第10話 女児が漏らして何が悪い

 場所は喫茶店の多目的トイレ。問題は着る服が無いこと。状況としては打つ手がない。何故なら今の私は十一歳の子供だからだ。


「エミさん、大丈夫ですか……?」


 トイレの外からの声。


「え、ええと大じょ……」


 と言いかけてから気がついた。声が子供に戻っている。体格が違うのだから当たり前だ。そして今、その声をお兄ちゃんに聞かれてしまった。


「ゆみ?」

「あっ」


 バレた。次の瞬間、海藤エミではなく、二階堂ゆみの携帯がバッグの中でブルブルと震え始める。


「ゆみ、なんでそこにいるんだ? エミさんは……?」

「待ってほしいのお兄ちゃん。これには深いわけがあって」

「そうか、そうだな、その手は食わん」


 無慈悲に多目的トイレの扉は開かれる。


「……」

「……」


 目と目が合う。逃げ場は無い。

 どうしようかしらこの空気。


「お客様。どうかなさいましたか……?」

「あ、すいませんちょっと連れの体調が悪くなったみたいで……」

「お連れ様ですか?」

 

 店員さんが明らかにお兄ちゃんを不審がっている。

 不味い。とても不味い。このままだとお兄ちゃんがヤバい男扱いされて通報とかされて捕まって、後で無罪と分かったとしても心に消えない傷が残り最終的に私が悪いことにされてお兄ちゃんの心が離れていくわ。

 いえ、まあ、悪いのは私なんだけどね?


「え? ああ、あの……」

「救急車、お呼びしましょうか?」


 店員さんったらグイグイ来るわね。完全にお兄ちゃんを犯罪者に仕立て上げるつもりね。いくら女性の入っていった多目的トイレを開けたままブツブツ何か呟いている男が怪しく見えるからってお兄ちゃんを疑うなんて許さない! このお店もう二度と使わないんだから! それはさておきどうしましょう。ヤバいわ。マジでヤバいわ。ちょっとまってどうしましょう。


「ええ、と……」

「お客様?」


 お兄ちゃん、彼女さんに言い訳する時と比べると大分動揺しているわね。そうよね、超常現象が目の前で起きた上に犯罪者認定にリーチかかってるせいで理性とか正気をチェック入ってるものね。ますます不審者ぶりに磨きがかかり、店員さんが脳内魔女裁判で有罪を下すのも分かる。

 ――でもね、お兄ちゃんを犯罪者にするのは私よ。


「う、うぇえ……」


 私はわざとらしく悲鳴を上げる。店内に一瞬で緊張が走る。できればこの方法は、この方法だけはお兄ちゃんの前で選択したくはなかったが、もう時間の余裕が無い。それに帰り道の着替えの問題も解決できるのだ。一石二鳥のお得な作戦。やるしかない。私は魔女。人間の心なんて捨てられる。私は魔女、私は魔女、私は魔女、よし!


「うぇええええん! 漏らしちゃって……! うぅ……! ごめんなさぁい!」


 十一歳にこれ叫ばせるのはちょっと厳しいものがあるわよね。叶うなら無理と答えて消えたかったものね。在原業平ありわらのなりひらね。露ってそういうんじゃないわ。


「そ、そうなんです! 妹が! その、粗相を!」


 声でかいわねお兄ちゃん。覚えてらっしゃい。乙女の純情を犠牲にした報いは体で支払ってもらうんだから。


「そ……それは困りましたね……」


 とはいえこれで店員さんの声色も明らかに動揺と同情の色に変わった。

 事態は一件落着したと言っても良いと思う。辛い。


「ええ、着替えも持ってきてなかったもので……どうしたものかと……」

「よければ近くでお着替え買ってきましょうか? サイズはおいくつですか?」


 店内に居た他のお客さんの声だ。お兄ちゃんや店員が余計なことを言う前に私は返事する。


「サイズは……グスッ、子供向けの140です……」


 こうして誰も幸せにならない戦いは終わった。


     *


 お兄ちゃんとタクシーに乗って家に戻った私は、そのままパパの書斎に連行された。パパがお兄ちゃんの記憶については上手いこと処理してくれて、最初から私を喫茶店に連れて行ったことにしてくれたが、珍しく、実に珍しくパパが怒っている。やばいわよ!


「さて、ゆみちゃん。今回は大変だったみたいだね」

「途中までは……途中までは上手くいったの……」

「そうだね。でも経過は重視していないんだ。大切なのは結果だ。先日没収した筈の惚れ薬まで勝手に持ち出した上に失敗したね?」

「ご、ごめんなさい……!」


 パパは珍しく仕事の手を止めている。

 そして椅子に座ったままため息をつく。


「きちんとごめんなさいができて偉いね。それに追い詰められてからの機転も、それまでの人間心理の追い詰め方も、決して悪くはなかった。だが君の始めた魔術は君が終わらせなくてはいけなかった。魔術の存在は基本的に秘匿されなくてはいけないからね」

「そうなの?」

「まあこれは説明しなかったパパも悪いんだが……秘密にしておいた方が魔術師にとって有利だと思わないか? だからそのように取り決められているんだ」


 言われてみればそうよね。あんまりお外に持ち出すなっていうのはそういう意図が有ったんだ。沢山持ち出すと人目につきやすいもの。


「ごめんなさい……」

「それにパパはお兄ちゃんの記憶を操作しなくてはいけなかった。あれ結構面倒なんだよ。記憶を操作する間にお兄ちゃんにもしものことがあったら、ゆみちゃんだって悲しいだろう?」

「はい……」

「あと、ゆみちゃんが魔法の道具を持っていることが分かったら、ゆみちゃんが危ない目に遭う可能性もあったよね。それはとても良くないね」

「ごめんなさい……」


 パパは突然困ったような表情を浮かべる。


「さて、参ったな……」

「どうしたのパパ?」

「もっと父親らしく悪いことをした娘を厳しく叱るべきなのだが、僕が言うべきことは言い終わってしまった。いくら悪いことをしたからと言っても、娘に暴力を振るうのは道義的に正しくないしね。父親として僕は君が勝手に魔道具を持ち出さないことや自らの能力の限界を把握して無茶な真似をすべきでないこと、魔法を衆目に晒さないこと、そしてお兄ちゃんじゃない別の素敵な男の子でも探すべきことを伝えてしまった」


 しかしお父さんはお説教をやめる雰囲気ではない。


「そこでお父さんの物を勝手に持ち出した罰を与えようと思う」


 パパは机の上に置いてある杖を手に取り、私に向ける。


「ちょっと……パパ、何を?」

「聞き分けの無い君は、その聞き分けの無さに相応しい姿になってもらおう。ゆっくり頭を冷やして自らの至らなさを噛みしめると良い。ま、歯が生え揃う前の姿になるわけだがね。ウケるなあ」


 そう言い終わる前から私の姿は縮み始める。

 キャンディーの効果が切れた時と同じように、私の身体はゆっくりと幼くなり始めていた。違うことと言えば服まで一緒に私の身体に合わせて変化していることくらい。なによこれ、お父さんったらキャンディー無しで外見年齢自由自在なんじゃないの!


「わ、わ、私が……赤ちゃんに……!? ぎゃあああああああああ! やばい! ちょっとまってパパ! たんま! いやあああああああ! おぎゃあああああああ!」

「しまったな。僕は悪い父親なので赤ん坊の世話が苦手だったんだ。どうしたものかなこれ」


 さらっと怖いことを言って困ったような顔をするお父さん。ちょっとまって、それは洒落にならない。抗議の声をあげようとしても泣き声になる。これは不味いんじゃないか? 相当不味い!

 そしてよりにもよってそんな時、家のチャイムが鳴る。お父さん!? 置いていかないでお父さん!? 普通に書斎から出て来客者対応に行かないでよ!


「おや、サトル君。それにサクラさん。どうしたんだい二人揃って」


 お兄ちゃんなんで!? それにあの女! お兄ちゃんと揃ってこの家に来るとは私に見せつけに来たの!? まあでも良かった。この姿をあの女に見つかったら、撫でくりまわされて愛でられまくって人間としての尊厳を失うところだったもの。


「ゆみちゃんとお茶しようと思って~、ねえ先輩」

「……まあ、俺も彼女も、今回はゆみの世話になったので」


 あ、お父さんの記憶操作、そういう設定になってるんだ。そうよね、情報を引き出す為とはいえLINEであの女の愚痴も聞いてあげたし、最終的に落とす為とはいえ喫茶店でお兄ちゃんのメンタルカウンセリングもやってあげたもの。結果的に私は二人の和解の為に役に立ったと言っても良い! 偉い!


「おおっと、それは間が悪かったねえ。ゆみなら小学校のお友達の家に遊びに行ったところさ。泊まってくるんだ」

「そうなんですか? だったら日を改めた方が良いですね」

「すまないね。今丁度友人の子供も預かっているところだし、騒がせてしまうだろうからまたの機会にしてもらえるかな?」

「ご友人のお子様?」

「ああ、夜には父親が迎えに来ることになっているんだが……」

「あらあら、なにかお手伝いできることはございませんか?」

「まあ僕もゆみを育てた時にはエミに頼りっきりでね、どうしたものかと困っていたんだよね」


 お父さんはわざとらしくため息をついている。

 あ、ちょっと嫌な予感がしてきた。


「男一人だというのに、子育て経験があるのは君だけなんだ頼むと無茶を言われてね……実に困ったものさ。まあ今はネットが充実しているし、ミルクだのなんだの、頑張ってみようとは思っているが」

「じゃあ私たちにお任せください! ねえ先輩!」

「サクラ?」

「ハハハ、若い二人の時間を頂くわけにはいかないよ」

「いえ、ちょっと共同作業したい気分だったんですよ! ねえ先輩!」

「え? あ、ああ……サクラが楽しそうなら、まあ、俺も良いんだけど」

「じゃあ折角だし二人共上がっていってくれよ」


 三人分の足音が、ゆっくりと近づいてくる。


「私、末っ子だったから、こういうのに憧れていたんですよ~!!!!!!!」


 もう泣き声しか出なかった。

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