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 急に、完全な暗闇が目のまえにあらわれます。静寂がおもく肩にのしかかります。じっと待っていても、なんだか息苦しいような気がする厚塗りの闇。落ち着かない気分。こころのなかで十、数えたあと、壁から背をはなして遠近感のない闇のなかへ慎重に足を進めます。ヒトミちゃんのベッドにたどりつきます。ヒトミちゃんのすぐとなりに腰をおろします。からだを寄せると、わたしの肩がヒトミちゃんの肩に触れます。反応はありません。ぴくりともしません。ヒトミちゃんは完璧に静止しています。自律システムはシャットダウンされ、模擬的生体代謝機能もオフになり、息づかいも、脈動も、触れたことによるかすかな反射動作さえもありません。日に一度のメンテナンス。システムエラーチェックのための内部自己診断。もうなんどもくり返しているはずなのに、いつだって、この時間は怖くて怖くてしょうがなくなります。このまま目覚めなかったらどうしよう? なにか間違いがあって、もう起きなかったらどうしよう? 落ち着かない気持ちのまま、ヒトミちゃんの頬に顔を寄せます。瞳を閉じたヒトミちゃん。おおきなひとつきりの目は閉じられて、なにひとつ、わたしのことも、見てくれません、その瞳に光はとおりません。いまは、エンタングルメントは発生しないのです。

 わたしは先ほどの脱衣所の鏡に映った自分の姿を思い出します。ふたつ目の、奇妙でぶかっこうなわたしのみにくい顔。ちいさな目、かたちの悪い目。ヒトミちゃんの瞳は堂々として、かわいい顔立ちの真んなかにふふんと自然におさまっています。わたしをじっと見つめる目、不満げな目、考えごとをしている目。ヒトミちゃんの目は生きています。それ自体がいきものみたいに。だからこうして、まぶたを閉じて、ぴくりとも動かなくなって、わたしが触れてもなにも反応してくれないヒトミちゃんの姿を見ていると、なんだか足の内側がぞわぞわとふるえてくるんです。

 不安の真っ黒な波がおなかのなかで七回うねったあと、前触れもなく部屋の明かりと、空調の低いうなり声とが戻りました。かわいた光がぱっとわたしたちを包みます。あわててヒトミちゃんからはなれます。閉じたときとおなじようにゆっくりと目を開いて、ぼやけた焦点をすこしずつ合わせながら、ヒトミちゃんはぎこちなく動き始めました。だから、心配しなくていいのに。しばらくして、やっと声が出せるようになってから、ヒトミちゃんはいつもよりもずいぶん低いかすれ声でそうつぶやきます。してないよ。わたしは笑って答えます。ちゃんと起きるって、わかってたよ。

 もう眠ってもいいですよ。ヒトミちゃんは立ちあがって、わたしにベッドをゆずります。眠いですよね。ありがとでした。わたしはふとんにもぐりこんでから、きょうはいっしょに寝ようよとヒトミちゃんにもちかけてみます。いいですよ。案外すなおにオーケーしてくれて、わたしのつくったふとんのすきまにはいりこんできました。ヒカリはとてもあまえんぼうですね。向き合った顔がすぐ近くにあって、ドギマギして、えへへと笑います。まくらが替わると眠れないというやつですか。ヒトミちゃんはおおきな瞳でわたしを見つめます。ぽつりとつぶやきます。ヒカリ、いい匂いですね。

 ヒトミちゃんみたいにかわいくはないけどね。じっと瞳を見つめ返してみますが、すぐに気恥ずかしくなって、目をそらしちゃいます。ヒカリはかわいいですよ。ノーモーションでヒトミちゃんは返します。髪もさらさらで、表情ゆたかで、すてきですよ。顔が熱くなるのを感じながら、わたしは反論します。でも目がふたつもある。

 ヒトミちゃんの瞳はこういうとき感情ゆたかです。すごくわかりやすい。あのですね。心底あきれきった声でヒトミちゃんはいいます。人間には、というか一般的な脊椎動物には、通常目がふたつあるですよ。ひとつしかないのがおかしいです。奇形です。

 じゃあ、ヒトミちゃんはどうしてひとつ目に設計されたの? わたしは尋ねます。

 設計者のことはわかりかねますが。ヒトミちゃんはすこしだけ目をそらします。まあ、たぶんそういうのが流行っていたんでしょう。

 流行っていた。

 異常態を愛でるという嗜好もあるですよ。ヒトミちゃんはきっぱりといいます。ヒカリが理解するかどうかはわかりませんが。

 わたしはヒトミちゃんを愛でるよ。もういちど、ヒトミちゃんの瞳をまっすぐ見据えてわたしはいいます。ヒトミちゃんが異常態かどうかは、わからないけれど。

 実際のところ、わかりやすい標識ということだと思うですよ。ヒトミちゃんもわたしの顔をじっと見つめてつづけます。つまりひと目で、あれは人間じゃないとわかるように。珪禍論なんて言葉もありましたが、人間じゃないものが人間を擬態するということに、不安をいだく人も多かったです。わたしたちが根本的に人間に尽くすようプログラムされているにもかかわらず、自分たちを騙すんじゃないかと、怖がるですよ。

 わたしは怖くないよとつぶやくと、明日からは「がっこう」が始まるから怖くなるですよ、とヒトミちゃんはいいました。ひえっ。冗談っぽくいって、ふとんを顔に引きあげます。おやすみなさいです。ヒトミちゃんはわたしの頭をなでてから、部屋の明かりを切りました。ゆっくり休むですよ。

 その夜見た夢のなかにまた貴族さんがあらわれました。貴族さんはずっと遠くにいて、こちらに背を向けて立っていました。貴族さんの目はふたつあるのかな。気になって、確かめてみようと駆けよろうとすると、だから近づいちゃダメですよとヒトミちゃんは怒って目からビームを発射しました。直撃した貴族さんは吹っ飛んでいきました。おーこわ。

 目覚めるとヒトミちゃんはすぐとなりで変わらない姿勢のまま見守っています。おはようです、とささやくように声をかけます。おはよ。わたしも声をかけます。それからちいさく笑って、変な夢を見たよ、と伝えました。ヒトミちゃんは唇をとがらせて、どうせまたろくでもない夢ですね、と不満げにつぶやきます。

 あたり、とわたしは答えます。


   *   *   *


 わがやどの 夕影草の 白露の 消ぬがにもとな 思ほゆるかも


 万葉集594、笠女郎かさのいらつめの歌です。なかなか会えない恋のお相手に詠んだそうです。夕暮れどきの草に宿るちいさな水玉、すぐに消えてしまいそうなその水玉のように切なく、あなたのことを思っています。そんな感じです。

 草が生えているというのは素晴らしいことだと思いました。

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