第4話 「播磨阿闍梨《はりまあじゃり》
「誰かー! 誰か助けてくれー!!」
何度も繰り返した時と同じように、禎太のSOSは無情なまでに青い水平線と、波同士がぶつかる音に呑まれて消えた。
禎太は泣き喚きたいのを必死で堪え、体力を温存する為に枝葉を重ねて作った簡易テントの陰に膝を抱えて座り込んだ。島に置き去りにされてから、既に一週間が経とうとしている。
異変に気付いたのは、迎えが来るはずになっていた三日目の夜。待てど暮らせど一向に現れないボートを心配し、渡された携帯でプロデューサーに電話をかけた時。
事前に確認した時には確かに使えていた携帯のSIMカードがいつの間にか抜かれていて、電話をかけることは不可能になっていた。当然、Wi-Fiも無い。
「きっと海の状況が悪いとかで、迎えに来る予定が明日になったんだ。きっとそうさ」
普段なら言わないような独り言をわざわざ口に出し、その夜はもう眠ることにした。朝になって島に到着した貝塚が起こしてくれることを信じながら。
四日目になると、焦りと恐怖がいよいよ禎太の心を蝕み始めた。来ていた上着を棒に括り付けて旗を作った。海の向こうへ助けを呼んだ。砂浜に大きくSOSと書いた。しかしそのどれもが虚しい徒労に終わり、焦燥はさらに大きくなるだけだった。
五日目。とうとう食料問題が深刻になり始めた。僅かに釣れていた魚は、禎太の存在を認識したのか、それとも生態による活動の変化なのか全く姿を見せなくなり、年末ということもあって木の実も見つからない。もし食べ物が取れなかったらと渡された三日分の非常食は、どんなに節約しても二日程しかもたなかった。
そして七日目現在。禎太は水平線に傾き始めた夕陽を眺めながら、最後に残った非常食のビスケットを一枚、力無く口へと運んだ。味や食感は、何も感じなかった。
「もうすぐ決勝だ……」
決勝当日の入りは十七時。つまり、あの夕陽が水平線に沈む時、禎太は大日テレビに居なければならないのだ。
「はは……江川のやつ、今頃焦ってるだろうな」
相方が現れず、楽屋で独り大汗をかいている江川の様子が目に浮かんだ。
「捜索届とか出てるんだろうか……」
赤く燃える夕陽が、もう半分近くも沈んでいた。それに比例して、闇の領域がどんどんと広がって来る。
「芸人のネタでも最近無いぞ……無人島に漂流して、とか」
やにわに立ち上がると、禎太はよろよろと海へと入っていく。
「行かなきゃ、間に合わない」
膝、腰、胸。絶海が体を引きずり込む。
「早く……行けよっ……」
顎の下まで海水に浸かった所で、足が止まった。波が口の中に飛び込み、濃い潮の匂いが鼻に侵入する。あと一歩踏み出せば、完全に海の中へと沈んでしまうだろう。しかしその一歩が、あと一歩が踏み出せない。海の向こうに、その先に、行かなければならないのに。
「ちくしょう! ちくしょう! 行かせろっ、決勝に行かせろよ! 最後の、唯一のチャンスかもしれないんだ! 俺を決勝に行かせろよ! ちくしょぉおお!!」
喉の奥まで容赦なく海水が流れ込んできても、禎太は叫ぶことをやめなかった。慟哭は無情にも波間に消え、夕陽はその姿を隠そうとしていた。
「あ……ああ……待って、待ってくれ。消えないで……」
タイムリミットを告げるかのように、とうとう太陽は見えなくなった。世界は夜の闇に覆われ、禎太の心もまた熱を失っていった。
目を覚ました禎太は、自分が無神島の砂浜に大の字で打ち寄せられているのに気づいた。
「何時だ、今?」
時計は無い。頭上にある星の位置や傾きで時間を計る芸当も、禎太にはできない。これは何かの間違いじゃないかと、これも含めて全部趣味の悪いドッキリなんじゃないかと強く思い込んだが、そこには残酷な、ひたすら残酷な現実があるだけだった。
置き去りにされてから、三十日以上が過ぎた。
世間はとっくに新年を迎えていて、あけましておめでとう。も言われなくなる頃合いだ。禎太は別人のように痩せ細り死んだようになりながらも、まだそこに佇んでいた。一日中浜辺に座り、窪んだ眼で水平線を眺め続ける。
もう、独り言も出てこない。ただ水を飲んで海を眺めるだけの、それだけの生活である。もはや、時間の感覚すら無い。
だが突然、何の変化も無かった海に異変があった。最初はカモメかウミネコかと思ったが、見つめている間にそれは段々と大きくなり、シルエットもはっきりとしてくる。
島に近づいてくるそれを見て、禎太の枯れたはずの喉から悲鳴にも似た音が飛び出す。
「ボート!? ボートだ!! こっちだ! おーいこっちに気づいてくれー!!」
力をふり絞って立ち上がり、渾身の力で両手を振り乱す。
ついにボートの全容が見えるくらいにまで近づいた時、ボートを操舵している人物を見て禎太は息を呑んだ。
「江戸門ーっ!!」
操舵していたのは貝塚では無く、江川だった。江川は禎太の姿を見とめると、笑顔になってボートから降りてくる。
「江戸門!! 大丈夫か?」
「江川……! ごめん、決勝行けなくて、ごめん……!」
駆け寄って来た江川は、その場に崩れ落ちた禎太の肩を抱いた。
「そんなこと気にすんな! お前が無事ならそれで十分だから」
江川は禎太を平たい岩の上に座らせると、心底安堵した様子で言った。
「それに、安心しろ江戸門。俺たちはまだ優勝を目指せるぞ!」
満面の笑みを浮かべる江川の顔を、禎太は見上げた。
「目指せる、って?」
「実は、大日テレビはお前が見つかるまで決勝を延期してくれたんだ。プロデューサーや事務所だけじゃなく、カルチェラタンや他の芸人が声をあげてくれたんだよ!」
それを聞いた禎太は、自分でも気づかないまま涙を浮かべた。溢れた涙は頬を伝い、玉の雫になって砂に跡を残す。
「江川、本当か? 本当にそんなことが……?」
「ああ、本当だ! だから帰るぞ! 帰ってネタ合わせだ!!」
江川が禎太の背をバンと叩いた。
「ありがとう、本当にありがとう……絶対優勝しような」
江川に支えられ、禎太はゆっくりと歩き始めた。
浜辺沿いにある雑木林のうちの一本の木で、一羽のカササギが翼を休めていた。カササギの眼には、少し前に島に現れた人間が、浜辺から離れていく様子が映っていた。
哀れなことに、浜に残った足跡は、一人分のものしかなかった。
「どうも。エドエガワです、よろしくお願いしまーす……はいはい、何ですか?……いや、それは違うよ江川さん、それはね、あなたの出身地が奥多摩だからです……いや軍畑ってどこだよ、青梅の先とかもう別の国ですよ。勝手に国境越えてこないで……」
禎太は幻覚の江川との漫才を口ずさみながら、頼りない足取りで島の中へと入っていった。林を抜け、森を抜け、行き着いた先は島の東部にある渓谷だ。切り立った崖の上からは谷を流れる川が見えないほどの標高がある。その中でも、特に高くせり出した崖の上に足が向かう。
禎太の眼には崖ではなく、舞台上へと続く道が映っていた。人生を一夜で変えうる、栄光への道が……
「さあ、出番だぞ江川……」
脳内で出囃子が鳴り響き、駆け出す。当然道など無い。禎太の体は、怪物が口を広げたような谷底へ、真っ逆さまに消えていった。
「なんで……?」
冬の僅かな、だが透き通るような日差しを受けて、禎太は目を覚ました。目の前の景色から察するに、どうやらここは島内陸の開けた高原地帯らしい。蔓でしっかり編んだハンモックが置かれ、それに寝かされている。
「なんでこんなところに……決勝は? そうだ、江川が迎えにきてくれたんだ。早く行かなきゃ……うっ!」
ハンモックから降りようとした時、体に激痛が走った。到底起動けそうにないほどの痛みだ。それでもなんとか起き上がろうと四苦八苦している禎太に、後方から突然声がかけられた。
「ケガをしているんだ。大人しくしていなさい」
幻覚でもなんでもない正真正銘の、この島に来てから初めて聞いた他人の声。禎太は驚き首を可能な限り回して後ろを見ようとするが、声の主を見つけることはできなかった。
「今痛み止めを煎じているから、少し待ってなさい」
不思議と安心感の得られる声色と、漢方薬のようななんとも言えない匂いが禎太の耳と鼻に届く。
「あ、あの…え……」
まるで会話の仕方を忘れてしまったかのように、禎太の言葉は喉の奥から出ずに消えていった。謎の人物は、禎太の言いたいことを察して答えた。
「あなたは何度か岩で体を打ったのです。だが運が良かった。落ちてすぐ打ったから落下の勢いがそれで殺されたし、何より私が助けるに十分な猶予になったからね」
禎太の視界に、どろっとした黄色がかった緑色の液体が入った碗が差し出された。ハーブの混ざり合ったような濃縮された匂いが、むっと鼻を突く。
「粉末にしたニガヨモギを少量とナナカマド、レンギョウにいくつかの薬草、それに燻したイモリを砕いて煎じた物です。痛みによく効く。飲みなさい」
手渡された碗の中身を、恐る恐る眺める禎太。とても人間が飲んで良い物には思えない。まず色。どろりとした粘度のある黄緑色は、風邪の時の鼻水を思わせる。そして匂い。一つ一つの香りは良いのかもしれないが、香りが強過ぎる上に混ざり合い過ぎて、まるで様々な香水を山ほどつけたような印象を抱いた。
「ほい、ほい」
滝のような汗を流して碗を持ったまま、ぴくりとも動かなくなった禎太にしびれを切らしたのか、謎の人物は手を振り上げ、指先で禎太の首を軽く突いた。
突かれた途端、禎太の首はカクンと後方に反り、ぽかんと開いた口に碗の中身が注ぎ込まれる。
死んだ。体の中からズブズブに溶けて死んでいく。液体が口のなかに入って来た時に、禎太が感じたイメージがそれだった。しかし、うめき声を上げるより先に、イメージが覆される方が早かった。
液体の味はまろやかな甘みとほんの少しの苦みで構成されており、想像していた刺激や激臭は無かった。最後の一滴を飲み下した禎太は、すぐに自分の体の節々に突き刺さった痛みがすぅっと引いて行くことに驚いた。今にも立ち上がって飛び跳ねられそうだ。
「痛みを麻痺させただけ。治ったわけじゃないからまだじっとしてなさい」
逆光の中で目を凝らした禎太の視界が捉えた人物は、やたらビビットなカラーに染めた袈裟のような服を着た、細身の老人だった。そうとうな齢であることが見て取れるがそれ以上に力強く、枯木のような筋肉と骨の下に
「あなたは誰なんです? 俺はなんでここに?」
禎太はようやく落ち着きを取り戻して疑問を投げかけた。
「順番に答えよう、私は……播磨。かつて
自嘲する老人に、禎太は既視感を覚えた。
「ここは
「あなたはここの住人さんですか? 人が住んでるんなら東京に帰る方法も……」
播磨と名乗った老人は、片手で禎太の言葉を遮った。
「こんな世捨て人のことより、君の身に降りかかった受難のことを聞かせてくれんかね。君の身の上を理解した後、私が知っていることを教えよう」
禎太は目の前の岩に腰かけた老人に、自分の身の上と、これまでのいきさつを話した。
「なるほど、つまり君は騙されてここに置き去りにされたのだな」
他人に指摘されて初めて、ようやく禎太は事実を受け入れた。
「でも相方が迎えに来てくれたはずなんです!」
「それは、錯乱した君が見た幻覚だ。この島に最後にやってきた人間は君だけだ。それも数十年振りの」
迎えに来た江川が幻だったと知り、禎太はうなだれた。最後の希望が潰えたような、寒々とした風が胸の中を吹き抜ける。
「俺をハメたとして、一体誰が得するって言うんです?」
「それは私より君の方が知っている。このタイミングで君が消えて益を得るのは誰だね?」
「いや、そんなはず無い!」
禎太の脳裏にカルチェラタンが浮かんだが、頭をふって邪推をかき消した。
「播磨さん、助けてくれてありがとうございました。俺は帰ります」
ハンモックから降りた禎太は、播磨に一礼すると歩き出した。
「どうやって帰るつもりかね?」
「木で筏を作って島を出ます。漁船が通る海路まで出れば、見つけてもらえるはずです」
「無理だ。この島は海流の影響で、流れに身をまかせてたどり着くことはできない。二つの潮の流れが、カーテンのように島を囲んでいるのだ。裏を返せば出て行くこともできん。それに、まだほとんど眠っているとはいえ、眠らない奴もいるぞ」
「それどういう……」
禎太が聞き返そうとした瞬間。耳を
「は? なんだあれ……」
唸り声の主は、ゴリラの体に猪の頭をくっつけたような奇妙な生物だった。平原に隣接する森から出てきたそれは、禎太を見つけると一直線に突進を始めた。
獲物は自分で、アレは捕食者。怪物の目を見て一瞬で理解した禎太は、一目散に逃げ出した。しかし、片や怪我人、片や獣。フィジカルの差は圧倒的で、禎太と怪物の距離はすぐに縮んでいった。
怪物の爪が禎太の首筋に突き刺さるーー寸前、飛んできた碗が、怪物の片目に直撃した。
骨の髄まで凍り付きそうな恐ろしい叫び声を上げ、倒れる怪物。怪物が悶えている間に、播磨は禎太の前に立った。
「こいつは
「ああ! 危ない!!」
怒りに身を任せたか、怪物は禎太ごと闖入者を轢き潰すかと思える程のスピードで突撃をしてくる。
播磨は迎え撃つどころか、力無く立ちつくしている。まるで、銃弾を豆腐で防ごうとしているかのようだ。
六百キロはあるだろう怪物の猛突進を、播磨はその身で受けた。しかし
「え、止まっ、た……?」
怪物はぴたりと動きを止め、台風の日のコンビニ袋のように跳ね飛ばされるはずの播磨の体も、そのままそこにあった。
そして、力無く、怪物の体は大地に倒れ伏した。鼻面には播磨が添えていた所に掌の形をしたへこみがあり、それを中心に渦巻状にねじれた皺が広がっている。
当然だが、禎太は自分が見たものを信じられなかった。まだ幻覚を見ているとさえ思った。
「明王の
播磨は禎太の方を振り返り、軽い口調で笑った。
「今日はもうすぐ日が暮れるし、肉でも食おうや」
ミスターハリマオの復讐 カトウ ユミオ @ipk-okami
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