ヒトミちゃんが目覚めたとき、最初に、すっかり息のあがったわたしの姿が目に飛びこんできたと思います。さすがのヒトミちゃんも困惑しきった表情をうかべ、状況を理解しかねているみたいでした。お、おは、おはよう、とわたしは声をかけました。た、助けてくれて、あ、ありがとう。い、いいつけを破って、ごめんなさい。つか、疲れちゃったよね。く、く、車は近くまで運んであるから、と、とりあえず乗ろうか。きょうはわ、わたしが車をう、運転、するよ。だからヒトミちゃんは、ゆ、ゆっくりとやすんでいてよ。


   *   *   *


 助手席のヒトミちゃんは気が気でないという感じでした。ほとんど悲鳴に近い声をあげ、ぶつかるとかスリップするとか小言をいいます。たしかにはじめはちょっと荒い運転だったかもしれないですけど、すぐになれてきて、そこまでオーバーにいわれるほどひどい運転ではなくなったと思うんですけどね。

 直接的な日差しはすぐになくなってしまいましたが、太陽方向の雲が薄くなったおかげで、あたりは不思議なほど明るくなっています。ライトがなくても走行できそうだったので、しばらく先まで進むことにしました。ヒトミちゃんは自分が運転するとなんども主張しましたが、わたしは譲りませんでした。

 ほどなくして車は海岸を走る道にはいります。わたしにとって、ずいぶんひさしぶりに見る海でした。灰色の巨大な水の塊が、延々とどこまでも先へつづいています。自然と声が漏れます。視線が海に引き寄せられます。だからよそ見運転をするなですよ! ヒトミちゃんが必死になって叫ぶ声が、ぼんやりと聞こえます。

 そんな海を眺める場所に建てられた小ぎれいな別荘を見つけたとき、荒らされてはいるだろうけれどひと晩泊まるには申し分のない物件だということでヒトミちゃんと意見が一致しました。ところがなかにはいってみると、だれかが押しいった形跡もなく、ある程度の食糧の備蓄さえ残されていました。きょうは総合的に見ればいい日だったね、とわたしは冗談をいってみます。めずらしくヒトミちゃんも苦笑して、いろいろあったですがね、と答えます。

 ここには三日ほど滞在する予定にしました。でもけっきょく、ヒトミちゃんはそこに、三週間近く滞在することとなるのですけど。


   *   *   *


 わたしがヒトミちゃんのもとに残るとつたえたとき、予想に反して少年は、とくに驚いたふうでもありませんでした。そうか、と短く答えました。深い呼吸を二回ほどしてから、少年は尋ねます。電池切れになるその日までは、ふたりいっしょにいたいということか。

 わたしはなんとしてでもヒトミちゃんに生き延びてもらうよ。わたしははっきりと意志のある声でそういいました。どうすればいいのか、まだわからない。でも、ふたりでその方法を考える。わたしたちはもう、エンタングルメントされているのだから。

 命を賭けても? と少年は尋ねます。命を賭けても、とわたしは迷いなく答えます。

 少年はポリポリと頭をかいてから、まあたぶんこれは必要ないと思うけど、やるよ、と発電所の地図をしめします。ありがとう、とわたしは答えます。それからできるだけ申し訳なさそうな声をつくってつたえます。せっかくこうして、ここまで来てくれたのに、仲間にならなくてごめんなさい。

 仕方ないさ、と少年は答えます。そしてすこしためらったあと、おずおずといいだします。でもそのかわり、ひとつだけ、お願いをしてもいいかな。嫌ならべつに無理しなくてもいいんだけど。

 何をすればいいの、と尋ねると、少年はすこしだけ顔をあからめ、ひさしぶりに生きた人間と、ハグしたいんだ、とつぶやきました。わたしはちょっとびっくりしましたが、大丈夫だよ、とすぐに答えました。そしてゆっくりと少年に近づき、発電所の地図を受け取りました。そのあとで少年は、やさしくわたしを抱きしめました。せわしなくリズムを刻む少年の鼓動が、わたしの胸につたわります。まるでヒトミちゃんの模擬的生体代謝機能にそっくりな、生きた人間の心臓の音。もういかなきゃ。しばらくして少年はつぶやきます。

 去り際に少年は、ごめんな、とつぶやきます。そのときはその言葉の意味を、わたしはまるで理解していませんでした。なんだろう、と疑問に思いはしましたが、そんな疑問は、すぐに忘れてしまいました。

 その夜、海岸の別荘で眠りにつくすこしまえ、わたしは軽く咳きこみました。


   *   *   *


 一週間経っても熱は下がりませんでした。

 しぶとい風邪ですね。ヒトミちゃんはわたしの額に手を当ててやさしく呼びかけます。なにか欲しいものはないですか。とくにないかな、とわたしは答えます。そのあとで言葉を足します。強いていえば、ヒトミちゃんとマリオカートで対戦したい。ヒトミちゃんは呆れたように軽く首を振って、ヒカリはすぐ興奮するからダメですよ、といいました。

 毎日のように、わたしはパイン缶を食べさせてもらいました。こういうときは、フルーツはからだにいいですからね、とヒトミちゃんはいいました。贅沢だねえ、とわたしは軽口をいいます。それからちいさく、ごめんねとつぶやきます。ヒトミちゃんは、なにも答えませんでした。

 きゅうに激しく咳きこんでとまらないときは、ヒトミちゃんはわたしのからだを強く抱きしめてくれました。わたしもしがみつくように、ヒトミちゃんのからだを抱きしめます。ヒトミちゃんの体温が、わたしにはとても心地よく感じられます。息ができなくて苦しいのも、忘れてしまうくらいに。

 いちどだけ、つい口走ってしまった日があります。わたしはあと、どれくらいもつのかなあ。ヒトミちゃんはなんでもなさそうに、馬鹿なことをいうなですよ、といいました。こんな風邪程度で人間はすぐには死なないです。元気になって、また「がっこう」がはじまるのが嫌だからって、そんなくだらないこというのはやめるですよ。

 もちろんヒトミちゃんには、もうなにもかもわかっていたのですけどね。

 最期の一週間は、とても有意義な時間でした。わたしはなにもかもをヒトミちゃんに話しました。大好きだということも、いっしょに過ごした時間がどれも楽しかったということも、「がっこう」だって、嫌いじゃなかったということも。それから少年のことも、思念波のことも、発電所のことも。わたしはヒトミちゃんに尋ねます。ヒトミちゃんは、レギュレーションを書き換えたの? 書き換えてないですよ、とヒトミちゃんは答えます。書き換えようとも思いませんでしたよ。どうして? だって、とヒトミちゃんは答えます。書き換えたところで、なにも変わらないですからね。レギュレーションがあろうがなかろうが、わたしはヒカリを、大好きですから。

 夜、三十分おきに激しく咳きこむわたしを、ヒトミちゃんはそのたびにやさしく抱きしめます。もうあまりしゃべる体力もなくなってきていたのですが、わたしはからかうようにちいさく笑って、ヒトミちゃんにささやきます。どうしたの、ヒトミちゃん、涙目だよ。なにいってるですか、とヒトミちゃんはいい返します。わたしに、そんな機能は、ないですよ。

 意識が混濁をはじめて、時間軸がごちゃごちゃになってきたころ、ふいにわたしは少年のハグのことを思い出しました。なんだかちょっとだけ嫌な気分になりました。無理にからだをベッドから起こして、ヒトミちゃんを呼びます。近づいてもらったヒトミちゃんのからだに、飛びついて、ぎゅっとしがみついて、それから、くちびるとくちびるをそっと触れ合わせました。たぶんそれで、更新したかったんだと思います、わたしがこの世で一番好きなのは、ヒトミちゃんでしたから。濡れてすこしつめたいヒトミちゃんのくちびるの感触を、わたしはずっと、忘れません。

 手紙を書いたよ。最期の瞬間、わたしはそうつぶやきます。よかったら、探してみてね。もっとほかにもいいたいこと、つたえたいことは山のようにありましたが、ともかくそれが、わたしがヒトミちゃんに送る、最後の言葉になりました。


   *   *   *


 二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ


 万葉集106、大伯皇女おおくのひめみこがその弟に向けて詠んだ歌です。彼女のもとでつかの間の親しい時間を過ごしたあと、険しい山を越えて死地となる都へ戻る弟の、つらい道のり。ふたりで力を合わせても大変なあの山を、あなたひとりでどうやって越えていくのだろう。祈るようなその想いが、こめられています。


   *   *   *


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