第10話 勝利への渇望
勇名館陣営に、ようやくあせりの色が見えてきた。
打順は既に三巡目。先発の一年投手の球筋にも慣れてきたところだった。
普通の公立高校に、突出した投手など他にいない。だからこの先発さえ打ち崩せば勝てる。
その前提が崩れた。
強豪校相手に継投せざるをえないというのは、普通の野球部にとってはよくあることだ。
単に目先を変えるというよりは、打ち込まれて変えざるをえないという場合が多い。
そうやって勢いを変える前に、投手が代わってしまった。あくまでも事故によって。
そして代わり端の投手を打てなかった。
これまでの投手が本格派の速球投手だったのに対し、軟投型の変化球主体投手。
勇名館のみならず、変化球主体の投手の苦手な強豪校は多い。
七回の表をさくっと三人で終わらせて、いよいよ勇名館の本格的な反撃が始まる。
「クリーンナップからだ。先頭打者、ちゃんと出て来い」
古賀監督の指示は短い。
五回に凡退した打者からも、既に説明は終わっている。
ストレートとほぼ同じ速度で左右にわずかに曲がるスライダーとシュート。
カーブは緩いのと速いのと、どちらも大きく曲がる。
わずかに沈む球は、おそらくスプリット。これもストレートと球速は変わらない。
三番を打席に送りながらも、古賀監督は悪い予感がしていた。
手元で小さく曲がる変化球が三つと、大きく曲がる速度差のあるカーブ。
小さく曲がる変化球は、直球と速度差がない。
決め球は全て変化球で、ストレートはあまりコントロールが良くないらしい。
(いや、あえてストレートは全てボール球にしてるのか?)
変化球を多投する、コントロールのいいピッチャー。
序盤であれば球数を放らせて攻略するが、既に七回の裏。
(外野に行ったピッチャーも、まだ余力はあった。遅い球に慣れた頃に来られると、対応出来ないか?)
勇名館は打力と守備が売りのチームである。実際この試合も、エラーは一度もない。
しかし打力と言っても、打線のどこからでも点が取れるという層の厚さはない。下位打線は九番を除くと、基本は犠打や四球を計算に入れて得点することになる。
(ここで一点は返しておかないと、かなりまずいぞ)
そんな勇名館ベンチの思惑とは裏腹に、直史はかなり大胆な投球を見せる。
先頭バッターに対しては、外角にはボールになるストレート。内角にはストライクになる変化球という組み合わせ。
空振りは取れなくても、フェアゾーンに打球は飛ばないように配球している。
とにかくゾーンにストレートを投げない。これだけでもヒットを打たれる確率は減る。
ストレートと速度の変わらない小変化と、遅いカーブに速いカーブ。
これだけでも厄介な投手だとは思うのだが……。
(待てよ? ストレートと変化球のスピードが変わらない?)
ジンが思ったのと同じ疑問が、古賀監督の中に生まれた。
(ストレートの速度を、制限しているのか?)
直史は無意識に行っているが、それは正解である。
速いストレートを投げられる投手が、なぜ優れているとされるか。
それは反応するのに必要な時間が短いということもあるが、緩急のつけかたがより顕著だからである。
150kmのストレートと120kmのチェンジアップを投げる投手に、130kmのストレートと100kmのチェンジアップを投げる投手。
緩急の差は同じでも、対応する時間は圧倒的に前者の方が少ない。
まして前者が100kmのチェンジアップを投げれば、その落差に空振りをする打者はより増えるだろう。
直史が入学して以来、まださほどの時間は経過していないが、一つ既にジンから言われたことがある。
それは、もっと遅い球を投げろということだ。
直史のストレートは120km台半ば。他の変化球との見極めをさせないために、120km台前半のストレートを投げている。
同じような球速で変化球の変化を知らせないのもいいが、緩急をつければタイミングを合わせるのが難しくなる。
速いストレートを持っていない直史だが、50km程度の超遅球があれば、その緩急差でバッターを翻弄出来る。
そして実のところ、既に直史は、そんな変化球を持っていた。
それが第三のカーブ、スローカーブである。
が、そんなスローカーブの後にもかかわらず、三番打者にはアウトローのスライダーを打たれてしまった。
(変化球はゾーンに来るって考えられたのか?)
首を振り振り投げたので、先輩捕手の責任にするわけにもいかない。
実際直史は、全くショックなど受けていなかった。これから修正すればいいだけの話だ。
問題は次のバッターにある。
四番の黒田。勇名館は強豪と言っても、本当の意味で全国レベルと言えるのは、投手の吉村とこの黒田だけである。
その黒田を岩崎は、ジンのリードで抑えたのだ。直史にしても、ジンが勝負と決めたなら、その通りに勝負するつもりであった。
しかし、今そんな危険を犯すつもりは毛頭ない。
黒田を打席に迎え、三年の捕手がマウンドにやってくると、直史は普通に言った。
「敬遠しましょ」
「だが次の五番にも一発はあるぞ? 打たれたら同点だ」
「四番に打たれて相手を調子に乗せる方が嫌ですよ」
「……お前って、敬遠好きなの?」
そんな先輩の言葉に直史は、あっさりと答えた。
「俺が嫌いなのは、試合に負けることだけですよ」
勝てば官軍。それに敬遠は立派な作戦の一つだ。
全国区の打者から逃げることを恥じるほど、直史に面倒なプライドはない。
捕手が立ち上がり、大きく黒田から離れる。
相手もそれを予想していたのか、ヤジなど飛んでこない。
ただ、黒田の眼光は鋭い。下手な外し方をしたら、ボール球でも打ってきそうだ。
正直なところ、直史には黒田を抑える可能性はあると思っている。
だが今はまだ七回のノーアウト。ここからさらにもう一度、黒田を打席に迎える可能性は高い。
球種を隠しておきたいが……それまでに使う必要はあるかもしれない。
直史は強豪校を甘く見てはいなかった。甘く見るような環境にはなかった。
だが強豪校の採ってくる戦術に、あまりにも無知であった。
ノーアウト一・二塁。ここで迎えるは五番打者。
三点差では一発があれば同点である。もっとも直史のような変化球投手は、比較的ホームランを打たれることは少ないのだが。
黒田のような化物は別である。あれはトスバッティングでも平気で柵越えを連発するようなスラッガーだ。
(敬遠の後だから、ストライクから入りたいと思ってるだろうなあ)
その期待を裏切るべく、直史はアウトローぎりぎりから、ボールとなるスライダーを投げた。
そしてその初球で、二塁ランナーは三塁へとダッシュした。
二塁の三番打者はアベレージヒッターだが、走塁も上手い。強豪の三番なのだ。
黒田と次の五番に足がないのは知っていたが、三番の走力については意識の外にあった。
キャッチャーの捕りにくい、アウトローへのスライダー。三塁へ投げるにはバッターが邪魔だ。
意表をつかれた点も大きく、キャッチャーが投げる瞬間には既に、ランナーは三塁へと進んでいた。
ノーアウト一・二塁と、ノーアウト一・三塁では、得点の入る確率が断然に違う。
内野ゴロでも外野フライでも、あの足を考えれば、確実に帰ってこれるだろう。
だが、直史は落ち着いている。
(五番もそれなりに打つけど、逆に小技は使ってこないか)
この状況で優先すべきこと。ジンがいれば指示が出たのだろうが、監督もキャプテンも、強豪相手のこの有利な状態に、何を指示すべきか分からない。
だから、直史が声をかける。
「一点よりアウト優先! 一点よりゲッツー優先な!」
おう、と応えがある。そう、ここで一点取られるのは仕方ない。
「外野フライも三塁な!」
シニアメンバーと違って今の外野は、それほど強肩が揃っているわけではない。三塁に行かれてはアウトを一つとってもまだワンアウトなので、次の打者でスクイズを決められたり、タイムリーで一点が入る可能性が高い。
これが岩崎であれば、敬遠まではともかく、次の五番とは真っ向勝負を挑んだかもしれない。
だが直史にとって野球は、あくまでも頭脳戦のゲームなのだ。意地を張った力と力の対決が望みなら、格闘技でもしていればよい。そんな偏見が彼にはある。
肉体でも技術でもなく戦術。ジンが言っていた野球の強さは、直史にはよく理解出来る。
(つーか五番を打ち取る力は必要なわけだから、ちゃんと体も使ってるしな)
五番打者のスイングは鋭いが、打率自体はそれほど高くはない。
事前に調べられていた情報によると、長打率が高いのだ。それと、外野への犠打となるフライ。
黒田が敬遠された時、後ろに長打が打てる打者がいると、相手にも威圧感を与える。
もちろん本当に長打があるので、扱いは慎重を極める。
(ここでは何をやっても、ほとんど点は入るよな)
入らない状況は三振、内野フライ、内野への正面のゴロぐらいか。ゴロでも確実とは言えない。
そして三振を取るのも、内野フライを打たせるのも、直史には難しい。基本的に直史の球は、内野ゴロを打たせることに特化している。
そういう点では、既にボールが先行しているのは苦しい。
(基本はアウトローの出し入れ。けれどゴロを打たせるならインハイへ沈む球)
球種はスプリット。引っ掛けたらラッキーという球。
引きつけて叩いた打球は、三塁線の外ぎりぎりを抜けていく鋭いものであった。
どれだけ危険な打球でも、ファールグラウンドなら怖くない。
打たれるかもしれないという恐怖を、直史は持たない。
第三球は、たっぷりと曲線を描くスローカーブ。
ストライクであったがタイミングを外され、打者はそのまま見送る。
追い込んだ。ここでボール球が二つ投げられる。
外角アウトロー。わずかに外れる。あっさりと見送られた。
続いてまたアウトロー。わずかに上ずった球だが、計算通り。
フルスイングする打者の目の先で、わずかに沈む。ストレートと軌道の変わらないスプリットだ。
(よし、内野ゴロ――)
そう思った直史の横を、痛烈なゴロが飛んで行く。見事なピッチャー返し。
最悪ではないが、良くはない結果だ。そう思った直史だが、視界の隅で動く影。
大介が横っ飛びに打球を捕えていた。
横たわった姿勢から、手首の強さだけでセカンドへグラブトス。
ベースを踏んだセカンドは、くるりと体を回して一塁に送球。
ゲッツー成功。ただし三塁ランナーはホームを踏んでいた。
考えていた中では、ほぼ最良の結果であった。
(大介じゃなかったら確実に抜けてたな)
ツーアウトになって、ランナーはいない。そして六番を片付ければ下位打線だ。
この六番がまた意外と出塁率がいいのだが、下位打線でも普通の学校なら四番を打つだけの力はある。
直史は14球を投げて、この六番打者を内野ゴロに打ち取った。
八回の表には何も起きなかった。
リリーフした勇名館のエース吉村が、パーフェクトピッチングを続けているだけである。
ランナーはおろか、三振以外でアウトになった者さえいない。
その圧倒的な投球は、これ以上は一点も取れないと思わせるほどのものだった。
「つーか最初から出てきてたら、何も出来なくて終わってたか?」
守備に入る時、直史は大介に尋ねる。
「さすがに三打席目には打てるだろ」
そう思っているのは大介だけだろうが。
八回の裏。七番から始まる下位打線。
だがここで勇名館は、代打攻勢を行ってきた。
強豪校の代打は、平気で打率が四割を超えていたりするから怖い。
(しかもこれで塁に出たら、代走とか出してくるんだよな)
直史は塁に出られても、ランナーは気にしないことにしている。
しかしワンナウト取る間に一点取られるのは、さすがに厳しい。
(二点差か……。せめて三点差あったらな)
そう考えながらも、直史はストライク先行の変化球を曲げまくる。
20球を使ったが、内野ゴロに打ち取ることに成功した。
八番はピッチャーの吉村であるが、彼は打撃も悪くない。
バネがあってパワーもあるため、打率は平凡だが、当たれば飛んで行く。
とにかく直球に強いため、曲がりの大きいカーブをゾーンに集めて、小さな変化球でアウトローを出し入れする。
最後にはゾーンよりはるかに高めのストレートを打たせ、外野フライに打ち取った。
もっともこれもまた、打球の方向によってはヒットになるものであったが。
そして九番、直史にとっては嫌な打者がバッターボックスに立つ。
ほとんどどこからでも点が取れるチームというのは、本当に洒落にならない。
(この人で切れば、最終回は一番からか。……一人でもランナーが出れば、四番に回るわけだし)
どうせ敬遠するのであるが。
直史はここで、初めての球種を披露した。
といっても、変わったものではない。あまりコントロールのつかない、速いストレートである。
とにかく外角ボールになる程度にコントロールをつけたはず球は、ワンバンした上にキャッチャーも捕球出来なかった。
出来れば普通に外角に外れてほしかったのだが、そう上手くはいかない。
続けて投げたのは、すっぽ抜けたように見える、顔近くのゆるいストレート。バッターはかすかに動いたが、動かなくても当たらなかったろう。
万一にでもデッドボールになると困るので、避けてくれる顔付近を狙ったのだが。
そしてここで、大きく曲がるカーブ。ゾーンだが、アウトローに。
入っているコースだが、曲がりが大きすぎてボールに宣告された。
(今のは痛いな)
たとえ同じコースに投げても、キャッチャーのミットがわずかに流れればストライクもボールになる。
三年の捕手は悪くはないが、ジンほどは徹底して捕手としての役割を果たせてはいない。
(まあ、中学時代に比べればはるかにマシだ)
あの、直球も変化球も、全力で投げられなかった頃に比べれば。
――そう、全力で。
全力で、いつから自分は投げるのをやめたのだろう?
中学時代、先輩が夏で引退し、部員数が九人を切った。
他の部から兼任で参加してくれた者もいたが、本職にかなうものなどそうそういなかった。
直史が投手に専念したのは、二年の夏が終わってから。上の投手がいなくなり、一番ストライクを取れる直史がピッチャーとなった。肩も強く、球威もあったため、誰も文句は言わなかった。
だが直史の能力は、傑出しすぎていた。
ストレートをキャッチャーが捕れない。弱小校ゆえキャッチャーの控えもなく、球威を求めることはしなくなった。
変化球を磨いたが、曲がりすぎる変化球は、キャッチャーがまたしても捕れない。よって変化球の種類を増やした。
直史は小器用に手先で球を投げ、体に負荷がかかるようなことはしなかった。
一日に300球は投げ込みをしても、それは狙った場所に確実に投げるというものだった。
とくに低め。そのコースに上手く投げると、硬球は角度のついた壁で跳ね返って、グラブの中に収まる。
捕手を必要としない、直史の考えた練習であった。
つまりそんな直史は、確かに全力での投球というものを、したことがない。少なくとも最後の一年は、球威を増すことを考えなかった。
だが、今の状況なら。
ボール三つ。ストライクをここから取るのは難しい。
引っ掛けさせて内野ゴロというのが理想だが、そうそう上手くもいかないだろう。
そろそろ相手も、直史がゾーンには変化球しか投げていないことに気付いている。
試すべきだ。直史はそう思った。
失敗したら、すぐに戻す。だがもしも成功すれば――。
「どうした、ナオ」
マウンドに来た先輩捕手は、声をかけながらも自分自身が不安そうな面持ちでいる。
それに苦笑するほどの余裕も、直史にはない。
もしこの、奥の手とさえ言えない奇策を用いるとしても、その時のキャッチャーはジンになる予定だった。
「先輩、すごく変な球がいくかもしれませんけど、ガンちゃん程度の制球力はあるんで、なんとか捕ってください」
「変な球って……お前まだ他にも、球種あるの?」
一応直史は、投げられる球種は全て伝えてある。
もっとも今までに全てを投げてきたわけではない。出し惜しみというだけでなく、変化があまりなくて意味がないとも思ったからだ。
そしてこれから投げる球も、別に特別な変化をするわけではない。
だが、初めて見た――対戦した打者であれば、間違いなく戸惑うはずだ。
心配なのは、キャッチャーさえもがそれに惑わされないかだが。
直史は、初めてクイック以外で投げる。
上体が引き絞られ、背中が打者に向けられる。
それを見た、球場にわずかにいた往年のおっさん野球ファンは、誰もが一人の男の存在を思い出した。
そしてその独特な投法の名前も。
トルネード投法。
投球動作で自分の背中を打者に見せるほど捻ることによって、その回転力をボールに伝える投法である。
その習得者は極めて少なく、だがアメリカではむしろ日本よりも使い手が多い。
しかし往年のおっさんファンでさえ、そこから先は見たことがなかった。
胸を張った直史の腕は、地面と水平に振られていた。
トルネードサイドスロー。
理論的なことだけを言うなら、トルネード投法の捻りを、最も活かすのはサイドスローであるのは確かだ。
事実サイドスローから投げられた直史の球は、上からの直球とほぼ同じスピードでゾーンに収まった。
呆然と見送る打者に、味方に、敵に、観衆たち。
キャッチされた後動かない先輩捕手に、直史は手を振った。
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