろ試合の中でこそ使いたかった。

「決勝がトーチバにでもなったら、あれも選択肢に入れたくなるでしょ? だからまだ楽な相手のうちに、試しておかないと」

 準々決勝が楽な相手なのか。

 いや、確かに東名千葉相手ならば、一点が勝敗を分けるかもしれない。


 蕨山相手ならば、こちらの打線は五点は取ってくれるだろう。

 ならばここで試しておくのは、冒険とは言えない。

「OK、まあ今日も基本的には、お前のサイン通りに投げるだけだ」

 少なくとも今まで、ジンのリードに不安を感じたことはない直史である。

 ジンにしてもどんな球を要求しても不満を見せない直史は、簡単にリード出来る投手なのだ。




 ベンチに入ってスタンドを眺めてみれば、蕨山はかなりの応援が入っている。

 やはり私立は違う。白富東もかなりの応援は来ているのだが、なにしろ今日は平日なので、野球好きでも勤め人はなかなか来れない。

 準決勝と決勝は土日連戦なので、これよりは観客も増えるだろうが。


 既に行われた二試合では、準決勝に進む二つのチームが決まっている。

 東名千葉と勇名館。この両者の間の勝者が、決勝に進むことになるのだ。

「この組み合わせだと、トーチバだろうな。もし勇名館が来ても、かなり弱体化してるだろうし」

 岩崎はそう言うが、チーム力の絶対値は、それほど差があるわけではない。

 だが選手層の厚さが、平均で大きく違う。特に投手だ。ここまで来れば勇名館は吉村を先発完投で使うしかないし、それが準決勝決勝と続くのだ。

 準々決勝の県立楢橋相手には、三回まで控えが投げて、その後を吉村が完封した。しかし東名千葉を相手にするなら、最初から行くしかない。

「もし勇名館が勝ち残ってくれれば、うちはかなり有利になりますね」

 セイバーはダボダボのユニフォームという可愛らしい姿は変わらずとも、言葉に甘いところはない。

「セイバーさんもトーチバが勝つと思ってるんですか?」

 北村の問いに、セイバーは首を振る。

「思う思わないではなく、論理的に考えたら、勇名館です」

 意外である。

 これから行われる蕨山との戦いを前に、部員の視線が集中した。

「不思議ですか?」

「データを集めたら、トーチバの方が強いですよね?」

 ジンの確認に、セイバーは首を傾げる。

「トーチバの方が優位な数値を持つ要素が多いことは確かですが、トーナメントにおいて重要な要素になる部分では、勇名館が上です」

 これはもう、蕨山相手の試合どころではない。

「セイバーさん、説明してもらえますか? まだ準決前ですけど、すごく気になるんで」

 問われたセイバーは自分の失敗に気付いたが、ここまで言ってしまったら、最後まで教えた方がいい。


 セイバーは分かりやすい数値を書いた、たった一枚の紙を見せた。

「夏の大会の勇名館、吉村君の防御率は0.30ですが、内容を見れば実質の自責点は0です。対して東名千葉の平均は三人の計で1.80。さらに奪三振率を考えると、勇名館の方が投手力で、圧倒的に上になります」

 それは確かにそうかもしれない。

 東名千葉もエース球の投手を揃えているが、どれも吉村以下ではある。

「東雲戦で計測した吉村君の速球のMAXは、147kmでした」

 明らかに、春よりも速い。そしてここまで自責点が0というのは、凄まじいの一言である。

 まあ直史と岩崎も、自責点どころか防御率が0なのだが。


 次にセイバーはまた、一枚の紙を出した。

「東名千葉の得点の取り方と、勇名館の得点の取り方です。具体的には四番の黒田君の打点が、決勝打になった試合が二つ」

 つまり、絶対的なエースが抑え、四番が点を取るというチームが、さらに進化している。

「けれど東名千葉との準決勝では、さすがの吉村君もかなり消耗するでしょう。そして名門としては、黒田君をあからさまに敬遠することは出来ない。ですので勝つのは勇名館ですが、決勝で当たればうちが勝ちます」

 なるほど数字を作為的に拾い上げれば、そういう結論も出せるのか。

「どの道、今日の試合の後に、上総総合の攻略法と合わせて、詳しくは説明します。では、プレイボールですね」


 勇名館の吉村吉兆。四番の黒田慎平と並んで、間違いなく全国レベルと言われる二人。

 吉村はまだ二年。あと一年戦わなければいけないが、黒田は今年で卒業だ。

 甲子園のチャンスは、おそらくこれで最後。そして吉村の投球は、まさに完璧とも言える成績を残している。

(完璧な投球か)

 直史にも理想はある。それとはまた別だが、吉村の投球は凄い。

 決勝の相手は、東名千葉ではなく勇名館。

 ただの数字上の可能性が、選手たちの胸に深く刻まれたのだった。




『さあ、沢北さん、準々決勝第三試合、とんでもないことになりましたねえ』

『そうですね、名門私立、打撃の蕨山に対し、フレッシュな一年生を揃えた白富東が、勢いのままどう戦うか。それが話題になっていましたが』

『ちょおっと、この展開は予想していませんでしたね』

『はい、やはり蕨山は長年、打撃のチームとして有名でしたからね』

『それでは振り返っていきましょう。一回の表を、白富東の一年生佐藤が三者凡退にしとめた裏、同じく一年の白石が右中間を破るヒット』

『いや~、白石君の打率はまだ、七割を超えてますからねえ。少しでも甘いところにいったらダメですねえ』

『そして迎えた、キャプテンで四番の北村。これも甘いところにいってしまいましたか』

『打者として見れば、白石君の方がはるかに上ではあるんですが、北村君も四割打ってる強打者ですからねえ。これが三球目。北村君、この大会で二本目のホームランで、白富東が先制しました』


『三回の裏、二死から二度目の白石。ここはフォアボールで塁に出ます。続く北村、これもフォアボール』

『蕨山は打撃からリズムを作っていくチームですからねえ。それが投手にも影響を与えてしまったということでしょうかねえ』

『そして迎えたのは、今日五番のライトに入っている岩崎。この一年生も、四回戦では参考記録ながら、五回コールドのノーヒットノーランを達成しています』

『まあ一年生と、本職が投手ということで、気が緩んだのかもしれませんねえ。パワーがあります。五球目のこれが、センターオーバーのツーベース。二人が帰って4-0と得点差が開きます』

『蕨山はピッチャー交代ですが、これはどうでしょう?』

『元々これまでも、継投で勝ってきたチームですからねえ。ただこの点差は予想外だったでしょうが』


『そして現在七回の裏、先頭打者を切ったものの、次の手塚と大田。二人に立て続けにヒットを打たれ、一死一塁二塁というところで、本日は全打席出塁という三番の白石です。何かベンチで話してますね』

『う~ん、まあ一発出たらサヨナラコールドですからねえ。なんと言っても、ここまでの全試合、一本以上のホームランを打っている白石君ですから、狙っていくかもしれませんねえ』

『出塁でも四番北村に回ります。蕨山は敬遠ということはありますか?』

『満塁にしたら、長打でもサヨナラコールドになりますからねえ。ここは白石君と勝負するしかないと思いますよ』

『けれど白富東が、あえて打たない、という選択肢はありませんかねえ?』

『どうでしょうねえ。大記録がかかっているのは確かですが、狙っていくと思いますよ』




「でさ、ナオ、俺打っていいのか?」

 のんびりと大介は確認する。監督でもジンでもなく直史に。その視線の先にはスコアボードが現在の得点差を表している。

 相手の攻撃欄にある、七つの0。そしてHの下にある0。

 ついでに直史が与えた、今日の四死球も0。さらについでに奪った三振は14。

 つまり七回の表終了時点で、パーフェクトゲームなのである。

 もしここで、大介が空気を読まずにホームランを打ってしまえば、七回コールドでパーフェクトはあくまでも参考記録となる。

 高校野球の公式戦、しかも準々決勝のレベルでパーフェクトゲームを達成してしまえば、それはもう高校野球史に残ると言っても過言ではない。


 この異常事態に、ベンチの中は静まり返っている。

 時折パチパチとセイバーがキーを叩いているが、誰も口を開かない。

 直史は特に疲れた風でもなく、淡々と言った。

「言っても八回は四番と五番に回るだろ。代打攻勢も考えられるし、四点差は満塁ホームラン一発で同点なんだから、もう決めたほうがいい」

 これまでクリーンナップを全て三振で片付けている男の言動である。

「まあ、そうだな。ほんじゃお仕事行ってきます」


 気負うことなくプレイできているのは、おそらく直史と大介の二人だけだろう。

 全国経験のあるキャッチャーのジンでさえ、こんな痺れる場面に遭ったことはない。

 まさかとは思うが、自分のパスボールが恐ろしい。決めるなら決めてくれと願う。


 そしてスーパーヒーローは、伝説を作る。


 初球。打った大介の球は、追いかけるまでもない、完全なものだった。

 マリスタのバックスクリーンのビジョンを破壊する、スリーランホームラン。

 七対0。サヨナラコールドホームラン。

 参考記録とは言え、完全試合。そして大介もまた、毎試合の本塁打記録を更新していく。

 後から思えば、白富東の名前が全国区になったのは、この試合からであった。




「ナオ、お前さすがに、もう学校に泊まれ」

 人の波の中、バスに乗り込む直史に、北村が声をかける。

 直史もまた、それは理解している。

「弟に言って、荷物持ってきてもらいます」

 完全試合をやってしまった。だが直史には、必要以上の興奮はない。

 中学時代だって、七回までノーノーというのは何度かあったのだ。エラーがあったのでパーフェクトは出来なかったが。

 そして延長で点を取られて負ける。最悪のパターンだった。


 バスの座席の隣に、ジンが座る。いつも試合後は、バッテリーが隣合って座るのが当たり前になっていた。

 ちょっとした反省会である。だが、今日の試合に反省するところなどあったのだろうか。

 直史は縛りプレイで、完全試合をやってしまったのである。

「ジン、なんで最後、新変化球試さなかったんだ?」

「お前ね、あの展開で未完成な新球、試せるわけないだろ!」

「完全試合なんでどうでもいいだろ。プロ野球だって時々達成してるし、高校レベルなら珍しくないんじゃね?」

「地方大会の準々決勝でパーフェクトなんて、多分探してもないと思うぞ」


 試合の当初、ジンは蕨山打線を抑えることに全力を賭けていた。

 だが一番気をつけたのは、一回の一番だったと言ってもいい。あれを見事にあの球で打ち取ったので、後のリードは楽になった。

「ジン、お前、目的がブレてるよ。俺たちの目標は、甲子園だろ? 途中でノーノーがあったって、完全試合があったって、一度負けたら終わりなんだから」

 それはそうだが、直史がどういう精神構造をしているのか分からないジンである。

「勝って兜の緒を締めろ、だろ? 特にガンが変に意識しないよう、気を付けろよな」


 その通りである。

 岩崎はこれまで、直史と自分とは違う、と思ってきたはずだ。

 プレッシャーに強いところは認めていたし、そこは素直に尊敬もしていると言っていた。勇名館や光園学舎相手に、ジンなしのリードで戦えたとは思えない。

 自分自身も参考記録ながらノーノーを達成したことで、さらに揺るがぬ自信を持っていたはずだ。背番号だって11というのは、直史の18と違って、よりエースに近い。

 だがここで直史は、投手として絶対的な、凄まじい結果を出してしまった。

 準決勝、岩崎の手綱を握るのは大変だろう。


 しかしここで、もう一皮むければ。

 精神的に成長した岩崎が、さらに高みに上っていけば。

 甲子園。そして全国制覇。

 さすがのジンもこれまで考えてこなかった、高校球児全ての夢の頂点が、脳裏に浮かんだ。

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