第2話 天の海に 雲の波立ち 月の舟

 恐怖の「がっこう」第一日め。ヒトミちゃんが発表したシラバスによれば、この一週間で非ユークリッド幾何学の概念をわたしの頭に叩き込むそうです。

 とびきり苦い顔をするわたしなんてお構いなしに、ヒトミちゃんは説明を始めます。

 一般的な幾何学、つまりユークリッド幾何学は、平行線を自明なものとして導入するです。つまりある直線があって、それに平行な直線、すなわち平行線は、疑いようもなく当たり前のものとして存在することを認める。三角形の内角の和が180度というのも、三平方の定理も、この前提があってはじめて成り立つです。この平行線の存在を前提として積みあげられた定理の山が、いわゆるユークリッド幾何学と呼ばれる体系となるです。

 したがって非ユークリッド幾何学とは、とヒトミちゃんはつづけます。この平行線は存在するという前提を取り払うです。平行線はあってもいいですがなくてもいいのです。縛りがひとつなることで自由度があがるです。より柔軟に、幾何学を考察することが可能となるです。

 柔軟に、とわたしはくり返しました。そして考えてみましたが、けっきょくよくわからなくなって質問します。でもそれって意味があるの、だって、実際に平行線は存在してるでしょ?

 ところが違うです。ヒトミちゃんはこともなげに答えます。この世界には平行線が存在しない場所もあるし、逆に無数の平行線が存在する場所もあるです。事実はそう単純ではないのです。空間は歪まないと仮定するのがユークリッド幾何学ですが、実際のところこの世界の空間は歪みうるのです。歪みが起こると、真っ直ぐな線もずれてしまい、だから平行線は自明ではなくなってしまうです。

 なおも困惑するわたしを見つめて、ヒトミちゃんはおごそかにいいます。ヒカリがそんな顔をするのも無理はないです。アインシュタインがそれを提唱したとき、たいていの人はみんなそんな表情をしたです。1919年にイギリスの観測隊が実際に空間が歪んでいることを確かめるまでは。彼らの写真には、映るはずのない星の光が映っていました。真っ直ぐに進むはずの、光はたしかにぶれていたです。それが動かぬ証拠です。アインシュタインの一般相対性理論によれば、空間は歪むです。歪ませるものは重力です。重力が空間を歪ませるというのが、この現実世界のルールです。

 だから、とヒトミちゃんは話を要約します。ユークリッド幾何学ではこの世界を記述できない、非ユークリッド幾何学こそがこの世界の記述に適した枠組みというわけです。したがってヒカリは、非ユークリッド幾何学を学ばなければならない。そういうことになるですね。

 結論には同意しかねるというのが、わたしの本心ですけど。そんな気持ちには無頓着にヒトミちゃんは張り切って、非ユークリッド幾何学の数学的構成へとはいっていきました。


   *   *   *


 やっとこさ、午前中の「がっこう」がおわってお昼ご飯の時間になりました。お昼ご飯はミートソーススパゲティ、おいしい。しかもデザートにパイン缶まで出てきました。あといくつ残っているかは、やっぱり教えてくれませんでした。

 食べ終わるとヒトミちゃんはおおきな瞳でじっとわたしを見つめて、サプリメントの組み合わせを選びます。きょうも健康状態に問題ないですね、とヒトミちゃんは診断します。おかげさまで、とわたしはおあいそをいいます。

 すこしだけ昼寝をしてから、午後はダンスの時間です。きょうはchelmicoのアップテンポな曲を前半に、スローテンポな曲を後半に振り分けて練習しました。いつものように最初の振り付けをヒトミちゃんが指定して、徐々に変更を加えていくかたちです。わたしが踊っているところをヒトミちゃんはじっと見つめて撮影し、リビングの壁掛けモニターで再生して悪いところを直していきます。どっと汗をかきます。でもひさしぶりにおおきくからだを動かせるので快感です。

 見てください。疲れきってソファにしずむわたしに、ヒトミちゃんは最初のころに踊っている映像を示します。こうして比べるとすばらしく上達してるですよ。足もずいぶんあがるようになったですね。ダンスのカリキュラムはいいのかもしれません。実際、ヒカリの心肺機能も向上しているですし、免疫系も高まっているです。効果はあるですよ。

 まあ、楽しいから、いいけど。息も切れ切れにわたしは答えます。水をひと口飲んでつづけます。でもヒトミちゃんもいっしょに踊れたら、もっと楽しいんだけどなあ。

 エネルギーの無駄づかいですよ。ヒトミちゃんはちっとも取り合ってくれません。そして無慈悲に指示します。さあ、呼吸も戻ってきたのでもう一度さっきのところを練習するですよ。


   *   *   *

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