第21話 魔球

 山手・マリア・春香。24歳。両親は共にアメリカ人であり、仕事の都合で京都に在住していた。自動車事故による両親の死亡後、残された彼女は親友であった日本人夫妻に引き取られる。戸籍上の正式な名前は山手マリア。

 身長155cmぐらいの、アメリカ人女性としては小柄な――珍しく胸部も控え目な――彼女は、ニコニコと笑いながら、簡単な自己紹介をした。

「というわけで私自身には野球自体の技術的な知識が不十分ですので、実戦の技術的な部分は、こちらのスタッフに任せることになります。私の役割は主に相手チームの分析、メンバーの分析、コーチのサポートのためのデータ提出となります」

 古今東西、甲子園を目指す高校野球には、様々な物語があった。フィクションであれ、ノンフィクションであれ。

 だがここまで異色の監督が存在しただろうか。


 いや、今の言葉の中にも、無視出来ないポイントがある。

「味方の分析っていうのは?」

 北村が問うと、山手は肩肘張らずに説明する。

「おそらく打率や出塁率、長打率や盗塁成功率などは、既に統計を取っているかもしれません。ですが私の求めるものは、さらに精密なものです。詳しくは練習後に説明しようと思いますが、今日の練習は?」

「守備練習を中心に行う予定です」

「分かりました。では今日はそのようにしてください。私は存在する限りのスコアブックからデータを入力します。ピッチャーは?」

「今日は軽く調整だけの予定です」

「分かりました。ではそれも記録します。皆さん、よろしくお願いします」


 指示をされた部下達が、あちこちに機材を設置していく。

「か……じゃなかった、先生、一応学校に報告しといた方が」

「お、おう」

 北村に言われて、高峰が校舎に向かう。確かに部外者に勝手にされたらまずいはずだが。

(それはもう先生に任せよう。今一番必要なのは、少しでも早く大会への体制を整えることだ)


 そうは思っても、ここまで大掛かりな機材を持ち込むなどして、問題はないのだろうか。具体的には金銭的な。

「あの、監督、こんなたくさんの機材とか持ち込んで、お金の問題とかは大丈夫なんでしょうか?」

 当然の心配をするジンに対し、振り返った山手は不思議そうな顔をした。

 そして逆に問い返してくる。

「私、監督ですか?」

「え、そういうふうに聞いてますけど」

 山手は眉を八の字にして、おかしなことを言い出した。

「私は自分の役割をマネージャーだと思っていました。本来の日本語の意味で言うなら、私は監督者ではありません」

 監督者と言うならば、確かに顧問である高峰が、まだ監督ではあるのだろう。

「けれど山手、さん、が指揮をしたり練習内容を決めるなら、やっぱり日本では監督なんですけど」

「私は日本の高校の野球部を知っているので、あまり監督という呼び方に良いイメージがありません。出来れば他の、ニックネームでもいいですけど、それを考えて呼んでください」

 いいのだろうか。


 日本は野球に限らず、おおよそどんなスポーツも、監督の権限が強い。いや、日本に限ったことではないのかもしれないが、特に高校野球にはそういうイメージがある。

 特に強豪にでもなれば、監督が目的意識を持って、方針を立てて、しっかりと指導をしていかなければ、勝てるものではない。

 体罰やしごきといった前時代的な物は徐々に薄れつつあるが、そういった過酷な練習が精神力を鍛える場合があるというのは、合理的なジンでさえある程度は認めざるをえない。

「私が求めるのは、楽しさです。楽しさがあるから、強くなれる。楽しさがあるから、ずっと野球を好きでいられる。日本選手はストイックな人が多く、それも美徳ではあるのでしょうが、練習が苦しいものと思っているなら、それは私は採用しません」

「楽しさ、ですか?」

「そうです。ただ競争の原理はありますので、勝つことの楽しさも当然知ってもらいます。けれどやはり、努力して練習するより、辛さに耐えて練習するより、楽しんで練習する方が、最も効果が高いのです」

 それは、理想論ではないのだろうか。


 動揺しているジンを見て、山手は言葉を継ぐ。

「日本のスポーツシーンが野球から移っているという声も聞きますが、日本の野球、特に高校レベルでは、間違いなく世界最高峰のものです。弱いサッカーよりも、強い野球の方が面白い。日本は野球でアメリカを叩き潰せばいいのです」

 あちらの国のお方が、なにやら物騒なことを仰っている。

 まあ確かに高校レベルまでは日本の方が精緻な試合をするし、WBCなどでも成績を残している。

「メジャーがNPBより優れているところなど、年俸ぐらいのものですよ」

 実はジンも同意見なのだが、メジャーのフロントで働いていた人が、それを言っていいのだろうか。

 そもそも日本のプロ野球と違って、MLBは基本外国籍選手を制限していない。

 WBCなどよりもポストシーズン後のワールドシリーズこそが、世界最高という認識なのは、その名称からしても確かだろう。


 この異色の監督に、ジンは期待と不安を感じる。

「夏の甲子園大会の地方予選まで、あと一ヶ月と少しです。予選を勝ち残って、甲子園に行けると思いますか?」

「データが揃っていないのでなんとも言えませんが、諦めたらそこで終わりでしょうね」

 ゼロではないのだから、どれだけ積み重ねていけるかが問題だ。

 実のところジンは、諦めかけていた。もちろん全力を尽くすつもりではあったが、東名千葉や帝都一、春日山といった全国レベルの相手には、どこかでつかまると。

 岩崎の実力は、守備力と合わせてベスト8ぐらいまでは進める力がある。だが直史の力を引き出せていない。

 準決勝以上に進むには、投手が二枚は必要だ。大介は長いイニングを投げるのには向いていない。

 明らかに直史には、かなりの潜在能力があるのだ。


「それと、金銭的な問題はありません。機材は全て私の私物ですし、コーチたちへのサラリーは私が払っています。こう見えても私、日本人男性の平均生涯賃金の20倍以上の資産がありますので」

 それは経済にはさすがに疎いジンには、想像外の話であった。

 あるいは、この監督なら、白富東の突破口を作ってくれるのかもしれない。

(それでも、いくら最新の理論を持っていても、あと一ヶ月じゃ厳しいぞ)

 スコアからデータを凄まじい速さでノートPCに入力していく山手に背を向け、ジンはブルペンへ向かった。




 ブルペンでキャッチボールをしていた先輩捕手と代わり、ジンは直史と組む。

 だが投げる前に、直史から近寄ってきた。

「どう思う?」

 その問いが新監督に関するものであることは間違いない。

「セイバーメトリクスも、1980年代から盛んになった、データ野球の発展形には間違いないんだ。だから効果はあるはずだけど……」

 問題はその効果が、夏の大会が終わるまでに出てくれるかと、優勝するほどの影響があるかどうかだ。

 残り一ヶ月、週末は出来るだけ練習試合を組みたい。抽選次第だが、どういうブロックに入るかという運の要素もある。


 まあそれはそれとして。

「例の球、これでいいのか?」

 そう言って球を握った直史が、ジンに対して腕を回す。

 それは正確な投げ方ではないのだが、目的としている回転を与える意思は感じられる。

「分かった?」

「まあ、俺がまだ試してない球なんて、もうこれぐらいしかないからな。つーかこれが変化球に分類されてるとは思わなかった」

「ストレート以外が全部変化球だって言うなら、これも変化球だよ」

「ストレートの定義によるな」


 早速試してみようと思った直史であるが、それをジンは制止する。

「シーナ! ちょっとバット持ってボックスに立ってくれ! 防具ちゃんと付けてな!」

「りょーかい!」

 シーナは作業を中断して、準備に入る。

「おい、まだコントロール全然利かないんだぞ? さすがにボックスに入ってもらうのは危ない」

 実際のところ、この変化球はちゃんと目的の変化をしているのか、投げている本人には分かりにくい。

 だから直史も壁に向かって試したものの、全く自信がなくてジンのキャッチングを頼んだのだ。


 だがジンは、それは承知の上のことだった。

「あのさ、シーナってシニア時代は内野のレギュラーだって言ったろ?」

 それは聞いている。しかも打撃では上位であったと。だがこの球が有効かどうかを見てもらう以前の話で、ちゃんとジンに見極めてもらう必要があるだろう。

「そんで実はチーム内の三番手ピッチャーでもあったんだよ。その決め球が」

「これ、なのか?」

 にんまりと笑ってジンは頷いた。




 準備をしてきたシーナが完全武装で左のバッターボックスに入る。

「なんかまた新しい変化球でも試すの? ていうか、あの新監督があたしはすごく不安なんだけど」

「まあ、無理なら無理で、修正するさ。でもナオのピッチングとかをちゃんと機械で分析してくれるのは、凄くありがたい」

 ジンの父である鉄也もジンと同じく、直史が全力投球を無意識のうちに制限していることには気付いていた。

 だがそのリミッターを外す手段が分からなかった。分かったとしても、この時期には言い出せなかっただろうが。


「まあ、それはいいさ。今回ナオに頼んだのは、シーナの決め球なんだ」

「え、ちょっと、あれ投げる気なの?」

「ナオの変化球の中にはない種類だろ?」

 シーナは怒ったようにバットをベースにぶつけた。

「あたしがあれ投げられるようになるのに、どんだけかかったと思ってんの? あと一ヶ月ぐらいの間無駄に頑張るなら、ウエイトでストレートのスピード上げた方がいいんじゃない?」

「でもさ、あの球はもし身につけられれば、他の変化球を三つ身につけるより役に立つだろ?」

「そりゃそうだけど……」

「まあ何事もチャレンジ。とりあえずまっすぐからいってみようか」


 今日は昨日試合があったこともあって、ピッチング練習は調整程度の予定であった。事実岩崎はもう上がる準備をしている。

 しかし直史は、昨日の夜まで200球以上の投げ込みをやっていた。ようやくすっぽ抜けがなくなるところまで投げていたら、もう日が没しているのはもちろん、9時を回っていた。

 朝練が休みだったとはいえ、日課のランニングやストレッチはしていたので、睡眠時間は短くなっていた。

 直史は受験の前でも11時には寝るタイプの人間だったので、これは少し気負いすぎであった。


 だが、この球は確かに、直史の投球のバリエーションを、何倍にも増やしてくれるのだ。

 チーム全体ではなく、自らのみの技術を高めるという点において、直史はジンよりも貪欲だ。

「よし、じゃあ行くぞ」

 いつも通りのセットポジションから、クイック気味の投球。

 折りたたまれた腕が伸びて、ストレートとおなじ場所でリリースされるボール。

 ジンのミットは構えたところから右に動いた。


「どうだ?」

「うん、原理的にはちゃんと投げられてると思うよ」

「まあこの球の場合、多少の左右へのズレはあるもんだしね」

 シーナもジンも及第点の言葉を発するが、実のところこれは充分すぎる。

 これはジンがシーナの球を捕っていたからこそ簡単そうに捕れたのであって、初見ではパスボールすることも珍しくない。


 続けて10球ほど直史は投げたが、全て同じ方向にずれていった。

 理論的な理想はずれないことだが、実戦ではむしろこの方が通用するかもしれない。ずれ方がほぼ一定な時点でかなりすごい。

「う~ん」

 シーナは盛大に首を捻り、ジンは無言でミットに収まった球を見ていた。

「どうなんだ?」

「変化球としては使えるけど、本来の用途までにはまだまだ、かな」

「そうだね。あたしと違ってスピードが出せるんだから、本物のストレートと見分けがつかないようにしないと、威力八割減かな」

 もっともその二割でも、充分なのだが。


 直史は完璧主義者である。だが完全な制球力というのは、案外ピッチャーには必要なかったりする。

 もちろんそれは球の威力が甘いコントロールでも通用する場合である。直史の130kmに満たないストレートでは、球威で勝負することは出来ない。

 また単に球速だけでなく、伸びとかキレとか言われる点でも、直史のストレートにそれほどの魅力はない。

 ストレートは見せ球とまではいかないが、スライダーやスプリットと同じ速度で投げることによって、変化球と同じ意味を持つ。

「大会までに間に合えばいいけどな。今までの変化球とはちょっと感触が違うと思うけど、肘とか肩に負担はないか?」

「いや、これそもそも握りからスナップを利かせて投げる感じなんだよな。カーブを投げる感触に近い」


 球種としてはカーブとは全く違うのだが、おそらくスピンをかける感覚が、似ているのだろう。

「完成したらすごいけど、絶対に無理はするなよ? 今の時点でも使える変化球が一つ増えたわけなんだし」

「じゃああたしが投げてみるから、横で見ててよ」


 シーナの投げる球は、ストレートの速度と制球力はやや直史に劣り、球種も少ない。

 ただスライダーのキレはよく、これとあの球を組み合わせたら、確かにシニアレベルでは充分に通用しただろう。

 今の時点でも練習試合に出れば、上級生の投手達よりも活躍していた可能性は高い。




 握りや腕を振るコツなどを聞いていると、山手がやってきた。

「椎名さんはバッティングピッチャーもするんですか?」

 その球を見ていて、山手はそう考えた。高校の男子硬式野球に女子が参加出来ないのは知っているが、単なるマネージャーとしては、関わり方が違う気がしたのだ。

「山手さん、シーナは中学までは、男子と一緒にプレイしてたんですよ。全国レベルのチームのレギュラーで、投手もしてました」

「そういえばNPBも女子選手が参加できるんですね。高校野球はどうしてダメなんでしょう?」

 そう問いかけてくるが、MLBだって女性選手はいない。ただ、禁止されているわけではないし、将来的に契約を視野に入れられている選手はいる。

「単純に男女で分かれた競技だから、女性は女子野球やれってことだと思いますよ。ただうちの場合、シーナがノックものすごく上手いんで、甲子園に行ったらノックしてもらいたいんですよね。でもそれも禁止されてます」

「マネージャーとしては参加出来るのに、練習補助のノックが禁止なのはどうしてでしょうか?」

「……危険だから、という理由でしたけど、ぶっちゃけシーナの守備力とか、まだうちの男子部員の平均よりかなり上なんで、どうにかしたいなとは思ってるんですけど」


 山手は思いのほか深く考えこんだが、時間的には長くなかった。

「まあそれは甲子園出場が決まってから考えましょう。他のピッチャーの測定は済んだので、佐藤君で最後です」

 シーナからボールを渡され、直史がマウンドを整える。

 それを横から見ているシーナに、山手が問いかけてくる。

「何か新しい変化球の練習でしたか?」

「はい、なんだか昨日ジンから言われたみたいで。あたしがシニアで使ってた切り札なんで、ちょっとアドバイスしてました」

「クールですね! でも昨日は試合だったのでしょう? 佐藤君が投げてないのですか?」

「ああ、それなんですけど……」

 シーナから聞かされた直史のピッチングに、山手は険しい顔をした。


「その投球数は異常です。体が壊れます」

「ジンはナオの体が柔軟なのと、力が分散されてて実は全力投球出来てないから大丈夫だって言ってます」

「それは、今日の分析で分かるでしょうね。まず佐藤君を最初に分析しましょうか」

 ストレートから始まって全ての球種を投げた直史は、最後に新球種を何度か投げた。

 その最後の一球は、シーナの知る理想的な軌道を描いた。

「よし! いいぞ!」

「体で憶えたいから、もう少しだけ投げるぞ!」

 珍しく直史も興奮し、同じ動作を再現する。


 これだ。

 シーナは知らないうちに涙を流していた。

「椎名さん、これを」

 山手から渡されたハンカチで、シーナは目元を隠した。

「どうしました?」

「……あの球、どうしても男子との体力が違って、ピッチャーじゃ通じないと思って、必死で身につけた球なんです。それをナオが使ってくれて、ジンが捕ってるって思うと……」

 ぽんぽんと頭を叩き、山手はシーナの肩を抱く。

 自分よりも大きな女の子でも、やっぱりまだ子供なんだなと思いながら。




「尊い……」

 遠目から見ていた部員達の誰かが、そう呟いた。

 グラウンド整備を終えて、あとは直史のデータを取るだけである。

「監督って呼ばないなら、やっぱり山手さん?」

「コーチ……じゃないよな」

「ボスとか?」

「それならマムでいいんじゃね? イエス!マム! って感じで」


 好き放題言っている部員たちだが、山手が妄想をかき立てる容姿をしているのは確かだ。

「ボスって言うならあの通訳さんの方がそれっぽいよな」

「山手さんはなんかのアニメのキャラに似てるよな」

「知らんがな」

 山手の呼び名をどうするか、部員達はそんなどうでもいいことを考えながら、視聴覚室に向かうのであった。




キャラデータ その3


大田仁 15歳 捕手 右投右打 172cm 62kg(四月時点)

家族構成

両親

備考

冷静なリードを投手の性格に応じて使い分けるキャッチャー。

捕球技術とリードは高い評価だが、肩の強さは平均程度で、スローイングの技術でそれをカバーしている。

シニア時代全国ベスト8のチームの正捕手。小学生の頃からキャッチャー一筋で、申し訳程度に内野をした経験しかない。

打率は平均程度で長打もあまりないが、バッテリーとの駆け引きで四球を引き出す力に長け、出塁率は高い。

また犠打、特にバントの成功率は90%ほどである。

元プロの投手の球を受けたこともあり、現時点でも高校レベルの捕手としては、キャッチング技術は高い。

学校の成績もよく、他人に教えるのも上手いため、自分のやり方でないと成績が伸びない直史以外からは、そちらの面での信頼も厚い。

メンタルは前向きで、どんな時でも打開策を探る粘り強さがある。

将来を見据えた計算で行動するが、そのためむしろ直史などよりも熱くなりやすい。

ピッチャーのリードは難しいが、それゆえに楽しいと思っている。

得意なタイプは大介のように何も考えずにこちらに任せてくれるタイプ。だがやりがいがあるのは、岩崎のような繊細なピッチャーである。

父親は六大学野球の元エースで、現在は在京プロ球団のスカウト。 

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