第9話 真打登場
ホームでのクロスプレイでタッチアウト。一死一・三塁のピンチを脱出。
だがその最良の結果へ払った代償は、あまりにも大きなものであった。
ベンチに戻ったジンだが、右手の甲の傷は、それなりに深く長い。
「これは……すぐ病院に行くべきだな」
普段は置物の監督も、その判断に迷いはない。教師として高峰は命じる。ジンも冷静に考えれば、これはそれしかないと分かる。
「痛みはそんなにないんですけどね……」
「ハイになってる状態なんだろう。じきに痛みが来るぞ」
露出した肉の間から、ぽつぽつと血が粒のように湧き出てくる。
痛みがないのは本当だが、このまま続けてプレイ出来る状況ではない。
五回が終わって、グラウンド整備の時間で、メンバーの多くはベンチを気にしながらも器具を扱っている。
ここで治療の時間は充分に取れるが、その程度でどうにか出来る傷でないことは確かだった。
しかし、痛い。
傷などよりも、この状況が痛い。
(勝てたかもしれないけど……)
ジンの見立てでは、勇名館に勝てるのは、20回戦って一度、それも最初の一回だけだと思っていた。
岩崎の調子がよく、ここまで無失点に抑えているので、限界までは引っ張れると思っていた。
そこからの予定もちゃんと立てていたのだが、それは全て、自分が捕手としてリードをするという前提である。
「すみません、不用意な怪我をしちゃって……」
「心配するな、後は任せろ」
三年捕手が準備をする。一応練習では岩崎の球もちゃんと捕れていた。
だが問題は、捕球技術だけではないのだ。正直に言うと肩の強さだって、ジンとはさほど差はない。
問題なのは、全体への指示だ。
大介はとんでもないスペックを持った選手だが、これだけは自分がやらなければいけない。自分にしか出来ない。ジンはそう考えていた。
「ガンちゃん、先輩と交代してライトへ。ピッチャーはナオが」
「分かった。だからまず病院に」
「勝つのを見届けてから行きます」
監督の言葉も強く拒否し、ジンはこの場に残ろうとする。
「監督としても教師としてもそれは許せない。すぐに病院で処置を受けるんだ」
無理やり傷を合わせて、出血しないようにしている状態だ。
太い血管は切れていないだろうが、断面が見える傷だ。痺れて動かないのは、神経も切れているのかもしれない。
復帰までにどれだけかかるだろうか。
「せめて、交代を見届けてから」
「分かった」
監督が交代を告げる。岩崎は打力を買われてそのまま残し、ピッチャーには直史を。
その間にジンは必死で、直史に言い含める。
「いいか、先輩は中学までのキャッチャーと違って、ちゃんと捕ってくれるキャッチャーだ。だけど、首はたくさん振れ」
それは事実上、リードは自分自身で行えと言っているようなものだ。
「守備のリズムが悪くなっても構うな。とにかく全力で勝ちに行くんだ」
リズムが悪くなる泥試合。それは直史の得意とするところだ。しかし守備陣の緊張がもつのだろうか。
「高低と内外だけじゃなく、緩急も使うんだぞ。あの、三つ目のカーブも」
まだしっかりと練習したとは言えないものまで、ジンは要求してくる。
「シードを取るんだ。そしたら夏の大会でもある程度勝ち進める。その実績で、野球バカになれない野球好きを来年集めるんだ。センバツか夏か、どっちか一度は絶対に甲子園に行くぞ」
それは、あまりにも甘い考えだと、自分でも今までは口にはしていなかったものだが。
最後に大介を見る。
「頼む」
「回ってきたらな」
そしてジンは球場を去った。
六回の表。
グラウンド整備の中断があり、ジンの離脱に伴う交代が告げられる。
そして勇名館もまた、ここで最強の札を切る。
激戦区千葉でも一、二を争う、左腕ピッチャー吉村吉兆。
ストレートは143kmを記録し、ほとんど球速の変わらないスライダーとスプリット、そしてチェンジアップという球種を持っている。あとはカーブも投げてくる。
県内外の強豪校と戦う練習試合を含めても、彼の防御率は2を切る。
弱小相手の公式戦では、ノーヒットノーランまであと一歩という試合さえ珍しくない。大差のついたコールドでは、参考記録で達成している。
これほどの投手を有していても、そうそう甲子園には行けないというのが、千葉県の魔境たる所以だ。神奈川や大阪に比べればマシなのだろうが。
ジンに代わって打席に立つのは、三年の正捕手。打撃もそれなりであるため、ファーストで先発出場するという案もあった。
だが相手の打撃力を考えれば、守備は専門に任せた方がいい。それにいざとなれば代打で使える。
そんな三年生田口は、吉村の前に、三球三振で葬られた。
「速すぎてよく分からん」
「みたいっすね」
打席に立った大介は、真のエースの持つ空気にあてられる。
(雰囲気あるな~。左腕からの140kmってどんなもんだ?)
どこか期待しながら待つ大介。それに対しての第一球は、アウトローへのストレートであった。審判のコールはストライク。
(速いけど、スピードだけならガンちゃんとそんな変わらないはずだよな。でも軌道が全然違う)
おそらくスピンや球持ちがいいのだろう。実際の速度よりもよほど速く感じる。
第二球のインハイに来た球に、大介は手を出した。
バックネットに突き刺さるファール。タイミング自体は合っている。
バットに当てられたことでむっとしたのか、そこから吉村はストレートを続けてきた。
(だけどもう打てるって)
鋭い打球が一塁線。わずかにファール。
吉村は険しい顔をしたが、一呼吸して気持ちを整えたようだ。
(すると変化球か?)
左打者の大介にとっては、大きく曲がる変化球を持たない左腕は、まだマシな相手である。
正直、直史の投げた左の大きく曲がるカーブの方が打ちづらかった。
第四球。アウトローへの絶妙な球。
だが、これが外へ逃げていく。大介は見送った。
速度差からスライダーと判断したが、少し手を抜いたストレートだったら、見送り三振するところであった。
さすがの大介も、この投手からはそうそう打てはしない。
だから一打席目は、見に徹する。
五球目はチェンジアップ。大介の体は大きく泳ぐが、バットは止まる。
低く外れた球は、やはりボール球を振らせるためのものだった。
(今のがチェンジアップか。変化はあんまりなくて、本当に緩急を取るためのものだな。ストレートと同じ腕の振りなのに)
むしろバットを止めた大介が凄い。
速度差を活かした六球目のストレートを、大介はカットしてしのいだ。
緩急の差に、大介はついていける。ストレートの速度を待ちながらも、チェンジアップはカットしてファールにする。
(うん、もう見える)
自分なら打てる。大介は確信する。
しかし、自分にしか打てないのも認めざるをえない。
吉村は素晴らしい直球と、それを活かす変化球、そしてジンがよく拘っていた、緩急をつけるためのチェンジアップを持っている。カーブを投げないのは、おそらく封印したからだ。
岩崎よりも制球力はよく、そして何よりマウンド度胸がすごい。逃げずにゾーンへ投げてくるところが、蛮勇でありながら伸び代でもあるところだ。
(とにかくさっさと、全部の球種を見ないと……)
ストレートもスライダーも、そしてチェンジアップとそこからのストレートもカットしてきた。
あとはスプリットだ。その中から相手の考えを読み、どれかに球種をしぼらなければいけない。
目で殺す。それぐらいの勢いで、大介は絶対的なエースを睨みつける。
そしてマウンドの王様は、そんな生意気な一年坊を生かしてはおかない。
大きく振りかぶってからの、渾身のストレート。
そう見えた球は、胸元の高さから急激に落下した。
大介は見た。しっかりと、その軌跡を。
「バッターアウト」
バットを振らなかった価値は、確かにあった。
「お前でも打てないのか……」
四番の北村が、やや愕然とした表情で問う。
打者としての力量は大介の方が圧倒的に上だと、このキャプテンは既に知っている。
それでも大介が三番を打つのは、後ろに少しでも打率のいい打者がいてほしいからだ。
「球種しぼりましょう。ストレートで押してくるタイプですけど、本人が思ってるほどすごい球じゃないです」
今年の一年は強気なやつが多すぎる。
そう思いながらも北村は、吉村のストレートにヤマを張る。
初球、ストレートと思って振った球は、スライダーだった。
変化は大きくないが、それだけに見極めにくい。
結局力を抜いたスライダーの三連投で、北村は倒れた。
六回の裏。
直史は肩を作らない。
暖機いらずにいきなりそのまま、素のピッチングが出来る。
今は一球でも球を見せるのを惜しんで、そのままマウンドに立つ。
『そりゃお前が、本気で球を投げてないからだよ』
ジンの言葉が甦る。直史のスタミナ、制球力、異常なまでに多い変化球。
それらは全て、直史が力を抜いて投げていることの証明だと。
言われてみればそうかもしれないし、事実コントロールを犠牲にすれば、もう少し速い球は投げられる。
だがジンはそれを、すぐさま直そうなどとは言わなかった。
直史には直史なりの、投球への拘りがある。
(考えてみればバックのエラーを気にして、無理に三振取る必要もないんだよな)
三点差。そして残るイニングは四回。
全てを打ち取るなら打者12人。二点までは与えていいと考えるなら14人。塁を埋めていいなら17人から23人。
それまでに12個のアウトを取ればいい。
これだけ恵まれた状態でマウンドに立ったことなど、直史は一度もなかった。
直史の情報など、岩崎以上に勇名館は持っていない。
中学時代万年一回戦負けの学校の投手で、そしてこの大会もここまで登板の機会はなかった。
背番号20の一年生が選ばれた理由を、これから探っていかなければいけない。
初球、直史はスライダーをアウトコースぎりぎりに投げた。
変化球の際どいところ。左打者は見送り、外から内に入ったぎりぎりのストライク。
(考えてみればこの人捕手だよな。あんまり球種見せるわけにはいかないか)
第二球、求められたコースと球種に、何度も直史は首を振る。
14回目の提案が、ようやく直史を頷かせる。
内角に来る、ストライクからボールへのスライダー。
引っ掛けた打球はファールに。
そして三球目。遊び球はない。
外角。ストライクからボールに逃げるシュートで、空振りを取った。
次の打席にはトップバッター。
直史は何度も首を振る。
ようやく頷いたと思ったら、抜けた球が大きく上へ外れる。
キャッチャーは慌てながらも捕球したが、これは完全に失投だと、勇名館の全ての選手が思った。
最初の打者に対しても、ゾーンぎりぎりか、そこからボールになる球しか投げていない。
強豪校に対する弱小校のピッチャーの、逃げの投球。
そう思わせるための、わざと外した一球だった。
対して二球目、またもすっぽ抜けた軌道。
だがそこから、懐に入ってくる。
大きなカーブ。曲がりすぎるという理由で、中学時代は封印されていたもの。
明らかなストライク。そして第三球。
左打者のアウトローへ、これまたぎりぎりのシュートが入る。
追い込まれた打者へ、やっとまともなストレートが、上に大きく外れる。
何度も何度も首を振り、そして投げられた球。
カーブ。軌道が大きく、そしてすさまじい遅さの。
完全にタイミングを崩され、勢いの強い打球ながらもサードゴロに終わった。
直史は感動していた。
普通のサードゴロを、普通にさばいてくれる内野陣に。
中学時代はこれが、頻繁にエラーになったものだ。
実際に打ち取っているとは言え、それなりに打球は速い。
普通の公立高校であるが、先輩たちが真面目に練習してきたことが感じられる。
野球の好きな人たちが、一生懸命に部活でやる野球。
甲子園の地を狙ってはいないだろうが、無為に敗北することを良しとはしない。
(甲子園か……)
夢見たことなど、一度もない。
だが、あの計算高いジンが言ったのだ、可能性はあると。
甲子園を目指す前から、野球に関連して食べていくと、未来を考えていたジンが。
そして直史も、それには賛成だ。
ジンが残した素直すぎる欲望を、叶えてやりたいと思ってしまった。
(あと打者10人を、二点まで取られてもいい。いや……)
横目にわずかにショートを見る。
この試合、大介には確実あと一度は打順が回る。
ならばあと三点は取られてもいいのではないか。
(いやいや、いかんいかん。まずは打者を一人ずつ)
相手の四番黒田にも、あと二回は回るのだ。
大事なのはその前の打者を塁に出さないことだ。ならばホームランを打たれても二点。
二番打者。一番打者よりもむしろ、この打者の方が岩崎にとっては嫌な相手だったろう。
とにかく粘り、球数を投げさせ、球種を引き出す。
足の速さが逆ならば、間違いなく一番が合っている。
(ボール球の見極めがいいってことは、ボール球を投げる意味がないってことだな)
また何度も首を振りながら、直史は初球を投げる。
内角胸元。わずかに高いところから、少しだけ沈む。
なんちゃってスプリットだ。だがこれで、案外ゴロは打たせることが出来る。
もっとも中学時代は、ゴロだとエラーの確率も内野安打の確率も高まるので、三振の次に優先すべきは内野フライだったが。
ストライクながら、ボールの軌道を見切られた感じがする。
(この人も見切ってくるタイプか。なら、これでどうだ?)
すっぽ抜けた感じのボールが、ワンバンで捕球された。
慌ててキャッチャーが駆け寄るが、もちろんこれもわざとである。
「わざとってお前……」
「ノーコンだと思ってもらった方がいいんですよ。だってコントロールが完璧なら、リードも読まれやすいし」
「そりゃ分かるが……。審判の印象も悪くなるから、ほどほどにな」
審判の判断とは、確実なものではない。
人間のすることであるから、当然のようにミスはある。
それに腹を立てるかつけこむか、そこがピッチャーの度量である。
続いて胸元へのストレート。打者は仰け反ってこれをかわす。
(もしこの人を塁に出して、次の人まで出したとしても、四番は敬遠すればいいし)
開き直った直史の次の球はカーブ。
ゆるく、そして大きく曲がる。
バッターのスイングは上手くそれをとらえられず、ファールグラウンドに打球が飛ぶ。
(ツーストライクからなら、これを引っ掛けてくれよ)
アウトロー。最も投球術の基本であるそのコースへ、ストライクぎりぎり。
カットしようとしたそのバットの先で、わずかにボールが沈んだ。
ファーストゴロ。三者凡退である。
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